フランス その3 つかの間のアパルトマン生活! 迫りくるアフリカの影

西欧・北欧の島国への旅を経て、イギリスからフランスへと戻るチームシマに、重い課題が待ち受けていた。ヨーロッパの26か国の間で結ばれているシェンゲン協定により、協定に加盟する国に留まれる期間がすでに1か月を切っていて、西欧・北欧諸国の外に出なければならない日が迫っていたのだ。それはチームシマにとって、アフリカまでの旅のルートを早々に決めて、移動のめどを立てる必要があることを意味していた。

そして、パリでは、現地に住むゆっきーの友達を通じて、現地在住の日本人カメラマンが所有しているアパルトマン(アパート)を5日間、チームシマで借りる予約をしていた。前回のパリ滞在時、エアビーアンドビーで借りたのもアパルトマンだったが、今回はより現地生活に適した部屋ということで、つかの間でもパリ生活の雰囲気を楽しむことにしていた。

ドーバー海峡はフェリーで渡るに限る!

ロンドンの長距離バスターミナル、ヴィクトリア・コーチ・ステーションからバスに乗り込み、定刻の7時30分にパリへ向けて出発。行きと同じようにドーバー海峡をフェリーで渡るルートであれば、またドーバーの白い崖を見られてうれしいと思っていた。ところが。

1か月ぶりに乗った、ヨーロッパの広域で展開する長距離バス会社「フリックスバス」(FlixBus)は、イギリス・フォークストン(Folkestone)のユーロトンネルに向かい、手前の駐車場に止まった。どうやら、このままトンネルに入り、カートレインでフランス側まで運ばれるようだった。

出国ブースではパスポートのIDをリーダーで読まれて手続きが終了、入国ブースでは車内でパスポートを集められ、スタンプを押してもらって返ってきた。カートレインに入り、出発するまでの待ち時間がけっこうかかった。

カートレインに乗り込んだ様子。バスの車内から1歩も外に出ることはなかった。

こちらが車窓から見たカートレイン。少し揺れはあるものの、他は何も変わらずただ単調なだけで、これならフェリーのほうがよほどよかったと思った。そういうことが分かったこと自体が収穫といえば、そうだったのかもしれない。ユーロスターで鉄道移動にしてみたところで、トンネルの単調な光景が続くのは間違いないから、ドーバー海峡を楽しむならフェリーに限る!

フランス側に着いたのが、1時間の時差もあって14時30分ごろ。そこからも遅れに遅れてパリのベルシー(Bercy)のバスターミナルに着いたのは19時前、つまり12時間以上の旅路になっていた。まだ日が暮れていなかったのが救いだった。パリのメトロで11区まで移動し、宿泊先のアパルトマンに行くと、貸主が待ってくれていて、一通りの部屋の説明のほか、おすすめのレストランも教えてくれた。

近くのスーパーと中華料理店で食材や水餃子、春巻きを持ち帰ってきて晩ご飯。中華料理は、きちんとした東アジアの味がした。

パリの中心をめざして散歩

翌日、僕は朝から近所を散歩して帰ってくると、朝寝していたゆっきーが起きだしていた。

ワインを飲みつつ早めの昼ご飯。僕1人でほろ酔いのなか、ノートルダム大聖堂をめざしてパリ中心部まで散歩に出かけた。これからしばらくは、ざっくりとしたパリ散歩の記録。

宿の近くにあった、世界のビールを集めた店。フランスなのにワインではなく、所狭しとビール瓶を並べたディスプレイの仕方が日本ではまずなさそうで、印象に残った。

こちらは、その酒屋からも近い店。パリのそこここにある寿司店のように見えるが、2015年11月のパリ同時多発テロ事件で多くの被害者が出た人気店の隣にあった。この店も被害を受けたというが、すでに3年近く経っていて、もちろん痕跡はなかった。近隣には漫画「天才バカボン」から取ったのか「Bacabon」という店名の日本風居酒屋もあり、日本の食文化の人気を感じた。

こちらは、コンクリート打ち放しの壁に、日本発のゲームのキャラクターとしてはマリオに次ぐくらい有名なキャラクター、パックマンの天敵のモンスターが描かれていた。

しばらくふらふらと歩いていると、バスティーユ広場へ。かつてバスティーユ牢獄があった場所で、この柱は1830年の7月革命を記念したもの。歴史のある広場だったが、工事のバリケードがしてあって雰囲気が台無しだった。

さらに歩いていると、騎馬警官隊を発見!馬が6頭も連なっていて、カッコイイ雰囲気にあふれていた。

警官は皆、防弾チョッキを着用。このあたりには国の事情が感じられた。

セーヌ川へ。遊覧船には観光客がびっしりと乗っていた。

こちらはアラブ世界研究所のビル。パリっぽくない建物の奇妙な外観に思わず目をやった。日本にいるとあまり気づかないが、フランスはかつてアラブ世界でも、アフリカ大陸のアルジェリア、モロッコ、チュニジア、中東のシリア、レバノンを植民地支配するか、委任統治した歴史があり、現在でも結びつきが強い。

セーヌ川左岸を歩いていると、右手にサン・ルイ島が見えて、さらに進むとパリ発祥の地、シテ島が見えた。パリに行けば見ずにはいられない、ノートルダム大聖堂を川越しに。尖塔の周りが修復作業中のようで、足場で覆われていた。

その左岸の道端では、絵画などとともに、欧米のハードロックバンドのコンサートのポスターが売られていて、場違い感がはなはだしかった。

橋を渡ってシテ島に入り、観光客でにぎわう大聖堂などを気のすむまで眺めてからサン・ルイ島へ。すっかり酒酔いも覚めていて、アイスクリームの有名店「ベルティオン」(Berthillon)でピスタチオ味を買った。この日のパリは10月半ばとはいっても行楽日和で、アイスもおいしかった。

こちらはサン・マルタン運河とセーヌ川をつなぐアルスナル港。大学生のころ、ボランティアでかかわった映画祭で「サン・マルタン運河」というタイトルの短編映画が上映されて、感動したことを覚えているが、逆にいえば20年も経つとハッキリと覚えているのは感動したということくらい。実際の運河のあたりはプレジャーボートがたくさん係留されていて、頭で描いていたイメージと違っていた。

バスティーユ広場の近くに戻ってきて、プロムナード・プランテ(Promenade plantée)という遊歩道へ。高架鉄道が廃線になった跡を使っていて、そこから眺めるパリの景色が秋らしさを漂わせていた。

少しずつ見える光景も変わり、パリ中心部の重厚な歴史が感じられた。緑のトンネルをくぐるような場所もあり、散歩する人を飽きさせないような工夫が随所に施されていて、線路跡をうまく活かしていた。

遊歩道の近くにあったマルシェ(市場)に寄って宿に帰った。これはマルシェのそばの、バウムクーヘンを切ったような形のユニークな建物。

ゆっきーはこの日、まったく外に出たがらなかったが、僕が粘って散歩に連れ出し、前日にも行った中華料理店まで一緒に訪れて、再び水餃子と春巻きを買って帰って食べた。

アフリカまでのルートを決定!

チームシマが、このパリでしようとしていたことが2つあった。1つは、前回、9月にパリを訪れたときも開催した「らいおんあくび教室」のお手伝い。もう1つは予防接種で、ゆっきーは黄熱の予防接種を受けなければ、モロッコあたりで別れなければならない状況になっていた。僕は南米を旅行した2013年に、黄熱の予防接種を受けていた。

アフリカ大陸では、モロッコや西サハラの南隣の国、モーリタニアから南は黄熱に感染する危険があるため、入国時に黄熱予防接種証明書が要求されるということで、この証明書なしに西アフリカを地続きで旅することは不可能だった。

長期の海外旅行をする日本人の間では、タイのバンコクで黄熱などの予防接種を安く受けられることが知られている。しかし、ヨーロッパではこのパリを逃がすと、日本人旅行者がどこで予防接種を受けられるのか、チームシマの2人ともよく分かっていなかった。

翌日、ライオンあくび教室を手伝うため、メトロでゆっきーの友達の家に出かけて正午ごろに到着。この日の参加者は現地の日本人1人だった。らいおんあくびは、以前にも紹介したとおり「ライオンのように大きな口を開けるあくびの動作を繰り返すことで、体を活性化させ心身のバランスを整える」という健康法のメソッドで、僕は実演モデルをしたあと、参加者が実際に行っている様子を見守った。

教室を終えてから、今度は逆にその友達が僕たちのアパルトマンを訪問。「我が家」は狭いながらいろんなものが揃っていて、長期滞在も十分に可能ということだった。僕の個人的な感想としては、1人なら十分だろうが、2人だと部屋の狭さとテーブルの使い勝手が気になりそうな気がした。

友達が帰ったあとは、ゆっきーと2人で買い物。石けんのストックが尽きてきていて、マルセイユ石けんを売っている「Boutique Marius Fabre」へ。ここで買えば、パリから約800キロ離れたマルセイユまでわざわざ行く必要もなく、2.5キロ分の長い石けんを30ユーロ(約3,900円)で購入。日本で買うより相当安かった。

石けんを買うのに行きはメトロだったが、帰りは歩きで。これは、店の近くのヴォージュ広場を取り囲むように造られた回廊。この広場は、1612年に完成したパリで最も古い公共広場だとか。歴史の重みを感じた。

帰る途中には、日本のジーンズメーカー「EDWIN」(エドウイン)のお店も。店名以上に「日本製」という部分を派手にアピールしているのが目についた。パリではそんなに全方向で日本文化が人気なのだろうか。

これは宿に近づいてきたところにある精肉店。「bœuf de KOBE」(神戸ビーフ)の文字が目につき、否応なしに前までの職場を思いだした。日本では、首都圏でも「神戸牛」を名乗りながら、神戸ビーフを使っているのか怪しい店をちらほら見かけたもの。はたしてこれは本物だったのだろうか。

食材も買いつつ宿に戻ってきて、今日の晩ご飯。この写真に写っているのが使い勝手が気になったテーブルで、年代物の渋みはあったものの、底が閉じられておらず、よく物を落とした。

この日の夜は大きな決断をした。シェンゲン協定の加盟国にいられるのも翌日から数えて残り20日間となり、いよいよアフリカまでのルートを決めた。

ゆっきーも僕も、レンタカーを借りて東回りでドイツのロマンチック街道やスイス、イタリアに寄ってフランスまで戻ってきてからイベリア半島へと抜けていきたかった(地図中の赤・理想のルート)。しかし、それでは日数が圧倒的に足りないので諦めて、単純にフランスを南下してしていくことにした(青・実際のルート)。そして、スペイン、ポルトガルをあるだけの日数をかけてゆっくり回り、イベリア半島からは陸・海路か空路の安い交通手段でモロッコまで渡ることにした(緑・先の想定ルート)。

そして、ゆっきーは黄熱の予防接種を受けにいく決心をようやくつけようとしていた。

ジム・モリソンの墓で感じた日本文化の浸透度合い

宿から歩いて20分くらいのところに、パリ市内で最大の墓地というペール・ラシェーズ墓地(Cimetière du Père-Lachaise)があった。グーグルマップを眺めていて、この墓地になぜかアメリカのロックバンド「ドアーズ」(The Doors)でボーカルを担当していたジム・モリソンの墓を発見した。

ドアーズは、僕の弟が高校時代に傾倒していたグループだった。当時でさえモリソンの死から20年ほど経っていて、グループの解散からも同じくらいの年数を数えていたが、ドアーズ関連のアルバムや書籍などが多く発売され、オリバー・ストーン監督の伝記映画が作られてさえいた。どうしてそれだけの人気が残っていたのかといえば、モリソンが知的で奔放なイメージで、カリスマ的な存在のまま27歳で早世してしまったからだろう。弟に影響されて僕もドアーズの曲を聴き、歌詞を楽しみ、モリソンの世界に親しんだ。

なぜパリに墓があるのか調べてみたところ、モリソンはどうやら移住先のパリで亡くなっていて、死因はドラッグの過剰摂取といわれているが、定かではなく、陰謀説もあるらしい。これは訪ねてみたいと思った。

そんなわけで、パリ滞在の実質的な最終日の朝は、モリソンの墓までやってきた。平日の朝にもかかわらず、多くの人たちがひっきりなしに訪れていて、若い女性が目立っていたのが特徴的だった。

背中に「ディル アン グレイ」とカタカナで書かれたパーカーを着ている女性もいて、不肖ながらナニモノなのか知らなかったので後で調べたら、大阪出身のビジュアル系ロックバンド「DIR EN GREY」のことのよう。ちょうどこの時期に、ヨーロッパツアーの一環でパリに来ていたらしい。これも日本文化の1つといえばそのとおり。右隣の人もDIR EN GREYの別の服を着ていた。僕の知らなかった日本のロックバンドの熱烈な外国人ファンが、僕のよく知らない外国にいるということに軽い衝撃を覚えた。

その帰り道、「からあげや」の看板を掲げた和食店を目にした。パリでは日本文化が受け入れられ、すそ野が広がっていることを、前日までに引き続いて実感した朝だった。

最後はエッフェル塔のライトアップ

前日、宿の近くの日本人が経営するフランス料理店のランチを予約していたものの、当日はフレンチを食べる気分ではなかったため、予約キャンセルを店まで伝えにいき、別に昼ご飯を食べてからチームシマの2人で予防接種を受けにいった。最初にメトロで毛糸屋に行き、この店で染めていて他では買えないという毛糸をゲットして、ゆっきーの気分が上がったところで、フランスを代表する航空会社・エールフランスのワクチン接種センター(Centre de vaccinations internationales Air France)へ。

混んでいるときは予約が必要、という情報を得ていたが、この日は空いていてすぐに受け付けてくれた。ゆっきーは黄熱を、僕は日本で1度受けていたA型肝炎の2度目の予防接種を受けた。このセンターにエールフランスがどのような関わり方をしているのかは分からなかったが、日本なら日本航空や全日空が予防接種に関係するなど、とても想像できない。もしやろうとしても、様々なしがらみがあって実現は容易ではないだろう。

エールフランスがこうした事業にも取り組んでいる理由の1つとして、フランスは西アフリカにも大きな影響力を持つことが関係しているように思う。先に、フランスはアラブ世界と関わりが深いという話をしたが、アフリカ大陸の北側を取っても同じことが言える。フランスはかつて、すでに挙げたモロッコ、アルジェリア、チュニジアのほか、サハラ以南(サブサハラ)の西アフリカでも広大な植民地を築いていた。それらの国の公用語には今なお、フランス語も用いられ、エールフランスの定期便が多く運航されている。そして、黄熱をはじめ予防接種が必要な病気にかかる可能性が高いという事情がある。

といった話はここまでにして、メトロで宿に戻り、クリームパスタとウインナーでパリの最後の晩餐。こちら側の向きから写真を撮ると、壁沿いに生活感が漂っていた。

夜が更けてきたところで、僕1人でバスに乗ってエッフェル塔へと向かった。1時間に1度ある「シャンパンフラッシュ」というライトアップを見ることが目的で、ゆっきーは以前に見たことがあるためお留守番。僕はどうしても見たかったというわけではないが、ゆっきーが見たなら僕も見ておきたいという、ちょっとした負けず嫌いの気持ちがあった。

バスで降りてから眺めた夜のセーヌ川。月が出ていてきれいだった。歩いてエッフェル塔に近づいていった。

塔の上部から青いライトが光り、他の様々なオレンジ系のライトと合わさって幻想的な雰囲気。

セーヌ川の対岸からエッフェル塔を見上げてみたの図。遠近感の関係で合成写真のよう。塔の右側に月が見えた。塔は間近に近づくよりも、少し離れたところから見るほうがきれいそうだった。

そして、日没後の毎正時から5分間、白い光がキラキラと輝くシャンパンフラッシュ。無数のライトがチカチカして、パリっぽい優雅で豪華なイメージだった。

翌朝、早くもパリ出発の日。アフリカまでのルートを決めた夜に、次の目的地としてフランス南部・トゥールーズ行きの長距離バスチケットを買っていた。パリのこのアパルトマンから眺める景色もこれが最後。トゥールーズの先には、これまでのヨーロッパの雰囲気とは一味も二味も違っていそうな、イベリア半島への道が待っていた。

旅の情報

今回の宿

パリ11区のアパルトマン
1室貸し切り 4泊 260ユーロ(約33,600円) 素泊まり
設備:バスルーム、キッチンあり Wi-Fiあり
予約方法:人づて
行き方:パリメトロ9号線ル・デ・ブレ駅(Rue des Boulets)から北に歩いて2、3分。
その他:パリのアパルトマンでの暮らしを実感できた場所。居心地がよく、周囲の環境もよく、滞在中、ゆっきーはあまり外に出たがらなかった。

訪れた食事処

Chez Ravioli Chen Chen(天津包子)
注文品:水餃子、春巻き 15ユーロ(約1,900円)
行き方:ル・デ・ブレ駅から東に歩いて5分。
その他:持ち帰りも可能な中華料理店で、チームシマは2回とも同じメニューの持ち帰りで利用。

Berthillan
注文品:アイスクリーム シングル 3ユーロ(約390円)
行き方:パリメトロ7号線ポン・マリー駅(Pont Marie)から南に歩いて4、5分。
その他:どの観光ガイドブックにもだいたい載っている老舗の名店。サン・ルイ島の中にアイスクリーム専門店があるほか、島の中ではいくつものレストランやカフェでこの店のアイスクリームを取り扱っていて、持ち帰ることもできる。写真はその取り扱い店の1つ。アイスのダブルは5ユーロ。
それにしても、この店から徒歩10分もかからないノートルダム大聖堂が僕の訪問の半年後、火災に遭い、尖塔が焼け落ちるとは思いもよらなかった。

シェンゲン協定と滞在可能期間

シェンゲン協定は、ヨーロッパの国家間で出入国審査なしに国境を越えられる協定で、2021年10月現在は、3年前と同じ26か国が加盟。西欧・北欧諸国でこの協定に縛られないのはイギリスとアイルランドのみ、という状況も3年前から変わっていない。

日本国籍の人が、ビザなしで協定加盟国に滞在できる期間は、2013年10月から「あらゆる180日の期間内で最大90日間」となっていて、残りの滞在可能期間を把握できる英文ウェブサイトもある。

チームシマの場合は、10月19日時点で滞在可能なのは、この日を入れて残り19日間。このままシェンゲン協定の圏内の国に居続けると、11月7日以降は不法滞在という状況になっていた。

国によっては不法滞在になっても管理がゆるく、簡単に出国できたりするそうだが、ヨーロッパへの難民流入問題がクローズアップされて出入国管理が厳しい方向に進んでいる近年、分かっていて不法滞在となるのはおすすめできない。