チュニジア その4 ひとまず終結! 海あり砂漠あり遺跡ありの北アフリカ旅

チュニジア滞在も9月18日で9日目。あと3日もするとこの国を後にして、元にいたフランスに戻ることになる。長期旅行中に、ある街を拠点にして別のエリア(今回はヨーロッパからアフリカ)の国に行き、また戻るというのは初めての体験で、フランスに住んでいるわけではないのにフランスがどこか懐かしく、旅を終えるわけでもないのにチュニジアを去るのが寂しく感じるようになっていた。

さて、チュニジア第2の都市、スファックスのホテルにチェックインして、一息ついてから街に晩ご飯を食べに出た。流しのタクシーを捕まえると、この国では初めて経験する相乗りだった。料金システムがどうなっているのかよく分からないまま、居合わせた乗客と世間話をした。

この時、妻のゆっきーが目を付けていたのは海鮮料理店。到着すると、すっかり日が暮れた街の中では一見、そうとは分からないたたずまい。店内も地味な装いながら、1品が20~40ディナール(約800~1,200円)くらいで日本の居酒屋と大差なかった。海鮮の盛り合わせやイカ揚げのようなもの、ビールを注文。料理が届いてみると。

皿にてんこ盛りでかなりのボリュームに、ちょっとした驚きが。おいしかったものの、ニンニクが大量に入っていて、ゆっきーはこの後、おなかを壊してしまっていた。

あっという間にお腹いっぱい。酒はチュニジアに来た日にレストランで飲んで以来で、1週間ぶり。酒が好きな人はここでも周りは男性ばかりで、みんな酒を飲んでいた。ワインボトルをポンポンと開けていて、富裕層が集まっている印象だった。そうなると、思いだしたのはシェニニ村での光景。フランスのテレビ局のクルーが宿への差し入れとしてビールを1ダースくらい持ってきていて、それを受け取った宿の従業員の若者が大はしゃぎしていた。田舎のイスラム教徒がどこで酒の味を覚えるのか、どれだけ敬虔さから遠いのだろうか。杯を交わして楽しそうに談笑している人たちを見ていると、そもそも敬虔でなければならない必要さえ疑問に思えてきた。

しばらく歩いていると、この街のメディナが見えた。

この辺りはチュニスよりも都会の風情。メディナには城壁がしっかり残っていて、古き良き雰囲気も残されていた。

翌日はタクシーでルアージュ乗り場の近くまで移動し、スイーツ屋さんでスファックス名物のジュワージュムを注文。このジュワージュムは、アーモンドやナッツ類、果物、プレーンとイチゴのヨーグルトが入ったパフェのようなもの。大容量でやってきて、見た目だけでも満腹。ロバ太郎もおののいている感じ。

店を出て、ルアージュ乗り場に行く途中で見かけたクラシックカー。クラシックというよりもただ古くなっただけ、という印象。ちゃんと整備されていたらいい車に見えたに違いない。

ここからエル・ジェム行きのルアージュに乗り込んで、あまり待たずに出発。1時間ほどで到着した。次なる目的地は古代ローマの2世紀に建てられたといわれる円形闘技場、コロッセウムだった。ルアージュ乗り場から歩いて向かった。

到着まであと少し、というところで細い路地。

コロッセウムに着いた。壮観。観光客用のラクダまでいた。

入場料を支払って中へ。かなりの規模で、見ごたえ抜群。来てよかったとつくづく思った。

地球の歩き方によると、ここは世界のコロッセウムの中でも3本の指に入る大きさで、保存状態もいいという。エル・ジェムは、ユネスコの世界遺産リストの登録がスタートした翌年の1979年には、早くも世界遺産に登録されている。3階建ての客席の最上階から、ロバ太郎とともに。

チームシマ(僕、ゆっきー、ロバ太郎)とビーバーのはじめで記念写真。階段を上り下りしながら写真を撮っていると、アジア系の韓国人や中国人、西欧系の白人たちも見かけて、この競技場が外国人観光客に人気なのがよく分かった。

競技場の外を眺めたらこんな感じ。田舎町ながら店は多く、開放的で、南部とはやはり雰囲気が違っていた。雨雲が迫ってきたので、早めに切り上げてルアージュ乗り場へ。この日の最終目的地はチュニジア最後の滞在地、スース。この国で第3の都市で、観光地という。

ルアージュは割とすぐ満員になって出発。高速道路を通り、15時過ぎにはスースに着いてこの日の宿泊先へ。この日の宿はエアビーで予約した民泊で、オーナーのリム(Rim)さんが温かく迎えてくれた。少し休んでからメディナ散策へ。

この街のメディナも城壁がきちんと整備されていて、外から見る分にはきれいだった。しかし、中に入ると急にスラムのような光景が広がっていて、思わずたじろいだ。

しばらく歩いていると、白と青に統一された街が見えて、人懐っこい子どもたちもいて、いい雰囲気に変わった。

メディナのスークも、昔ながらの雰囲気。

これはメディナを出た場所。藤棚のように高さが揃った樹木があり、奥には富士フイルムのネオンも。南部の街トズールに続いて、日本企業ってまだ影響力あるんだな、とホッとするような、むずかゆいような、何ともいえない感覚がした。

港の風景を楽しみながらメトロ(といっても地上線の市電)の駅まで歩いていって時刻表を確かめた。帰りの空港に向かう際、使う予定だった。ところが、駅に着いたら激しい夕立に遭って駅で雨宿り。

30分ほどすると止んだので、宿まで戻った。

すると、リムさんの娘さんが帰ってきていて、4人で食卓を囲んだ。ここのご飯がとてもおいしく、ゆっきーがその魅力に取りつかれて、当初は1泊の予定だったのを1泊追加して計2泊することに。

夕食を共にした部屋。豪華な雰囲気が漂っていた。娘さんはアラビア語、フランス語のほか英語、スペイン語を習得している才媛。滞在中に母娘と交わした会話を総合すると、大学進学を機に、父のいるパリに留学したい娘に対し、地元に留まってほしい母親との間で思惑の違いが浮かび上がっていて、平和な中に不穏な空気を漂わせていた。

食後にデザートまで出してくれたリムさん。チームシマがチュニジアでどこに行ったか、翌日の行動予定は、といった話をした。リムさん母娘はリゾート地が好きで、チュニジア南部は好みではなさそう。僕は南部の雰囲気をとても気に入ったものの、当地に色濃く漂う保守的な価値観は、リムさんたちのような人たちには受け入れがたいのではないか、と想像した。

翌日は始動が遅くなり、リムさんが出勤前に用意してくれていた朝ご飯を食べているうちに娘さんが帰ってきて、入れ替わる形でタクシーでルアージュ乗り場へ。

乗り場で目についた果物屋の屋台。うまいこと派手さを演出している風。

この日の目的地は、チュニスからトズールに移動した時にも立ち寄った世界遺産の街、カイロアン(ケロアン)。朝には快晴だった天気は下り坂で、街に着いたのは13時過ぎ。最大の見どころのグランドモスクは14時に閉まるので、早速、見にいった。

このモスクはイスラム教第4の聖地で、670年の創建。7回訪れるとメッカ巡礼1回と同じ意味を持つという。聖地というだけあって、とても落ち着いた空間だった。

手前にあるのは井戸で、左奥には中世から使われていたという日時計も。

奥に見えるミナレットは高さ31.5メートルで、地球の歩き方によると最下段は728年に造られ、イスラム世界で最も古いものとか。手前は雨水を集めて貯水槽にためる装置で、往時のものが残されていた。

もう少し長居したかったが、モスクが閉まる間際で空の雲行きが怪しくなってきたので外に出た。メディナは白とブルーのコントラストがきれいだった。

規模の割に人は少なく、寂れ感が漂うメディナ。

この街でも高い位置に備えられている郵便ポストと写ってみた。

壁の絵と僕のコラボ。

メディナのスーク。建物はスース以上に歴史を感じたものの、活気は雲泥の差。

商品はあっても、人の姿がなさすぎ。

人の少なさを見計らって土産物のラクダたちと戯れるロバ太郎。

メディナの端にあったイスラムの霊廟に立ち寄ってみた。

幾何学模様が素晴らしかった。

メディナを出て、カイロアン観光のもう1つの目玉、9世紀に造られたという貯水池を見にいくことに。途中の道で、下校中の子どもたちと遭遇。

ついでにスイーツ店に立ち寄った。とにかく甘い味付け。チョコレートのプレートには店名と電話番号がでかでかと書かれていたが、買った人たちが食べるから宣伝効果はほぼないと思われる。

貯水池まで到着。あまり趣がないと思ったら、20世紀に修復されたものだそう。

貯水池を見渡す建物で記念撮影。チュニジア国旗が不釣り合いに真新しかった。

砂嵐がやってきて、いよいよ雨が降り出しそうな雰囲気になり、タクシーを拾ってルアージュ乗り場へ。スース行きに乗ると、乗客がすぐに集まって出発。僕はいつのまにか寝てしまい、起きると雨が降っていて、あとすぐで到着だった。

ルアージュ乗り場に着いたころ、道路は大量の水であふれていた。タクシーの乗車待ちの人が多くてなかなか捕まらず、現地語を話せない僕たちチームシマは圧倒的に不利な状況。30分以上待って、客を降ろしたばかりのタクシーをようやくキャッチ、相乗りで宿まで運んでもらった。

宿に帰ると前日と同じようにリムさんがご飯を作ってくれていて、僕は宿代の支払いには少し不足していた現金を調達するために銀行へ。チュニジアでよく見かけたこの銀行のマーク、ゆっきーの「ゆ」の字に似ている気がしてならなかった。

この日の晩ご飯はチキンとご飯のメイン料理に、フランスパンと相性がばっちりのピリ辛料理など。娘さんが大好きな料理らしい。

料理を前に僕と3人で記念撮影。

今度はゆっきーと3人で。この日の食事の話題は宗教で、タブーも気にせずイスラム教や日本の仏教など、いろいろ話した。リムさんたちは、同じイスラム教でも何を信じるかは本人次第、だから頭からヒジャブもかぶらない、とのこと。意思がはっきりしていた。

翌朝、僕がお腹を壊してしまった。出発準備をしていると、お出かけ前のリムさんがあいさつに来てくれた。もっとリムさんの料理を食べたり、話をしたりできたらよかった、と思った。ひとまず、朝食を取って空港に出発。

タクシーに乗ってメトロ(市電)の駅へ。終点といった風情のホーム。

ここから、空港のある駅まで20分で到着。空港の最寄り駅かと思うくらい、駅周辺には何もなかった。

空港は、スースの隣町、モナスティルの名が冠されている。

空港の土産物店で余った10ディナールを使い、名産の布とラベンダーオイルを買って出国審査へ。パスポートを見ると「オー!サムライ!」とかなり陽気な入国審査官。日本人は今でもかなりイメージがいいのだろうか。この男性はラコステの赤いシャツを着ていて、なかなか自由そうだった。

僕のお腹の具合はめずらしく深刻で、フライトの待合中、腹痛になりトイレへ。その後は何とか持ちこたえられた。いろいろあったチュニジア、とにもかくにも旅は終了。チームシマ初のアフリカは、最初からどうなることかと思いながら、どうにかなったものの、体調面での課題を残した。行きと同じトランサヴィア航空に乗って、パリへと向かった。