モロッコ その7 サハラでバースデー! 一生の思い出に

7泊8日滞在したモロッコ中部のトドラ渓谷から、僕たちチームシマが次に向かったのはサハラ砂漠。この旅では9月にも、チュニジアでサハラに訪れていて、今回は2回目となった。とはいっても、チュニジアとモロッコとは、アルジェリアを挟んで最短でも2,000キロくらいの距離がある。この砂漠の広さを思わされる。

僕たちがこのタイミングで向かったのは、僕の誕生日を砂漠で迎えることが目的。加えて、僕たちは2人とも11月の渓谷の寒さに参っていて、砂漠の暑さを渇望していた。

そして、僕の頭の片隅には、前回、サハラに向かったときには知らなかった、上温湯(かみおんゆ)隆の旅行記「サハラに死す」がちらついていた。

1泊2日の砂漠キャンプでは、新たな日本人旅行者との出会いも経験することになった。

サハラまでたどり着くのに一苦労

早朝のトドラ渓谷から乗り合いタクシーで約20分ほどのティネリールの町まで行った僕たちチームシマは、その足でバスターミナル行きのタクシーに乗り換えて、サハラ砂漠へと向かうことにした。

車窓からは、何ともいえない幻想的な青白い空が見えた。

ティネリールの民営バス乗り場に到着。ここからエルフードという町まで行き、そこから乗り合いバンでサハラ砂漠への拠点となる町、メルズーガ付近まで向かう予定だった。

すぐに来そうだという砂漠方面のバスを待った。それにしても風が冷たかった。ゆっきーと2人で寒がっていると、バスがやってきた。

下の写真は、乗ったのとは別の車両。この荷物の積み方が尋常ではない、といつも思ってしまう。モロッコで2度目の民営バスは、やや寒いもののボロさはほどほどで、まあまあ乗りやすかった。

2時間あまり走ってエルフードの町に到着。しかし、思っていたのとは違う変な場所で他の外国人4人とバスを降ろされた。そこで待っていたのは、ツアー会社っぽい男の2人連れ。メルズーガまで高額の運賃を示してきたので断り、乗り合いバンの乗り場を目指した。

妙に正確なカタカナが書かれた「ホテル」も。ただ、あまり宿泊施設っぽくは見えなかったが。

乗り場は人に聞いてもなかなか見つからず、案内をしてくれるという青年たちについていってようやく発見。すぐに出発するタイミングだったようで、青年たちにチップをあげるとバンは出発した。

車内では女性たちがヒジャブを巻いているのはもちろん、男性もみな頭に布を巻いていた。そうした姿から察するに、これから行くところは保守的な、別の言い方をすれば伝統が保たれたところになるんだろう、という思いがしていた。

サハラ砂漠にも近づいたころ、ふと写ったラクダのシーンが実に印象的だった。何かの本の表紙になりそう。

昼過ぎ、メルズーガの北5キロあまり手前の町、ハシラビードにようやく到着した。

この町は土壁が目立っていた。バス停では、宿のスタッフが送迎のため僕たちを待ってくれていた。

今回の砂漠キャンプの拠点となる「リヤド・マムーシュ」は、地球の歩き方には地域の宿泊先紹介で真っ先に載っている、現地ではよく知られたホテル。夕方の出発まではまだ数時間あったので、僕たちはホテルで一休みしてからラクダで砂漠まで行き、キャンプすることにしていた。

朝からほぼ何も食べていなかったこともあり、昼ご飯はここの宿でベルベルオムレツを2人分注文。野菜もたっぷりついていた。

過ぎし日の「挑戦者」をしのぶ

ゆっきーが風邪から回復しつつあったのに対して、僕は風邪をひきかけで、用意してくれていた部屋に入ってしばらく休憩。日差しが柔らかくなった夕方に出発した。

ここで、冒頭に紹介した上温湯隆の「サハラに死す」の話を。この作品は旅行中、アフリカについて調べているなかで知った1冊だった。当然のことながら、それまでに読んだことはなく、インターネットで著者略歴や本の内容を軽く確認しただけだった。

上温湯は高校を中退してアジア、中東、西欧、アフリカなど50か国余りを貧乏旅行し、特にアフリカではかなりの国を回ったらしい。その中でもサハラ砂漠に惹かれ、1頭のラクダを買って、大西洋に面したモーリタニアの首都、ヌアクショットを出発して東に移動し、スーダン東岸のポートスーダンまで7,000キロに及ぶ道のりをラクダで踏破しようとした。

しかし、途中のマリ東部でラクダが衰弱死してしまったため、旅を中断。ナイジェリアのラゴスまでヒッチハイクでたどり着いた。そこからは時事通信社の現地の拠点でアルバイトをしつつ、態勢を整えて、新たなラクダを買ってマリ東部のメナカから再出発した。

だが、それからほどなくして、砂漠で亡くなっているのが見つかった。渇水などが原因だったといい、砂漠の中で荷物を積んだラクダに逃げられて、対処できなかったと推測されている。当時、時事通信社ラゴス支局の特派員として彼と接していた記者が、残された文章などをまとめて出版したものが「サハラに死す」だった。

冒頭にも書いたとおり、僕たちが訪れたチュニジアのサハラ砂漠の入り口の町トズールが、ここハシラビードから2,000キロほどで7,000キロの3分の1にも満たない距離だった。彼の計画の壮大さがしのばれた。

彼のその無謀さは、「地雷を踏んだらサヨウナラ」で知られる夭逝の報道写真家、一ノ瀬泰造を思い起こさせる。一ノ瀬の場合は、内戦状態のカンボジアでジャーナリストとして、アンコール・ワットに一番乗りを果たそうとしたために、現地を支配下に置いていたクメール・ルージュに捕らえられて命を失っていた。

いずれも1970年代前半に世界を駆けめぐり、「挑戦者」として壮絶な最期を迎えた青年たちだった。そして、僕たちは彼らとは比べるべくもなく、安穏とした現地ツアーに参加して、リスクを負うこともなく自然を楽しもうとしていた。これも精神性の違いか、時代の違いなのか。

まだ日本が高度成長期にあったころ、冒険譚というのは、たとえそれが無謀と思える領域であったとしても、ヒロイズムとして持てはやされる余地があったのかもしれない。しかし、いまはもうそんな時代ではない気がする。

戦後、日本は経済的に豊かになっていくのと同時に社会通念、固定観念といえる縛りは次第にゆるくなっていき、自らの考えで生き抜いていきやすくなってきた。いま日本で暮らす人たちは、個々の事情にもよるとは思うが、総論としては恵まれているといえるだろう。アフリカを旅していると特に実感した。

その一方で、人生を送るうえでの指針や幸せをどこに求めるのかは、かつてほど明確ではなくなっている。この世の中でどのように生きていくのか、自分自身の意思をしっかり持つことがより重要になり、その結果、人生をさまよい続けている人も多いように感じる。僕もまた、世界中をさまよいつつ、人生をもさまよっている1人かもしれなかった。

ラクダ隊がゆく

さて、今回はホテルから歩いて数分がもう砂漠という立地。砂漠キャンプの参加者たちはガイドたちに導かれ、ラクダに乗って出発した。

そういえば、旅の最初のころ、モンゴルのツェベクマキャンプで乗馬を体験したときには、ゆっきーは疲れて寝てしまい、僕1人だけになった。今回は参加できて、ゆっきーもうれしそう。

これが今回の隊列。11月のオフシーズンにもかかわらず、他にも日本人のグループが何組か参加していた。

ガイドは「ラクダは楽だ!」というものの、歩くときの上下動がまあまあ激しくて、馬よりは確実に疲れた。

それでも、ゆっきーと2人で乗れて大満足。

1時間ほど砂漠を進み、この日の寝床となるキャンプテントに入り、荷物を置いて早速、砂丘へ。

僕たちチームシマのチームメイト、ロバ太郎がモデルとして大活躍!

夕焼けと日暮れと。夢のような光景が続いて、眺めているだけでひたすら楽しかった。そして、砂紋が美しかった。

バースデー・キャンプファイアー

夜はキャンプテントで晩ご飯。タジン鍋だった。あまりおいしくはなく、ボリュームがあって残してしまった。

日本から来ていた男性が盛り上げに一役買っていた。彼は1週間の予定でモロッコに来ているらしく、早朝には次の地に行くためこの砂漠を発ってしまうとのこと。つかの間の交流だった。

また、姉妹で参加していて、ラクダの隊列では僕たちの前にいた2人とも親しくなった。

食事のあとは、ツアーの参加者でキャンプファイヤー。そしてここで、サプライズが。

僕の誕生日のバースデーケーキを用意してくれていた!照れくさくもうれしかった。ツアーの日は僕の誕生日だと伝えていたら、スタッフが用意してくれていたらしい。こういうサプライズは、いくつになってもうれしいものだ。

写真撮影が終わると、皆がまた火に集まった。左端にぽつんとケーキが1個。それも仕方なかった。砂漠の夜は超寒い。暖を取るのが最優先となってしまう。

このあと、ちゃんとケーキをいただいた。アラブのスイーツの例に漏れず、かなり甘かった。

火を囲んでのダンスタイムも始まった。ゆっきーは風邪から脱したばかりだったこともあり、早々にテントまで引き上げていったが、僕は誕生日を祝ってもらったこともあって、最後まで付き合った。

この世のものとは思えない砂漠の夜明け

そして翌朝。僕は風邪をひいた。これまで5か月あまり旅していて、これが初めてだった。

それでも、まだ夜明け前、外に出てみると、この世のものとは思えない、圧巻の光景が広がっていた。砂漠の夜空は何にも増してきれいだと思う。

テントだけが人工物という世界を見ていると、自分や人類の営みがどこか不自然なものに思えてきて仕方なかった。

しかし、ここでもハプニング。テントから僕1人で外に出た際、テントに鍵をかけてしまったため、ゆっきーが外に出られなくなってしまったのだった。

ここは、同行の姉妹のうち、姉のほうがゆっきーを救い出してくれて、事なきを得たものの、僕は誕生日の翌朝からゆっきーに激しく怒られることに。これから迎える新しい年齢の1年が思いやられた。

気を取り直して、2人で写真を撮った。

ツアーに参加した日本人たちとも。

朝、日差しがきつくなる前にホテルまで戻るということで、晴れ渡る空のなか、宿へと向かった。

ホテルでは朝ご飯が用意されていて、一息つくことができた。僕たちはトドラ渓谷から向かった際、ここでもう1泊する予定にしていたものの、レンタカーでこの地を訪れていた姉妹が次の目的地、マラケシュに向かうらしく、僕たちも同乗させてもらうことに。宿のスタッフに1泊早めに切り上げることを伝えると、キャンセル料を要求されることもなく、あっさりとオッケーをもらえた。

2度目のサハラ砂漠もあっという間に駆け抜けた。幻だったといわれても信じてしまいそうな、夢のような一夜だった。そして、僕には風邪の体が残った。

旅の情報

今回の宿

リヤド・マムーシュ(Riad Mamouche)
砂漠キャンプ 1泊2日ツアー 2人 700ディルハム(約8,300円) 夕食、朝食付き
設備:テントは共同トイレ シャワーなし
予約方法:トドラ渓谷の「ゲストハウス アーモンド」を通じて手配
行き方:ハシラビードの最寄りのバス停から北に5分。無料の送迎がある。
その他:部屋は2つのランクがあり、エコノミーの場合はトイレ・シャワー共同で、コストを低く抑えながら滞在することも可能。ホテル内には広いプールがあり、施設全般が清潔だった。各種の砂漠ツアーもあり、僕たちは結局、ホテルに泊まることはなく、砂漠のテントで1泊した。本文でも書いたが、1泊2日であっても、夕方の出発前や朝のツアー後は宿の部屋を使わせてもらえた。その後の宿泊予約は無料でキャンセルでき、柔軟に対応してもらえて心地よい滞在となった。