砂漠の中の整った街に「大人の事情」を感じた西サハラ 

西サハラのように、地域名や国家名に「東西南北」がつくのは、そこの国民や住民ではない僕にとっても少し残念な気がする。何かの付け足し、あるいは本流に対する傍流のような感じがするからだ。

しかも、そういった国々で思いつくのは東ティモールとか南スーダンとか北マケドニアとか、ここ20年あまりの間に独立したり国名を変更したりした国ばかりで、東西南北が入らないような、もうちょっとマシな国名をつけられなかったのかと思ってしまう。

もっとも、これはあくまで僕の感性にすぎず、それらの決定を下した関係者たちや現地に住む人たちを非難したりバカにしたりするつもりは一切ない。

僕にとって幼いころからなじみがあり、山陽新幹線の駅もある兵庫県の西明石は、僕にとっては「明石の西」にあるからそうなのではなく、「西明石」という地名そのものを一体としてとらえている。東西南北ではなく「新」がつく駅名も日本には多いが、その中でも新大阪は、割と西明石に近い感覚でみている。

その一方で、同じ「西」がつく地名でも、埼玉県の西川口や東京都の西巣鴨のように、縁もゆかりもないところはピンとこないことが多いし、「新」のほうでは新川崎や新柴又なども、まったくなじめない。そういった違和感がどこかの国の地域にとどまっているならそれでいいのかもしれないものの、国レベルともなると影響が大きいような気がする。

しょっぱなから話が脱線してしまった。日本にいて、遠く離れたアフリカ北西部の西サハラに注目する人はおそらく少ない。それでも、インターネットで「西サハラ」と検索すると、スペインが領有権を放棄した1975年から係争地になっているという情報がたくさん出てくる。

現在は西サハラの西側75%をモロッコが実効支配。残りの東側25%は、西サハラの独立を目指す武装組織「ポリサリオ戦線」が支配しており、「サハラ・アラブ民主共和国」を名乗っている。独立国家として承認しているのはアフリカ、中南米を中心に80数か国に上り、日本は未承認で「西サハラ地域」と呼んでいる。

僕のような外国人旅行者が訪れることができるのは、モロッコが実効支配している地域のみで、通貨はモロッコ・ディルハムが使われている。

そんな複雑な背景のある西サハラは、訪れると平穏な空気の流れる広大な田舎、といった風情だった。しかし、その中にもモロッコ側の事情をいくつか感じさせられた。

バスに揺られて24時間

僕たちチームシマを乗せて、モロッコの港町エッサウィラを出発したバスは、24時間ほどかけて西サハラのダフラを向かうことになっていた。バスでの車中泊や日中ずっと移動に費やしたことはあっても、24時間のバス移動はこの旅で初めての経験だった。

途中、モロッコ南西部の主要都市、アガディールのバスターミナルに寄った。この時点で22時の少し前。まだまだ先は長かったが、車内が空いていて2席分を独占できて、眠りやすかったのが救いだった。バスはこまめに休憩していて、のんびりと移動していた。

そして、あっという間に朝に。起きてからしばらくボーっと車窓を眺めていると、西サハラとの境界が近づいてきた。この辺り一帯の道は海が近かった。モロッコ南部からセネガル中部にかけての大西洋岸一帯はサハラ砂漠の西端にあたり、砂漠がそのまま大西洋につながっているのだが、目の前の光景によってまさにそれを実感されられた。

そして、境目のあたりにちょっとした集落があったものの、何かの境を越えているという実感もなく西サハラに入った。そして西サハラ最大の街、ラユーン(スペイン名・アイウン)に近づくと、建物の数が増えてきた。

それにしても、建物の1つずつのが赤茶けた色で統一されていてまだ新しく、人工的で少し不気味に見えた。この不気味さは、旧ソ連をはじめとする共産圏の街並みを思い起こさせた。

そして、朝9時の少し前にラユーンのバスターミナルに到着。かなり立派な建物だった。

バスターミナルの案内表記はフランス語とアラビア語のみで、かつてこの地を支配していたスペイン語はなし。ショッピングセンター(Centre Commercial)と遊び場(Espace Jeux)のピクトグラムがやけに躍動的だった。

1時間ほどの長めの休憩のあと、再び出発。ラユーンを抜ける前の車窓からは、中層の建物が連なった市街地の光景も見られた。やはりどこか画一的で、計画都市のような雰囲気を感じさせた。

ところで、このバスの行程で不思議だったのは、パスポートのコピーの提出が何度も必要だったこと。係争地ということもあり、パスポートチェックがあるのは理解できたものの、なぜコピーまで必要なのかはよく分からなかった。僕たちチームシマは事前に情報を得ていて、エッサウィラで5枚ほどコピーしていた。

昼休憩があったLemseid(グーグルマップ上ではLamsid)という町は、砂漠の真ん中にあった。周りにある目立つ建物といえばモスクくらいで、こまめな休憩はムスリムの人たちの礼拝の時間も兼ねていたようだ。

長時間移動のあとの一息

夕方になってようやく、この日の目的地、ダフラに迫ってきた。ただ、景色は変わり映えせず、かつて乗ったシベリア鉄道の旅も思いだしたが、それでもところどころでギョッと思わせる景色があった。

この、だだっ広い荒野に電灯らしきものが点在していたのもその1つ。

ダフラには18時30分すぎに到着。ちょうどバスに乗ってから24時間が経ったところだった。CTMのバスターミナルは街の中心部から外れたところにあり、タクシーに乗って安宿が集まるエリアへ。

ダフラは細長く伸びた半島の先っぽのほうにある。泊まりたい宿は事前にネットでチェックしていたが、西サハラでは予約サイトが当てにならなかったので、現地で部屋を見せてもらって、その宿に決めた。移動疲れもあり、ここで2泊してから先を目指すことに。

宿の屋号は「Hotel Riad」で、窓からの風景はこんな様子。部屋の窓からは、半島らしき雰囲気は感じられなかった。

ただ、宿の目の前のエリアは道がきれいに舗装されていて、モロッコ政府の金のかけよう、気合の入れ具合を感じた。西サハラは砂漠の土埃が舞うところしかないようなイメージを勝手に持っていたが、見事にくつがえされたように思う。

僕たちチームシマには、ここダフラで真っ先にやらなければならないことがあった。それはモーリタニア第2の都市、ヌアディブに向かう足の確保で、選択肢としては、乗り合いタクシーと長距離バスの2つ。もともとは乗り合いタクシーしか方法がなかったのだが、2018年にはモロッコ側のSupratoursとモーリタニア側の会社が連携して、西サハラの国境でバスを乗り換えてヌアディブやモーリタニアの首都、ヌアクショットに行けるようになったらしい。

そして、僕たちが選んだのは、長年の実績がある乗り合いタクシーのほうだった。宿の人を通じてすぐに手配でき、宿の人が運転手に会わせてくれて「翌々日の朝7時に出発するから」とのこと。

僕は風邪が治りかけてはぶり返すことを続けていたが、ここ西サハラでも、長距離バスの疲れで体調は思わしくなく、少し横になった。そのあと、1日半ぶりのまともなご飯を食べに、街に出た。

いくつかの飲食店を通り過ぎて、僕たちが目指したのはレストラン「Samarkand」(サマルカンド)。ここは西サハラなのに、なぜ中央アジアのウズベキスタンの古都を店名にするのだろうか。ひとまず、店に入った。

僕たちがこのレストランを目指した理由は、モロッコ料理とともに洋食も食べられるから。ゆっきーは鶏のタジンを、僕はドリアを注文。久しぶりに食べた洋食が懐かしかった。

サマルカンドは海に面した広い敷地になっていて、2階に上がるとこじゃれた店内とともに、よく整備されたダフラの市街地の光景がよく見えた。

ここでも、モロッコ政府の街の基盤整備に対する力を入れようが感じられた。おそらくモロッコはこれまでも、そしてこれからも、既存の都市を拡大させ、新たな街を開いて、目新しさを武器にモロッコ国民の移住を進め、実効支配を強めようとしているのだろう。

そして、この店に中央アジアの内陸の古都を思わせるものは何もなく、この店名がつけられた理由は結局、分からないままだった。

夜のダフラは思った以上の活気

翌朝、よく晴れたこともあって洗濯をすることに。実は、この宿を選んだときに、洗濯物を屋上で干せるというところのポイントが高かった。

屋上に上がってみると。

ここからは海が見えた。かなり近かった。

前日の移動疲れがあったことや、照り付ける太陽の日差しが強かったこともあり、昼間は宿でのんびりと過ごし、夜になってから街に出ることに。

ダフラは割と夜型の街のようで、夜8時を過ぎてもいろんな店が営業していた。

こちらはゆっきーの関心が高い毛糸や衣類の屋台。

飲食の屋台もあれば、その奥には子どもたちが遊ぶコーナーもあった。

子どもたちが遊ぶ人形を売る屋台もあったが、夜に見ると不気味さが一層増す感じ。

モロッコでよく見かけた民族衣装・ジェラバのなかでも、特に派手派手しいものを着ている人を見かけた。日本人の感覚だと、まるでパジャマのよう。

少し散策した後は、晩ご飯を食べにいった。この日に向かったのも、前日に訪れたのと同じサマルカンド。この店もまた、夜遅くまで営業しているようだった。

今回はゆっきーも僕もドリアを注文。久しぶりに登場のロバ太郎は、長距離バスの疲れも癒えてちょっと元気が出てきた様子。

まだ小腹が空いていたこともあり、宿に戻る前にはスイーツ店に寄っていくことに。

その名も「Pâtisserie Riad」で、泊まっているホテルと同じ系列かと思うような名称。かわいい看板に惹かれた。

見た感じがおいしそうで1人2点も買ってしまった。しかし、宿で食べてみると、中東系のスイーツの例に漏れず、とにかく甘い!ゆっきーは早々に諦めて、僕が全部いただくことに。食べる前は、ロバ太郎もものほしそうな目つきをしていたのに。

翌日に向けて洗濯物も取り込んでおり、荷物をまとめて翌朝の出発準備を整えた。実質的にモロッコだった西サハラを抜けて、次はヌアディブへ。いよいよアラブ圏からサブサハラ・アフリカへ、そして西アフリカに入っていくことになり、僕は体調にまだ不安を抱えながらも、胸が高まっていた。

旅の情報

今回の宿

Hotel Riad
ツインルーム 2泊 160ディルハム(約1,900円) 素泊まり
設備:共用バスルーム Wi-Fiあり
予約方法:なし
行き方:CTMのバスターミナルから北東にタクシーで約2.5キロ、7分ほど。
その他:部屋はきれいだったが、共用トイレはモロッコ式でちょっとした恐怖感を誘う雰囲気だった。このホテルはGoogleマップには載っておらず、中型ホテルの「Hôtel NASSIM AL BAHR」の筋を北に行くとある。

訪れた食事処

Samarkand
注文品:(初回)鶏肉のタジン、ドリア 130ディルハム(約1,500円)
行き方:CTMのバスターミナルから北東にタクシーで2キロあまり、5分ほど。
その他:ダフラ湾に面したカフェレストランで、雰囲気がよかった。

Pâtisserie Riad
注文品:ケーキ4個 50ディルハム(590円)
行き方:Hotel Riadから歩いてすぐ。
その他:ケーキそのものも、店構えも日本にあってもおかしくないくらいのクオリティだった。ただ、味付けは現地仕様だった。この店もGoogleマップには出てこない。

40代男性の旅人の視点からみた西サハラ

旅行者の視点で西サハラを一言で言い表すとすれば、「ただの通過点」というのが僕の結論になる。以下は、近年の政治状況も交えた硬い話になるので、興味のある人は読んでもらえたらと思う。

まず、僕たちが旅行していたときと2022年4月現在では、西サハラの状況は大きく異なっている。その大きな要因は、2020年11月に発生した西サハラでの衝突で、西サハラの南西端、西サハラとモーリタニアを結ぶ幹線道路がある地区でモロッコとポリサリオ戦線の軍事衝突が起きた。

それを機に、現在もポリサリオ戦線による攻撃がモロッコの支配圏の境界を中心に続いていて、予断を許さない状況となっている。

それを念頭に、旅行者の目線でいえば、西サハラはモロッコとモーリタニアを結ぶ通過点に過ぎず、この地に何か目的となるようなものはない。そこまで断言するのが失礼だとすれば、少なくともすぐには思いつかない。観光スポットはないし、係争を抱えていて旅行しやすいともいえないと思う。

ただ、わずかな時間ながら現地に滞在して、モロッコによる実効支配がどのようなものか感じることで、他の実効支配についても考えを及ぼしやすくはなった。日本も太平洋戦争後、他国に実効支配されていて係争中の土地がある。また、西サハラは、イスラエルとパレスチナの関係に例えられることもある。

ところで、普通の旅行者が西サハラの東側、ポリサリオ戦線の支配圏に行くことはまずないと思うが、モロッコの支配圏と比べたら生活インフラが貧弱で物資も不足し、砂漠地帯で気候も厳しいので、生活はおろか旅行するのも難しいだろうと想像できる。

そういった見方をするなら、今ならモロッコが西サハラを統治する方が、地域全体としては経済的には豊かになるのかもしれない。

モロッコはこの西サハラの問題があるため、アフリカの国の中で唯一、アフリカ連合(AU)に加盟していなかったが、2017年に再加盟した。

そして2020年から、西サハラをめぐる国際的な動きは目まぐるしく変化しており、それらはいずれもモロッコの領有権を認める方向に動いている。

同年12月、モロッコとイスラエルが国交正常化で合意したことを引き換えに、アメリカはモロッコに対して西サハラの領有権を認めた。2022年3月には、モロッコ政府が繰り返し主張してきた「西サハラを統治しつつ自治権を与える」という主張に対して、旧宗主国のスペインの首相が支持を表明した。それらの動きの背景には、軍事問題やエネルギー問題など複雑な事情があるようだ。

一方で、モロッコが西サハラで行っている人権侵害や住民運動の弾圧などの政策は知られる機会がほぼない。モロッコ国民の間で西サハラ問題を語るのはタブーとなっていることも、頭に入れておく必要がある。

日本の立場になれば、日本が主催する「アフリカ開発会議」(TICAD)の流れをみると、西サハラに対する日本なりの「大人の事情」を抱えたスタンスがよく伝わってくる。簡単にいえば、近年のTICADで日本はモロッコの立場を重視しつつ、AUにも配慮して、アフリカの多くの国が認めているサハラ・アラブ民主共和国を完全に無きものにはしない、という対応を取っているようだ。

日本から遠く、身近とはいえない西サハラは、数多くの課題を抱える世界情勢の中でつい埋もれがちになってしまい、僕も普段、意識する機会は少ない。ただ、現地を訪れたことのある者として、まるでモロッコの延長線上であるかのような存在の西サハラは、本来あるべき姿なのかどうかという問いを、ずっと心のどこかにとどめておきたいと思う。