モーリタニアに入国して、ヌアディブからしばらく別行動をとることになったチームシマ。ゆっきーは首都のヌアクショットに向けて、乗り合いワゴンで一足早く移動していた。その一方で、僕はアイアントレインに乗って体のあちこちを痛めながらも真夜中にシュムで列車を降り、乗り合いワゴンに乗って地域拠点の町、アタールまで移動した。世界遺産の町、シンゲッティに向かっていた。
僕たちはいずれ、このヌアクショットで合流する予定だったが、それがいつになるかはまだ分からなかった。
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アイアントレインを遠目に見てみたら
時は12月1日の朝、僕が前回、アイアントレインに乗って苦痛の時間を過ごしていたときから少しさかのぼる。
ゆっきーを乗せた乗り合いワゴンはヌアディブを出発。車窓からすぐに見えてきたのは、そのアイアントレインだった。
車が進むと最後に客車が見えたので、ズエラットからヌアディブにやってきたばかりの列車だったのかもしれない。それにしても長い。
車窓からは、数時間経っても砂漠の光景が続いていたという。
そして、出発から7時間かけて15時の少し前にヌアクショットのターミナルに到着した。
ゆっきーが乗車中、気になったのはこちらだった。
下の部分がはがれて骨の部分がむき出しになった運転席のシート。ただ、このくらいのボロさなら、モーリタニアではまだ序の口かもしれない。
ゆっきーはここから、目星をつけていた宿「Auberge Menata」まで移動し、無事にチェックイン。この宿についてはまた別の機会に触れることにする。
この宿は、レストランも併設されていて、ゆっきーはそこでパスタとオレンジジュースを注文して、この日最初の食事をとった。
こちらはオレンジジュース。
そしてこちらは…パスタ?パッと見は焼きそばに見えなくもない。しかし、よく確認するとパスタだった。
ゆっきーのおなかも落ち着いたところで、近所を散歩していたら、学校の扉に描かれた絵が目についたらしい。左側の女の子はかばんを持っているのに対して、右側の男の子はサッカーボールを相手にしていた。これは何を指すのか、何かを暗示しているのだろうか。それはともかく、ゆっきーのヌアクショット初日はこんな感じで波乱もなく過ぎていった。
砂に埋もれてしまいそうなシンゲッティ
一方で、僕はアタールで乗り合いバンをつかまえてシンゲッティへ。
途中の道はアスファルト舗装されていないダートだったが、道は整地されていて揺れは激しくなく、車も快適に飛ばしていた。それまで乗っていたアイアントレインに比べるととても楽だった。
シンゲッティが近づいて、多少、集落らしいものが見えてきていた。それにしても、モーリタニアに入ってからロバを見かける機会が格段に増えた。主に労働力として使われているようだが、車の代わりになっているようで、国の貧しさを感じさせられた。
シンゲッティには午前中に到着して、こちらも事前に目星をつけていた宿「Auberge Zarga」(オーベルジュ ザルガ)に直行した。
宿の壁にはカタカナらしき日本語が。かなりヘンだったが、指摘する人が誰もいないのだろう。日本人バックパッカーが盛んに外国を旅していた1990年代や2000年代ならまだしも、この2010年代も後半、この地を訪れる日本人がそんなにいるのだろうか、と思いながらも中に入った。
宿の若い男性に空室があるか尋ねると、僕以外に旅行者はおらず、そのままチェックインさせてもらった。そして、早速シャワーを浴びた。男性が「ホットシャワーが出るよ」というので期待したら、温かかったのは束の間で、あっという間に水シャワーに。地方のインフラが脆弱なところに来ているので、それも仕方がないところと思いながらシャワーを浴びた。ついでに洗濯物もして、乾燥したこの地の雲一つない天気に恵まれて、すぐに乾きそうなのは幸いだった。
ようやく落ち着いたところで昼ご飯を注文した。やってきたのがこちら。
鶏肉とポテトの素朴な料理だったが、おいしく感じられた。空腹だったことに加えて、食材の質も日本などのファストフードとはまた違っているのかもしれない。
夕方の16時から、男性が世界遺産となっている旧市街まで案内してくれることになった。それまでは休憩時間ということで、昼寝をしたあと、起きだして新市街を少し散歩してみた。
新市街とはいってもサハラの砂に埋もれかけた田舎町という印象で、人々が住む家屋がある以外はちょっとした店や屋台がある程度。しかも、真っ昼間は暑くて人が出歩いていないためか、ほとんどの店が閉まっていた。そして、外では風が吹いて口の中にまで砂利が入ってくるのが、前日と同じだった。
崩れかけた旧市街
いったん宿に戻り、夕方、仕切り直して男性とともに旧市街へ。新市街と旧市街の間には、集落を隔てるような砂漠地帯が広がっていた。旧市街に入ってみたものの、道が狭くなっただけで見える景色に大きな違いはなさそう。
と思いきや、崩落した建物の跡も点在していて、旧市街というのにふさわしかった。
こちらは旧市街の中での見どころの1つ、モスク。残念ながらイスラム教徒でなければ中に入れないということで、外から眺めた。
このシンゲッティは、12世紀から16世紀にかけてサハラ砂漠の交易で栄え、大学や図書館なども備える文化都市だったらしい。さらには、メッカ巡礼の中継地で、イスラム第7の聖地になったという。デジタル大辞泉でそう解説されているくらいなので、確度の高い情報なのかもしれないが、騙されている、あるいは言いくるめられているような気分になるのが不思議だ。
イスラム教の3大聖地はメッカ、メディナ、エルサレムというのは万人が認めるところで、すぐに思い当たる。しかし、第7の聖地となると、全くピンとこない。
そもそも、イスラム教の第4の聖地からして意見が分かれているようで、僕たちチームシマで9月に訪れたチュニジアのカイロアン(ケロアン)いう説もあれば、ウマイヤド・モスクがあるシリアの首都ダマスカスという意見も有力だ。さらには、80あまりのモスクが集まるエチオピアのハラールが第4の聖地だという人もいる。
それらの後に続くとしたら、確かにシンゲッティは第7の聖地なのかもしれない。でも、「第4の聖地」といわれる地だけでも3つの候補があることを考えると、「第7の聖地」の序列は実際にはもっと後ろ、10何番目あたりでも何の不思議もない。
話は少しそれるが、僕は学生時代、中東を旅していたときにウマイヤド・モスクを訪れたことがあった。そこでは、小学生くらいの息子を連れた父親に頼まれて写真を撮ったものの、写真に収めてもらっただけで満足ということで、住所も名前も知らされず、写真は僕の手元に残るだけになってしまった。
当時はデジタルカメラが普及する前。スマホのシャッターを押すだけで何枚でも好きなだけ撮れる今とは違って、フィルムカメラで写真を撮るという行為自体、少しばかりの決断を求められた時代だった。
あの父親は、父子の写真を撮ってもらうだけで本当に満足だったのか、それとも撮られた写真をほしかったけれども遠慮したのだろうか。今となっては確かめようがない。シリアでは2011年以来、長らく内戦が続いている。あの父子をはじめ、当時の旅で出会った現地の人たちがどのような運命をたどっていったのか、思いを馳せることが時々ある。
かつての繁栄を知らせる図書館
さて、図書館の前に着いた。運が悪ければ、管理人のおじいさんがいなくて外から眺めるだけだそうだが、この日はいたので中に入れた。
おじいさんはまず、屋外で昔の生活道具の話をしてくれた。その中には、写真では真ん中の椅子の下のあたり、女性が大量の牛乳を飲むために用いるおわんや漏斗などもあった。この話は後述する。
図書館の中に入ると、パイプ式ファイル、いわゆるドッチファイルが大量に本棚に収められていて、そこだけ切り取ってみたら日本の役所のようで少し興ざめした。ただ、その中に、きれいに色づけされたアラビア語の数百年前の古文書があったり、かなり古びた筆記用具があったりして、手袋をつけて触らせてもらい、間近で確認することができたのはありがたかった。ここが日本なら、文化財としてもっと丁寧に扱われているのだろうが、この国にはそんな概念も余裕もないのかもしれない。
この棒のようなものは鍵。奥に見えるかんぬきの側面に差し込んで使うんだとか。滞在時間はわずか20~30分ほどだったが、おじいさんにはガイド料として100ウギア(320円)を支払った。それだけの価値はあった。
図書館のすぐ近く、建物の外壁に出ている階段を上って高いところから旧市街を見下ろしてみた。
こちらの角度は逆光ながら、町の雰囲気が伝わってきた。
こちらは順光の側。砂漠の空地を挟んで奥に広がるのが新市街。手前の旧市街では、家屋の出入り口の前で座っている老女たちの姿が景色に溶け込んでいた。モロッコで訪れたサハラ砂漠の町は、砂漠の周縁といった様子だったが、ここシンゲッティはまさに砂漠のど真ん中と感じられた。
ここシンゲッティの旧市街を巡ってみて、ここがかつて「イスラム第7の聖地」だったとは、とても思えなかった。歴史をみれば、町の栄枯盛衰などは古今東西、どこでも起こっている話だと思うが、かつてのイスラム教の聖地としての繁栄の跡をわずかに残しつつ、寂れていっているようだった。
また、この旧市街は世界遺産にふさわしい保護が行われているとも、とても思えなかった。いずれは砂に埋もれて消えてゆく運命なのかもしれない。個人的には、それは残念なことだと思うが、このような遺産を大事にして残していくのか、時の流れに任せるのかどうかを決めるのは、第一義的には現地の人たちであり、一介の旅人の僕が口を挟める話ではない。
宿に戻ると、すでに寝る準備ができており、部屋の真ん中にベッドを置かれてしまっていた。監獄のような部屋が、あっという間に何かの儀式のような小部屋に様変わり。しかも、蚊帳を用意してくれた。アフリカに来てから初めての蚊帳で、ディープなアフリカに来たような感があった。しかも、よく見ると蚊帳にはかなり大きな穴が開いていた。これも「アフリカあるある」の1つなのだろうか。
この町にはレストランはなく、晩ご飯も宿でとることに。このシンゲッティに長居する理由はなく、僕は翌日の早朝から、ゆっきーの待つヌアクショットに向けて出発することにした。
ヌアクショットの女性たち
一方のゆっきーは、ヌアクショット滞在の2日目ものんびりとした1日だったよう。昼過ぎから宿のそばを散歩に出かけたら、砂漠そのものの砂の路地があったらしい。
ただ、アスファルト舗装された現代的な街並みもあるにはあるようだった。
そして、ヌアクショットは屋台の市場が発達していたという。
屋台の中でも、ゆっきーが特に魅せられたのは布だった。これはまた別の機会に紹介したい。
さらに、ゆっきーの目に付いたのは、街を歩く女性たちのカラフルな服装だった。イスラム教国家のこの国で、頭をヒジャブで覆わずに外出している女性たちは非常に珍しい。そして、この国でここまで着飾って外出できるのは、とても裕福な、ごく限られた家庭に違いなかった。
その後、宿に戻ったゆっきーは遅い昼ご飯。食事をしつつ、宿のオーナー、ボスコと話をしたらしい。
この男性がボスコ。彼によると、モーリタニアの女の人は働かないのが特徴なのだという。また、太っているのが仕事みたいなものだとも。以下、ゆっきーの語り。
「世界には、太ってる女の人が美しいとされる国は数多くあるけれど、モーリタニアもその1つで、古くから娘を適齢期までに太らせるという『ガバージュ』という風習があるらしい。
これがなんでも、毎日9ガロンのラクダのミルクを飲まなければいけない、というもの。そして、飲まなかったり、戻したりすると、足の指を万力で締め上げ、戻したものまで飲ませるという怖ろしい風習らしい。
女の子が充分に太っていないと、教育もろくに出来ない家庭、と見なされて、いいとこにお嫁に行けないんだそうな。だから親は必死で娘を太らせる、という構図。
それが原因で足の指が潰れたり、亡くなってしまう子も多いらしく、成人してからの健康リスクも高いし、今ではガバージュ撲滅運動があるらしい。
子どもに幸せになってほしいという思いは世界共通。でも行き過ぎた親の見栄やプライドってどこの国でもあるんだなぁ、と思った。そして犠牲になるのはいつも子ども。
好きなものを食べて太ってもモテるならいいけど、ラクダのミルクはキツイなぁ。」
ゆっきーの昼ご飯は日替わりのご飯で、魚とライスだったよう。身をくねらせておいしさを表現しているロバ太郎。
ちなみに、ボスコはカメルーン出身。ボスコというのは彼のニックネームで、意味は「デカい」らしい。生まれたときには4.5キロあり、それを見かけた大人達が口ぐちに「ボスコ!ボスコ!」と言ったことから、ニックネームがついたとか。しかし、現在のボスコは僕よりも背が小さいとのこと。
ボスコは、ゆっきーが宿のWi-Fiが通じていなかったときに、「ハズバンドは私がここにいることを知らないから、連絡したい!」と事情を説明したら、「部屋に置いてある自分のパソコン使ったらどう?」と話したので、ついていったそう。すると、なんと後ろ手にドアの鍵をガチャっと閉められたらしい。
ゆっきーは、なんでそこで鍵を閉めるのか?と思ったものの、何事もなく帰してくれて、ホッとしたそうだ。
チームシマ再合流へ
僕のほうの宿のWi-Fiはほとんど使えず、ゆっきーとボスコとのやり取りは知る由もなく、僕は翌12月3日の早朝、まだ夜が明ける前に宿を出発し、シンゲッティからアタールへと乗り合いバンで戻った。
気づけば、ゆっきーがアフリカを発って日本に一時帰国するまで、あと10日になっていた。
6時30分ごろ、アタールに着いても辺りはまだ暗く、行きにアイアントレインを降りてやってきたときのことを思い出した。
アタールからヌアクショットに向けては、15人乗りのマイクロバスのような車で出発。途中、3、4割ほど進んだアクジュージトという町で休憩した。砂が風に乗って舞っていた。
この町には空港もあるようだが、幹線道路沿いの様子を見ていると、とても空港があるような町には見えなかった。僕は先を急いだ。
旅の情報
今回の宿
Auberge Zarga(オーベルジュ ザルガ)
シングルルーム 1泊 200ウギア(630円) 素泊まり
設備:共用バスルーム Wi-Fiあり(ただしほとんど通じず、ネットサーフィンはできないレベル)
予約方法:なし
行き方:シンゲッティの新市街に車などで到着してすぐ。
その他:昼ご飯(鶏料理)、夜ご飯(パスタ)を注文。それぞれ200ウギアで、1食の料金が宿泊料金と同じだった。客が他におらず、高めに請求された可能性がある。