チュニジア その1 チュニスでアフリカの洗礼!? 体調に異変あり

チームシマにとって初のアフリカ大陸、チュニジアのチュニス・カルタゴ空港に、パリから2時間ほどでやってきた。

時刻はまだ18時前だったのに、だいぶ日が傾いていた。南東に移動したからだろうか。日暮れが早くなっているように感じた。

アフリカ大陸に上陸直前。トランサヴィア航空の機内はイメージカラーの緑に彩られていた。

キャッシングやSIMカードの契約は空港であっさり終わり、道を尋ねながらバス停へ。市街地へと向かう635番の路線バスを待っていたものの、いくら経ってもやってこずに時間だけが過ぎていき、19時には辺りは真っ暗。

後からバス停に来た現地人っぽい男性2人組も諦めたため、チームシマの2人も待つのをやめて、流しのタクシーを捕まえて市街まで出た。

旧市街のメディナ地区の近くまで運んでもらい、そこから宿まで移動。新市街で見かけた時計塔。

新市街は思っていたよりも街灯が多くて明るく、ムスリムっぽさも前面には出ていないように感じた。

旧市街・メディナまで歩いていく途中、「地球の歩き方」に載っていた店で夕食。チュニジアではあまり見かけない、ビールが飲める店だった。海鮮やオリーブが交じったチュニジア料理をロバ太郎がおいしそうに見ていた。

周りはおじさんばかり。タバコ臭かったのは残念だったが、味がよく、価格もさほど高くはなかった。

いよいよ旧市街へ。すでに店はほとんど閉まっていて、路地にはごみが散乱、時には汚水もあって、強烈な光景が広がっていた。

今回、泊まるホテルの近くまできた。旧市街は、雰囲気的にはかつてエルサレムで見たようなスークに似ているところもあって、天井のある所が多かった。

無事にチェックイン。部屋まで案内してもらった。宿には中国人女性が泊まっていて、話を聞くとモロッコへの移住を計画しており、北アフリカのアラブ圏を見て回っていて、この宿には5日間投宿し、翌日、出発とのこと。面白い生き方をしている人だなと感心した。

こちらは、同じ部屋にあったシングルベッド。部屋はけっこう広く、トイレもついていた。しかし、トイレは変な臭いがしたので1度も使わず、部屋の外にある共同トイレを利用した。

翌朝、明るくなって宿の中庭から見渡してみると、いかにもイスラム建築という趣。

朝食がついていて、パン食が中心でチュニジアの地元の菓子も置いてあり、思ったより充実していた。

この日は、チームシマで海の見える「青と白の街」のシディ・ブ・サイドと、紀元前からの遺跡があるカルタゴまでおでかけ。明るくなったメディナはこんな感じ。

ゆっきーは暑さ対策も万全…か?

メディナで見かけた郵便ポストは、オランダなどと同じく背が高かった。

昼のスークは激しく混雑。前夜との落差が激しかった。

メディナと新市街を結ぶ勝利広場。

伝統を感じる建物の1階に女性向けの衣服店。ヨーロッパとは打って変わってアラブ風。

派手な柄の服装をした女性2人と、その前方にはノーヘルで3人が乗ったバイクが。こちらもヨーロッパでは見ることのできないような光景だった。

チュニス・マリン駅から郊外列車「TGM」に乗ってシディ・ブ・サイド駅へ。

車内で乗り合わせた子どもたちに付きまとわれるゆっきー。

平日の昼間だったが、意外にもかなり混んでいた。

シディ・ブ・サイドに到着。港のほうに向かって歩き出すと、早速、青と白のコントラストをなす街並みが。

青に映えるロバ太郎。

道端には絵や陶器といった土産物が並び、ツーリスティックな雰囲気を醸しだしていた。

地中海のチュニス湾が見えてきた。

マリーナも見えた。このエリアは富裕層が多そうな気配。

そんななかでチームシマの2人、チームメイトのロバ太郎、ビーバーのはじめの旅仲間で撮影。すでにゆっきーは暑さでバテていたが、何とか笑顔を見せていた。

赤と緑の縞模様がモチーフとなっている「カフェ・デ・ナット」。たまたま入ったが、この街のシンボル的な店のようで、縞模様はかつての聖人の墓に通じる「控えの間」を表していたらしい。

僕はこの店が売りにしてる松の実のミントティーを頼んだら、思いのほかおいしかったものの、ゆっきーは見た目からしてダメなもよう。なかなかいけるのに、もったいない。と思いつつ飲んでもらったら、途中からは癖になる味になったもよう。食わず嫌いは損だなと思った。

店を出てから、街の名物というバンベローニを食べてみた。揚げたてのドーナツという趣で、日本で食べられるものと比べて甘さが控えめというか甘みはあまり感じず、特においしいというわけでもなかった。

列車で3駅離れたカルタゴの遺跡にも寄ってみた。列車は、なんと車両のドアが開いたまま疾走。日本やヨーロッパではまずありえない光景。子どもを連れていたら目を離せないところで、唖然としつつも、アフリカらしさが感じられて楽しかった。

目に付いたのは若干残っている遺構で、あまり数は多くなかったからか、ローマ時代より前の面影はほとんど感じられなかった。写真の背後、中央に見えるのは130年近くの歴史があるサン・ルイ教会。唯一といっていい立派な建物としてたたずんでいたが、夕方で閉館時間に近く、辺りは閑散としていた。

駅に向かう道すがら。この辺りはのんびりした風情で、やはり過日の面影は感じられず。

列車でチュニスに戻り、トラムでゆっきーに置いてきぼりにされて次にきたトラムで追いかける、といったハプニングもありながら、旧市街の近くまで戻ってきて夕食。サラダにクスクスという北アフリカっぽい組み合わせだった。このころには、ゆっきーの体調が悪化気味。波瀾の幕が開けようとしていた。

宿に戻る前に、世界遺産のグランド・モスクにも訪れてみた。とかくごちゃごちゃとしたチュニスのメディナにあって、ここだけは迫力と威厳を感じさせる建物だった。

翌日は、ゆっきーの体調不良が本格化し、ほぼ寝たきり状態に。僕は、次の日に移動を予定していたチュニジア南部の街・トズール行きのバスチケットを買いに、チュニスの南バスターミナルまで向かった。

宿の前はこんな様子で、袋小路の最奥。左のドアが宿の出入口。

メディナの南の方にいくと、青果を中心とした露店の市場も。ヨーロッパにはない風景をまたもや目にした。

翌日の午前11時発のバスのチケットを無事に購入し、今度はトラムで新市街に出てみた。すると、これまでに見たことがなかったようなお店が目についた。これは車のナンバーを売っている店らしく、じっくり見ようとすると、鋭い眼光をした店員ににらまれてしまった。何かやましい商売なのだろうか。

新市街の街並み。メディナと比べて道路幅に余裕があった。

いったん宿に戻り、お腹が減っていたゆっきーのためにツナサラダのサンドウィッチを買ってきて食べてもらってから、再び出かけた。

メディナの中のスーク。アーチ状の建物の天井にすすがついているあたりが歴史を感じさせた。

広場ではギター演奏のパフォーマンスに人だかりができていて、北アフリカ、アラブ圏とはいえ都会にいることをひしひしと感じた。

街で時々見かけたのが、ピアジオ社製のアペ(Ape)TMという三輪車。別名を「ベスパカー」(Vespacar)といい、アペではなくベスパカーのエンブレムを付けている車もあった。僕は日本で同社の「ベスパ PX200FL2」という、他の二輪車にはない特殊なシフト操作を必要とされるクラシックなスクーターに乗っていて、この三輪車にも親近感を覚えた。この車は黄色だが、他に青、赤の車体も見かけて、見事に信号色が揃っていた。

メディナの外れで見かけた壁画。イスラム教関連だとしたら、偶像崇拝にならないのだろうか。妙に気になった。

メディナの外にある高台から旧市街を眺めてみた。白さが際立っていた。

夕方、再び宿に戻り、2人で近場のレストランに出かけた。街のにぎやかさとは対照的に、ゆっきーは力なく、レストランで料理をいろいろ頼んだものの、サラダ以外はほとんど食べられなかった。ゆっきーはもうあの宿には戻りたくないと言っていて、僕はもう2泊しているしあと1泊で出るんだから、と言っても聞こうとせず、新市街に宿を取るよう繰り返し迫ってきた。

宿がどうこうの前に、日本と比べて早めの秋を迎えようとしていたヨーロッパから、真夏を通り越して暑いチュニジアにいきなり移ってきて、ゆっきーの体がまだ順応できておらず、びっくりしているんじゃないかと僕は思っていた。チュニジアの都会の大気が体に合わないのでは、とも考えた。結局、宿まで歩いて戻った。

翌日、ゆっきーは頭痛で動けないというので、この部屋でもう1泊するか、それとも移動するかで口論になった。ゆっきーはチュニスの別の宿でもう1泊したいと言うのだが、動けるならバスターミナルまで行けばいい、と僕が反応すると口論は深まっていき、テレビドラマでよくみかける夫婦げんかのよう。

バスの時間が迫りくる中、最終的には宿の兄ちゃんがタクシーを呼んでくれて、雨が降りしきる中、バスターミナルまで行き、ギリギリ11時に到着!と思いきや、チームシマが乗る予定だったバスは出発した直後だった。何とかここまでやってきたのに!地方都市というよりはおそらく田舎のトズールまでたどりつければ、ゆっきーの体調もマシになるだろうという気もしていたのに。

脱力状態で乗り場のおじちゃんに言われるがままにインフォメーションカウンターに行くと、次のバスが13時発ということで、チケットを手書きで修正してくれた。ゆっきーはベンチでダウンして横になっていたが、とにかくこの街を出るのが先決、とバスを待って、何とかトズール行きに乗り込んだ。