リトアニア その1 奥深き国、見所は「命のビザ」にとどまらず

リトアニアは日本人にとって、なじみ深い人が多いのではないかと思う。第二次世界大戦時、在カウナス日本領事館の杉原千畝がユダヤ人を助けた「命のビザ」の話がよく知られていて、チームシマの2人も出国前、杉原をテーマにしたテレビドラマのDVDを借りてきて見るなど「予習」をしていた。

東西冷戦終結後、リトアニアはいち早く旧ソ連からの独立回復を宣言して、旧ソ連と衝突、日本でもニュースでよく取り上げられていたことをうっすらと覚えている。中学生の時の世界地図ではまだソ連の領土だったのが、大学受験のころにはソ連は崩壊、エストニア、ラトビアを含むバルト三国はいずれも独立国になっていて、学校で正しい知識として学んだことがあっさり覆ることを知った身近な例だった。

訪れてみると、リトアニア第2の都市のカウナスも首都ヴィリニュスも見どころが多く、しかもヴィルニュスは旧市街が歩きやすくて明るい雰囲気もあった。エストニアの首都タリンも歩行者に優しいと感じたものの、両者の違いははっきりしており、タリンでは旧市街に車が入ってこなかったのに対して、ヴィルニュスでは歩道がしっかり整備されていた。

リトアニアは、訪れたユーロ圏の中でも物価が安かった。滞在当時、最も新しくユーロが導入された国(2015年)だったということもあるのかもしれない。食事は安くておいしい店が多く、特産になっているリネンの上質な糸が安価で売っていて、妻のゆっきーは非常に喜んでいた。

 

エストニア・タリンを去る時に続いて長距離バスに乗り、国境を越えてリトアニアのシャウレイへ。わざわざこの街へ寄ることにしたのは、「十字架の丘」が見たかったからだ。シャウレイのバスターミナルから路線バスでも行けるというので、バックパッカーのチームシマはそのプランを採用することに。路線バスを待つ間に、フィンランドでやり残したことをエストニア、ラトビアと2か国挟んだリトアニアでついに達成。

やり残したこととは、フィンランドを拠点とするチェーン「Hesburger」(ヘスバーガー)でハンバーガーを食べること。ヘスバーガーは国際展開していて、英語版ウィキペディアによると2018年現在、フィンランド以外ではバルト三国に各国50店前後、ロシアに40店、ブルガリアに18店あるといい、他は数店舗が存在する国が3つだけ、リトアニアを逃せば店を見つけるのがかなり難しくなるところだった。

と力説してはみたものの、食べてみると、味や雰囲気に特筆するところのない、至って普通のファストフードだった。もともと、チームシマの2人は人工的な食品添加物がたくさん入っている食べ物を好まず、そのためファストフードのチェーン店は避けがちになるが、時にはジャンクフードの類を食べたくなったり、手軽さに負けてしまったりする。この時は両方だった。

バスに乗って十字架の丘へ。バス停からも2キロほど歩いてようやく到着。

この十字架の丘は、ロシア帝国から独立するため蜂起した人たちのために遺族らが十字架を建てたことがはじまりとされ、旧ソ連によるリトアニア占領期には、旧ソ連軍が数度にわたって撤去を試みたものの再び十字架が集まり、現在の形になったという。僕もゆっきーもキリスト教徒ではないからか、あるいはツアーバスや観光客が多く、当初の思いから離れて観光地化されている雰囲気が強かったからか、思ったほどの感動はなく、一通り見た後、足早に現地を去った。

本数の限られた帰りの路線バスに乗り、シャウレイのバスターミナルに戻ってから、さらに長距離バスでヴィリニュスへ。首都に着いてからは、いつもの通り、歩いていける距離に宿泊先をとっていた。日は長く、まだ空は明るかったものの、宿のホステルに着いたときには20時ごろになっていた。

宿はとても居心地がよかった。壁の油絵から出ているにおいが気になったものの、カウナスから帰ってきた後に泊まった別の部屋では気にならなかった。ありがちな話で、どの部屋に当たるかで宿に対する印象も左右される。

翌日は、朝からヴィリニュスの街を1人で散策。

ゆっきーが気にかけていた毛糸屋の前を通って目的地へと向かった。

少し寄り道。手前にあるのが杉原を顕彰するプレート、右奥が杉原を顕彰するモニュメント、そして左奥の建物がリトアニアにおけるホロコーストに関する資料を集めた国立ユダヤ博物館、通称「グリーンハウス」。すべてが写真に収まる位置を見つけるのが難しく、何とか見つけだした。

ヴィリニュスは第一次世界大戦後、ポーランドに侵攻され、第二次世界大戦期にはまず旧ソ連が侵攻、その後はナチス・ドイツが占領、さらに独ソ戦を経て旧ソ連が再び占領、併合されることになった。その複雑な20世紀の歴史は、現在も街に刻まれている。

この時の目的地はKGB博物館(英語表記では「ジェノサイド犠牲者の博物館」)。当初はナチスが収容所として使用、その後は旧ソ連の秘密警察KGBがリトアニアの本部を置いていた建物で、当時、使われていた地下の留置場や拷問部屋などが公開されている。多少の入館料(2018年で大人4ユーロ、学生1ユーロ)がかかったものの、展示も充実していて、華やかな中世の街並みとは別の、ヴィリニュスの悲惨な歴史的側面がまざまざと感じられた。

宿に戻ってチームシマで昼食に出かけた。

リトアニアの名物料理の1つ、パンケーキのお店。うず高く積まれたパンケーキのサンプルが目を引いた。質、値段は文句なし。少し食べ足りなかった。

夕方には、この日の朝、通りかった毛糸屋を再訪。ゆっきーがリネン糸の質、量、安さともいたく気に入って、リトアニアを去るまで何度か足を運んで毛糸を買うことに。店主の女性は気さくな人だった。

旧市街の街並みをさらに歩いた。ふらっと中に入りたくなるような店もちょこちょこあって、歩いていて楽しめた。ゆっきーは、着いた日に街歩きしたときからずっと、この街に既視感があったという。

晩ご飯は早めに、この日買った毛糸や裁縫道具を前に乾杯。笑顔のゆっきーが手にしているのはリトアニア名物の「GIRA」(ギラ)で黒パンを発酵させた飲み物、ロシアでいうクバスに当たる。メニューではソフトドリンク扱いになっていたものの、アルコールが含まれていて、がぶ飲みすれば酔っぱらう。この店ではジャガイモ料理のツェペリナイ、鮮やかなピンク色が特徴の冷製ボルシチといったリトアニア料理も食べて、どれもがおいしかった。

翌日もヴィリニュスに滞在。旧市街の東にある「ウジュピス共和国」へ。

川が蛇行しているエリアに位置していて、「国境線」の橋には案内表示まであった。シールがベタベタと貼られており、橋に吊り下げられたブランコで川遊びする人たちもいて、アーティスティックで自由な雰囲気が漂っていた。

この地区は、退廃した雰囲気を好んだ芸術家や若者が住み着くようになり、1997年には共和国の「独立」を宣言。もちろん本気ではなくて、往来は自由。ウィキペディアによると、今でも芸術家に人気で「パリのモンマルトルやコペンハーゲンのフリータウンクリスチャニアと比較されているほど」だそうだが、さすがにそれは言い過ぎだろう。

夕方、今度は1人で街歩き。すると、角ばった古い車が目に入ってきた。

旧ソ連のころから造られていた「LADA 1200s」。リトアニアの独立回復以前から走っている旧車なのか、それとももっと新しいのか。かつて、このタイプの車が多く街を走っていた時代に思いをめぐらせた。

注意深く地面を見ていると、キリル文字が書かれたマンホールも所々にあり、旧ソ連が支配していた1960年代や70年代の年号がはっきりと読み取れるものも。東大の構内で「東京帝国大学」などと書かれたマンホールを見かけるのとは全く異なる、歴史の重みを改めて感じた。