ドイツ その2 ベルリンの色彩に囲まれて

学生時代に見た「ベルリン・天使の詩」は心に残る映画だった。といいつつ、あらすじは今ではすっかり忘れてしまっていて、いい映画という記憶が残っているだけだが、映像として覚えている場面がある。主人公の天使に空から落ちてきた鎧がぶつかって、それまで白黒だった世界が色彩を帯びるシーンだ。

この映画の公開は1987年、ベルリンの壁が崩壊する2年前。この映画において白黒とカラーの世界は、天使から見た風景と人間からみたこの世として明確に区別されている。いま考えると、東西ベルリンの違いを暗喩していたのかもしれない。

ベルリン滞在も実質あと1日となり、まずは1人で都心部に出かけた。

最初は国会議事堂のあたりに。東西ベルリンの境界に近いところにあり、こちらは旧西ベルリン側。朝から観光客で一杯だった。

続いて、ブランデンブルク門へ。ここは旧東ベルリン側に位置していた。後に行ったパリの凱旋門と比べると、存在感はあまり強くなかった。

さらに歩いて「モール・オブ・ベルリン」に移動。現代的で大規模なショッピングモールで、都心部にもこんな場所があったのかという印象。ワルシャワの宿に置き忘れてしまった変換プラグを買った。

さらに歩いていくと、前日も見かけた旧東ドイツ製のトラバントのツアーに出くわした。このトラバント、品質が悪く、最高時速90キロまでしか出ないとか、晩年期にはボディーが段ボールのような素材でできていたとかいなかったとか、それでも旧東ドイツで新車を手に入れようとしたら10年以上待たされたとか、いろんな逸話がある。

 

学生時代に見た映画の中で、豚がトラバントの車体をむしゃむしゃと食べていたシーンが衝撃的だった。浦沢直樹の漫画「マスターキートン」で主人公のキートンが運転している姿を読んで、一度でいいから見たいと思っていたら、今度は動いている姿を見ることができた。

ベルリンは、多くの車が走っている割には大気がクリーンに感じて、厳しい排ガス規制のおかげか、と思っていた。トラバントが走った後の排ガスがひどくて、僕の思ったことは正しかったと証明されたようだ。

ナチス政権時代のドイツの動きを追いかけた屋外展示場の「テロのトポグラフィー」にも足を運んだ。展示の背後にあるのはベルリンの壁。

ここは秘密国家警察(ゲシュタポ)本部の跡地で、地下牢だった場所の一部が展示場として使われている。

宿に帰る途中で、ラトビアのリガで見かけた「ユナイテッド・バディー・ベア」と再会。本家・ベルリンのクマに出会えて少しうれしかった。遠くには観光用の気球も見えた。

今度はチームシマで昼ご飯を食べにいった。「匠ラーメン」というお店。余計な食材は入っておらず日本のラーメンに忠実だったものの、味は素人の手料理感が漂っていてイマイチ。トイレを使うには店員からドアの鍵を借りなければいけないシステムに、異国を感じた。

これは街中で僕が郵便ポストを撮っている様子。

逆から見た写真。前日、この日とゆっきーの旅の目玉、毛糸屋さんもいくつか覗いてみたものの、買うまでには至らず。

ユナイテッド・バディー・ベアを真似た置物も街の酒場で見かけた。

「ホロコースト記念碑」にも足を運んだ。僕は午前中にも1人で足を踏み入れていた。まだ日本にいるとき、2人でNHKのEテレの語学番組を見ていたら特集されたことがあり、ベルリンに行ったら訪れようという話をしていた。ナチス・ドイツによるホロコーストで犠牲になったヨーロッパのユダヤ人を追悼する施設で、コンクリート製の石碑が格子状に2,711基も並んでいる。

端にあるコンクリートはさほど高くないものの、真ん中に進むほどに身長を超えて高くなっていき、不安や戸惑いに駆られるような思いが募った。当時のユダヤ人の移りゆく心境を表したものともいわれている。

チームシマのこの日、最後の目的地はカリーブルストで知られるお店「Konnopke’s Imbiss」。都心から少し離れたUバーン(地下鉄)の高架下にあった。

ドイツのソウルフードの名店は、噂に違わぬ美味しさ。焼いたソーセージにケチャップとカレー粉をまぶしていて、添え物にフライドポテトを付けている。日本でも再現できそうなB級グルメの味だったのも印象を良くした。

夜はさらに1人で外出。都心部にあるソニーセンターに向かった。その名の通り、ソニーなどの出資により2000年に建てられた複合施設だが、8年後にはモルガン・スタンレーなどに売却、2010年には韓国の国民年金公団が購入、所有者となった。かつて世界を席巻した日本の家電メーカーが軒並み凋落し、韓国の複数の家電メーカーが台頭していった時期と軌を一にするようで興味深い。

中に入ってみると、巨大な傘がいくつかの色でライトアップされていて、何でも受け入れてくれそうな懐の深いベルリンのイメージを体現しているかのよう。外国人らしき観光客でにぎわっているレストラン「リンデンブロイ」もあった。仕事帰りにスーツを着て飲みに来て流暢な日本語を話している日本人サラリーマンが数名やってきていて、周囲の雰囲気からはかなり浮いていた。その一角だけが東京・新橋であるかのよう。自分も同じ日本人であることを少し恥ずかしく感じた。

そこから赤の市庁舎へ。建物の歴史は19世紀にまでさかのぼる。第二次世界大戦のベルリン空襲で破壊され、戦後、再建されたという。ベルリンの歴史的建造物の多くは旧東ベルリンに位置していたというが、この赤の市庁舎もその1つ。写真からも見えているテレビ塔の近くにも行ってみた。

こちらは旧東ベルリンの時代に建てられたもの。旧東ドイツの恐怖政治の世界を彷彿させるような、薄気味悪いライトアップだった。うがちすぎだろうか。

翌朝。精力的に色々と見て回り、刺激を受けたベルリンを離れる日がやってきた。この街は必ず再訪する、そう心に誓いながら、3泊4日の間、お世話になった宿の共同キッチンにも別れを告げた。