チームシマの2人による世界旅行は、僕の思いや予想に反してヨーロッパ滞在期間が長くなっていった。当然、いろんな国の街や田舎を目の当たりにしてきた。もしヨーロッパの中で、もう1度行きたいところを1つだけ挙げるとすればどこか、と問われたら、僕は迷いなくベルリンにする。妻のゆっきーも同じ思いのようだ。
東京から出発する前、外国に関する本を図書館で借りてきて読み漁っていたとき手にした本があった。「ヨーロッパ最大の自由都市 ベルリンへ」というタイトルで、ちょっとお堅いイメージのあるドイツの首都が「自由都市」という訳でもないだろう、と軽く思っていたのだが、実際に訪れてみると、本当に自由な空気にあふれていた。
服装もみんな自由だし、どんな生活を送ってもいい、ライフスタイルは自分が決める、思想信条も最低限の一線を守っていればOK。この街で働くにしても、スーツを着て会社勤めに行く方が浮いてしまうんじゃないか、というほど多様性、異質性が認められた街。旅をしていてこんなに楽な気持ちになる場所は、他になかったように思う。
何がこの街をそうさせたのか。先にタイトルを紹介した本によると、ベルリンは「東と西の文化が混ざり合い、市民の3割は外国籍というマルチカルチャーな街」という。そこに強みがあるのかもしれない。
日本にいても、アメリカ発の「GAFA」(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン・ドット・コム)などの「テックジャイアント」が年々、現代カルチャーのみならず生活全般への支配力を強め、さほど敏感ではない僕でさえ閉塞感を強く感じるようになってきた。それらの米国企業が仮に今後こけても、中国の企業群が後ろに控えている。それに対抗できるような文化的素地は、東京には今のところないと思うが、このベルリンには存在している気がする。
話が大げさになった。ポーランドのワルシャワから長距離バスで国境を越えてドイツへ。まずはベルリン・シェーネフェルト空港に向かった。現在のEUの盟主がドイツで、その首都がベルリンだから、首都圏の空港群の存在感は日本でも相当なものだろうと思いきや、そんなことはなかった。当時、日本からベルリンへの直行便はなかった(ちなみに2019年現在もない)。日本でベルリンは、ビジネスはともかく観光地としても、直行便の就航地(フランクフルト、ミュンヘン、デュッセルドルフ)より軽視されているようだ。
シェーネフェルト空港を拡張した国際空港が2020年秋に開港予定のようだが、すでに何度も開港予定が延長されていて、今度も工期を守れるかどうか疑問視されている。ドイツではなく、アジアや南米あたりのどこかの国の話のよう。
中央バスターミナルに着き、鉄道で宿に向かった。ベルリンの鉄道はS-Bahn(近郊鉄道)とU-Bahn(地下鉄)の2種類、それにドイツ国鉄のDBもある。
今回、使ったのはSバーン。車窓からは駅構内のみならず、沿線のあちこちで派手な落書きが見えて、ロシアやベラルーシの街のきれいさが遠く感じた。割れ窓理論は関係ないのだろうかと思うほど、ベルリンの鉄道施設では落書きがそのままにされていた。
宿に到着。オーナー夫妻に迎え入れてもらったら、寝室のベッドが時代がかった雰囲気で面白かった。今回はAirbnb(エアビーアンドビー、エアビー)で予約した宿。エアビーを使うのはウクライナに続いて2度目で、安さと立地で決めた。
ベルリンではアパートの不足から家賃やホテルの価格が高騰、2016年5月からエアビーなどの民泊は禁止された。ただ、そこには抜け道があって、物件の床面積の50%を超えなければ、公的な許可がなくても民泊に使うことは可能らしい。チームシマが滞在した宿もおそらくその仕組みを使っていたのだろう。
夕食を食べに街へ出かけていると、何かと歩行者用信号機に目がいった。この人の形のデザインは旧東ドイツ生まれで「アンペルマン」と名付けられている。1990年の東西ドイツ統一のあと、なくなる運命にあった。しかし、愛らしく独自性が強いデザインから保存運動が起こって、ベルリン州の信号機として認められるようになり、今ではベルリンの大半の歩行者信号機がアンペルマンに置き換わっているという。確かに、汎用型のデザインよりアンペルマンの方が親しみを感じた。
これは赤信号のデザイン。旧西ドイツ発の優れた工業製品のイメージが強いドイツで、旧東ドイツの象徴が身近なところに残っていた。
翌日、チームシマでベルリンを散歩。これは宿のすぐ近くの風景で、格闘技やボクシングを学べるクラブなのだろうか、カンフーパンダの置物が。滞在中、宿に帰ってくるときの目印になった。
鉄道で都心部を通り越して、ベルリンの壁記念館へ。
壁の崩壊から20年近く経っていても、圧倒的な存在感を見せていた。
そこから歩いて行ける展望台。これは旧西ベルリン側から東側を見た状態で、2つの壁の間に緩衝帯と監視塔があった様子が確かめられた。
さらに歩いていると、壁があった場所を示すため、ブロックやレンガが埋められている場所も。
記念館から歩いてすぐのところには、繁栄しているベルリンの街の姿があった。それにしても、街を歩いていると、旧東ドイツにぐるりと囲まれた中に旧西ベルリンが第二次世界大戦後から40年余りも存在し続けられたのはどうしてか、という疑問が湧き上がってきそうなものだが、世界史を学んでいたら答えにはすぐに思い至る。その象徴的な場所を、後に訪れることになった。
この日の昼ご飯はベトナム料理店。2人とも暑さにバテ気味。ベルリンは、スーパーなどで食料品を買う分には物価が安いと感じたものの、外食は西欧価格でかなり高めだった。外食は19%、食料品は7%という付加価値税(VAT)の違いだけでは説明がつかないくらいに差が大きかったように思う。
トイレに行くと、なぜか中田英寿の顔が男子トイレのマークに。「中田」はロシア・ボルゴグラードのW杯試合会場に向かう途中でも見たことがあった。彼はイタリアのサッカーリーグに長く在籍して、ドイツのリーグでは1度もプレーしていなかったと思うが、今でもヨーロッパで人気なのだろうか。店には素人っぽさにあふれた春画も多数飾ってあって、自由な雰囲気だった。
都心部で見かけたアンペルマン。オレンジ色の信号から視線を右に移していくと、後ろの建物に「アンペルマンショップ」が入居していた。行かずにスルーしてしまったが、いま考えると、少しでも足を運んでおけばよかったと思う。
夕方、さらに1人で街歩き。「チェックポイント・チャーリー」と呼ばれる歴史的スポットにバスで向かった。ベルリンのバスは2階建てもあって、景色を眺めるのが楽しかった。
チェックポイント・チャーリーは東西ベルリンの境界線上に置かれていた国境検問所。この写真は、旧ソ連の占領区域からアメリカの占領区域を見た様子で、真ん中の軍服を着た人の写真はアメリカ兵。左端のKFCの右下にある白い看板は、この先は米国占領区域に入ることと、武装解除義務があることを警告していて、冷戦時代の雰囲気を今に伝えていた。米兵の後ろにある検問所は復元されたものらしい。
検問所の近くで自撮り。ベルリンは第二次世界大戦後、連合国軍だった米・英・仏・ソの4か国による分割占領が始まり、米・英・仏の占領区域が西ベルリンに、旧ソ連の占領区域が東ベルリンになった。名目上は4か国による占領という形だったものの、東西ドイツに分かれてからは東ドイツが首都を東ベルリンに置き、西ベルリンは実質的に西ドイツの飛び地のようになっていった。
ベルリンの壁は、西側への人口流出が続いていた東ドイツが1961年に突然、建設を始め、東西ベルリンで自由往来ができなくなった。その中で、西ベルリンは壁の崩壊まで4か国間による協定に守られて、道路、鉄路、空路、海路で西ドイツとの交通が確保されてきた。現地では、そんな重苦しい現代史を紐解くまでもなく、観光客気分で気軽に記念撮影に臨める。平和な時代だと思う。
検問所の近くにチェックポイント・チャーリー博物館という民間施設もあり、博物館のパンフレットには、ベルリンの壁に描かれた有名な作品、旧ソ連のブレジネフ書記長(絵の左側)と旧東ドイツのホーネッカー書記長(右側)のキスが載っていた。ブレジネフは親交の証として各国の首脳によくキスしていたといい、このパンフレットも実際にあった出来事をモチーフにしている。風刺画になると、振る舞いの奇妙さが浮き彫りになって面白い。
近くのツアー会社まで歩いた。旧東ドイツの大衆車、トラバントを発見。一目でもいいから見てみたかった車で、見つけた時はうれしさのあまり声を上げた。見ての通り、トラバントを運転してベルリン市内を巡ることができる観光客向けサービス。東京でいえば、一時期話題になったカートツアーといったところか。
ふらっと立ち寄ったスーパーで。この棚すべてが有機、オーガニックのBIOの食材で占められていた。しかも値段はそれほど高くない。ドイツのBIO食材の質量は、欧州の中でもフランスとともに群を抜いていたように思う。
これは宿の近くのスーパーで。使用済みのペットボトル、缶、瓶をリサイクルする機械。買った時のデポジットがそのまま返ってくるわけだが、その額がかなり大きい。ペットボトルなら大小にかかわらず4本で1ユーロといった感じで、日本とは本気度が違う。進んでいるなと思った。