いよいよ、僕たちチームシマの2人の行程が分かれるタイミングがやってきた。
ここまでの道のりを振り返ると、日本を発ったのが2018年6月14日。中国経由でモンゴルの地に降り立ってから、基本的に陸続きで半年間ほど旅を続けてきた。東欧や中欧、そして北欧、西欧を行き来し、アフリカ大陸へ。いつの間にか西アフリカまでやってきていた。
その間、いくつものトラブルがあったり、幾度となく別離の危機を迎えたりしながらも、やりすごしてきた。そして、時にはバックパッカー冥利に尽きるような体験をすることもできた。時間を経ていくにつれて、僕たちは一心同体になってきている感が徐々に強まっていた。
チームシマ最後の日々、ゆっきーはヨーロッパを経由しての日本への帰国を前に、ダカールでのんびりと過ごし、僕は西アフリカを南下するためのビザの準備を進めることになった。
Table of Contents
アフリカ大陸では初めてのビザの申請
日本から遠く離れ、観光資源も多くはない西アフリカ諸国は、一般の日本人にとってなじみの薄いエリアだと思うが、それに輪をかけて、その存在を遠くさせているのがビザの存在だ。
これまで何度か触れてきたが、西アフリカ諸国を旅行するには、ほとんどの国でビザが必要となっている。モーリタニアのように国境や空港に到着時、すぐにビザを発行してくれるアライバル・ビザの制度がある国は少数派で、大半の国では、大使館や領事館で書類や代金を添えてビザを申請しなければならない。その代金も、一部の国を除いて5千円から1万円を超し、やけに高い。
しかも、やっかいなことに、申請する国や申請場所によって難易度も大きく変わるという特徴を持ち合わせている。どこの国のどこの大使館・領事館でビザを取るか、戦略を練らなければ、僕が大きな目標としていた南アフリカまで陸続きの旅を断念せざるを得なくなり、ビザはこの先、僕の大きなテーマになっていった。
そんなわけで、西アフリカのビザ申請の最初の動き出しは12月10日、ギニア大使館だった。僕が次に目指す国はセネガルに囲まれたガンビアで、再びギニアに戻ってきて、さらに次に目指すのはギニアビサウの予定。ギニアまではまだ時間があったが、ここダカールでビザを取るのが最も取りやすいということだった。
僕1人でワカム(Ouakam)地区にある宿「シェ山田」を出て、歩いて10分ほどのバス停からバスに乗り、メルモーズ(Mermoz)という地区にある大使館に向かうことにした。
ダカール市内を走る路線バスは大雑把にいって3種類ある。路線番号がついているものが最も使い勝手がよく、インドのTATA製の小型バスが多いので、僕はTATAと呼んでいた。続いては大型バスを使ったDAKAR DEM DIKKで、空港行きなどの中距離路線も運行している。もう1つは地元民がカーラピッドと呼んでいる乗り物で、小型バスよりさらに小さくボロい車体を派手に飾っている。
今回はTATAのバスに乗ってメルモーズへ。降りた場所には、年間を通して暖かいところらしく、ブーゲンビレアの花に囲まれたバス停の標識があった。
ギニア大使館に入った。僕は、日本ではインドやキューバ、シリアなどを訪れるために何度かビザを申請したことがあったものの、外国では初めてで多少、緊張していた。
警備員に目的を告げるとすぐに通してくれて、A4判の申請用紙をもらって、ボールペンで書いていった。フランス語が中心だったため分かりにくさがあったが、ものの10分もしないうちに書き終えた。証明写真2枚が必要で、もちろん用意していっていた。
今回、もっとも大事だったのはビザの種類。ネットで集めた情報では、1か月有効のシングルビザ(1回のみ入国可能)か3か月有効のマルチプルビザ(有効期間中は何回でも出入国が可能)があるらしいと聞いていた。ギニアには少なくとも2回は出入りがあると踏んでいたため、マルチビザを申請。費用は70,000セーファーフラン(約14,000円)で、アフリカの国々のビザ代金の中でもかなり高い方。シングルビザでも50,000セーファー(約9,700円)もした。現地の物価からしても、とても割高に感じた。
申請は何のトラブルもなく、あっけなく終了。翌日の15時にはでき上がるというので、その時間をめがけて大使館を訪れることにした。
写真は大使館付近の道路で、のんびりしているように見えるが、左側が舗装路の幹線道路に面していて、実際はかなり騒がしかった。
なぜか大使館の近くまでUターン
意気揚々とワカムにある宿まで引き上げてきた僕に対して、待ち構えていたゆっきーは、ダカールで行き残していたところがいくつもあるらしく、この日から訪ね歩いて回ることになった。
そのうちの1つが、セネガルでは珍しいヨーグルトの専門店。その店がある場所は、ギニア大使館と同じメルモーズ地区で、僕はせっかく宿に帰ってきたにもかかわらず、改めてメルモーズまで行くことに。
ヨーグルトを食べにいく前に、ダカール到着の日以来となった宿近くのセネガル料理店「Chez Badji」で昼ご飯。この日は2人ともヤッサプレを食べた。
僕にとってはこの日3回目のバスに乗って出発。座席の背もたれに印されたTATAのロゴは、こうやって見るとどことなくトヨタを彷彿させた。
約30分ほどで、メルモーズにあるヨーグルト専門店付近のバス停に到着。写真の建物か?と思ったものの、どうやらパンやサンドウィッチなどがメインの別の店のよう。
ほどなくして、目的の店「Yogurtlandia」の看板が見えた。いかにも甘そうなジェラートの気配が看板からうかがえた。
冷房の効いた店内に入ると、イートインスペースが確保されていた。メニューにあったヨーグルトアイスクリームとクレープを1つずつと、飲み物にコーヒーを注文。アイスとクレープはどちらもおいしそうで、ロバ太郎がまんざらでもない様子で映り込んでいた。
店の様子はこんな感じ。出されたものを味わってみると、キャラメルのトッピングをしたアイスはとてもおいしかったものの、クレープは薄くてパサパサしていて、やや残念だった。
しばらくゆっくりして、店を出てから改めて外観をまじまじと見つめてみた。どことなく怪しさを感じた一方で、外壁にはセネガル国旗に加えてイタリア国旗もあり、Wi-Fiのマークのほかクレジットカードの利用可の表示もあって、ここダカールでは高級店なのだろうことがうかがえた。
宿方面のバス停へと向かおうとすると、バイクの存在が気になった。ゆっきーの目には派手な服を着た女性の姿が気になったようだ。
東南アジアでは都会でも田舎でもあふれかえっているバイクは、アフリカでは「バイクタクシー」と呼ばれる移動手段として使われる以外には、なかなか見かけることがない。ただ、写真のバイクは、個人で乗り回すために使っているように見えた。塗装や車輪の状態からしてまだ目新しそうなこのバイクは、シートが半透明のビニールで覆われていた。乗り主が大事に使っているであろうことが想像できた。
バス通りでは、道路わきで絵画を売っている商売人がいるようだった。これでは、せっかくの絵が排ガスで汚れてしまうと思うのだが、それくらいの扱いでもいいほど価値のない絵ばかりなのかもしれない。
そしてこちらが、先に紹介した路線バスの一種、カーラピッド。車内に入りきれないほどの乗客を乗せていて、さすがにこの中に乗り込んでいく度胸はなかった。
宿から少し離れたバス停で降りて、そこから宿まで帰っていった。ここでもゆっきーの印象に残ったのは、現地の女性たちがまとっている服装と、その着こなしだった。
こちらは、頭に荷物を、背中に子どもを抱えてたくましさが漂っている女性。
帰る途中、謎のモニュメントと壁画が描かれた家を見かけた。
昼と同じChez Badjiで晩ご飯用に持ち帰りを買って、ようやく宿に帰ってきた。
持ち帰りは銀色の容器に包まれていて、ちょっとした高級弁当のような面持ち。これはこれでなかなかいい味を出していた。
今回は、何度も食べたヤッサプレに加えてヤッサビアンデという料理も頼んでみた。「ビアンデ」はフランス語ではviandeで、肉全般を指す。よく味わいながら食べてみたものの結局、何の肉なのか分からなかった。
ゆっきーとこうして乾杯できるのも、これで最後かもしれない。じっくりと料理とビールを味わった。
新たな旅人との出会い
翌11日は、前の日と同じく昼間はギニア大使館まで行った。この日のおでかけは、ゆっきーも一緒だった。
そして、無事にビザをゲット!別の旅人のブログで見かけたことのあったビザとはかなり違って、白黒のあっさりしたデザインのビザのシールが貼られていた。ここからこの先、いくつの国のビザのシールやスタンプが、僕のパスポートに刻まれることになるんだろうか。
ホッとして大通りを行くと、「Tarou」と日本人の名前っぽいものが書かれた仮囲いが。しかし、日本とは関係がなさそうだった。
そういえば、マリのケイタ大統領も日本人っぽい響きで、アフリカでは、日本人か日系かと、ドキッとするような名前が時々ある。
そして、ゆっきーにとってのお待ちかね、この日もYogurtlandiaに寄って、アイスクリームを注文。昨日の様子では1つでも十分に大きかったので、この日は2人で1つ注文した。ゆっくりと時間を過ごして、宿へと帰っていった。
すると、この日は宿の「シェ山田」に新たな宿泊者の姿が。ドイツ在住のNさんで、短期の観光でやってきたらしい。
この旅で日本人の旅行者と出会うこともなかなかなく、ここセネガルのダカールで、というのもまた珍しい話だった。ただ、日本人宿に泊まっていればそれもまた、当然のことなのかもしれない。山田さんは僕たち以外の日本人がやってきて、うれしそうにしていた。
ちなみに、こちらはそれより前の日、山田さんが撮った3ショット。3人とも基本的に笑顔で写っていた。僕たちの旅のことや、Nさんの生活のことを話題にしながら、ゆっきーのセネガル最後の夜はあっという間に過ぎていった。
2人旅の締めくくりにゴレ島へ
ゴレ島は、ダカールの中心部から約3キロの沖合いに浮かんぶ、東西約300メートル、南北約900メートルの小さな島で、かつては奴隷貿易の拠点として、ヨーロッパの列強諸国による領有権争いが繰り広げられた。
チームシマとして続けてきた旅の最終日は、このゴレ島に訪れることにした。いうなれば人類の「負の遺産」が2人での最後の訪問先というのも、少し残念な気もした。
ただ、このゴレ島は1978年に世界遺産に登録された、いわゆる「世界遺産第1号」の12件の中の1つ。そんな歴史的な場所を訪れることができて、ありがたくもあった。
そして、ゴレ島行きにはもう1人加わった。その人はもちろん、前日、シェ山田に着いたばかりのNさん。3人で宿の近くからタクシーを拾い、ゴレ島行きのフェリーがあるプラトー地区へ。ダカールの最南部にあるこの地区は、官庁街やオフィス街が広がる、ダカールの心臓部ともいってよいエリアのよう。
そんなプラトーを横目に、ゴレ島まで出ているフェリー乗り場へ。平日の水曜日の朝だったが、中学生くらいの子どもたちがたくさんいて、にぎやかだった。
フェリーが出発。人が結構乗っていた。乗り場で一緒になった子どもたちを見ていると、中にはタブレットやスマホのような端末を持っている子どももいて、ここダカールでは相当、裕福な子どもたちなんだろうということが想像できた。
フェリーが出発してから約30分でゴレ島に到着。パッと見には、悲惨な歴史を刻んだ島のようには見えなかった。
しかも、着いて最初に目に付いたのはハート形のオブジェ。この島の歴史には似つかわしくなく、まるでリゾート地のようで、オブジェを写すにも気後れしてしまい、ひとまず島内を歩いてみることにした。
こちらは奴隷制度廃止を記念する像。確かに両腕の鎖が切れていたが、一目では何を意味するのか分かりづらかった。
チームシマのメンバー、ロバ太郎もじっと眺めてみた。
こちらは「奴隷の家」で、ゴレ島の中でも特に有名な建物。1階の狭い部屋に奴隷となった人々が所狭しと収容され、2階は白人たちの部屋だったそう。そして、真ん中奥に見える海へとつながる扉は「帰らざる扉」(Door of No Return)と呼ばれ、ここを出て出港すると、奴隷たちは2度と故郷に戻ってくることはなかったという。
その帰らざる扉に続く廊下を歩いてみた。陰鬱な空気が壁にまでしみ込んでいて、真っ青に晴れ渡ったこの日の空と対照的だった。そして、僕たちチームシマがポーランドに滞在中の8月初旬に訪れた、真っ青な空の下のアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所を思い出した。
この島にはほかにも、ボロボロになった建造物も残されていた。
一通り島をみてまわるとようやく、ハートのオブジェの前で写真を撮る気力も出てきて、Nさんと一緒に撮影。
チームシマの2人でも写真を撮った。
1時間ほどの滞在のあと、島に別れを告げてフェリーでプラトー地区に戻り、Nさんと一旦別れて宿の方面に向かった。プラトーは首都の中心とあって、車や人でごった返していた。
チームシマの別れ
いよいよ、ゆっきーとの別れが近づいてきた。ゆっきーのフライトはイベリア航空の22時30分過ぎにスペインのマドリードへ向けて出発する予定の便で、ゆっきーはマドリードで乗り換えてパリに向かうことになっていた。パリでは2日間滞在して、それから日本に帰るという流れだった。
ゆっきーの帰りの航空機のチケットを予約したのは1か月以上前、まだモロッコのラバトにいたとき。そこからもう、この日に向けてのカウントダウンは始まっていた。
ラバトからここに至るまでの間には、何とも言えない、もどかしいような思いを感じることが幾度となくあった。だが、振り返ったところでどうにもならない。そんなことは分かりきっていた。
ゆっきーにとってはセネガルで最後の食事も、Chez Badjで。前の日も食べたヤッサビアンデと、新たにチェブディウルという料理も試してみた。
チェブディウルはかなり謎めかしい見かけだったが、いつもどおりおいしかった。
宿に戻って出発準備をして、山田さんたちにあいさつをして、バスで空港へと向かった。宿があるワカムにもバス停があって便利だった。日本でもよく見かける、標準的な路線バスの形をしたバスに乗り込んで空港へ。
こちらは、前日に見かけたときに撮った空港行きのバスの写真。
401番という番号が割り振られたDAKAR DEM DIKKの空港行きバスは、約2時間という長い道のりの割には、運賃は1,000セーファー(190円)と格安だった。しかも、運賃やバスの写真が刷り込まれた、きちんとしたチケットを渡してくれて、ちょっとした特別感があった。
車内はそれほど混んでおらず、余裕を持って座れた。徐々に日は沈んでいったが、車内に電灯がつくことはなかったのが、日本のバスとは違うところ。僕たちはあまり言葉を交わすこともなく、なかでも僕は、これから訪れる孤独をかみしめていた。
19時30分を回り、辺りがすっかり暗くなったところで、ダカールのブレーズ・ジャーニュ国際空港(Aéroport International Blaise Diagne)の最寄りのバス停に着いた。
この空港は1年前の2017年12月にオープンしたばかり。それまでは、宿からも近いダカール市街のヨフ(Yoff)の空港が使われていたらしい。バスは治安上の問題からか、空港の中にまでは入っていかなかったので、空港の敷地の警備員がいるところまでゆっきーを送っていった。
「気をつけて帰れよ!またパリに着いたら連絡してね。日本に帰ったら皆によろしくね!」
「今度会うのはアフリカの南の方かな?くれぐれも気をつけて旅するんだぞ!ネット回線がつながるときはこまめに連絡してね!」
周りには誰もいなかった。2018年12月12日、旅に出てからほぼ半年。空港からのライトがかろうじて、僕たちを照らす中での別れだった。ロバ太郎や、モロッコのエッサウィラ以来、なかなか出番がなかったビーバーのごんばはじめもゆっきーが連れて帰るため、ここでお別れ。手を振ってゆっきーを見送った。
この夜のゆっきーのように去る人もいれば、前夜のNさんのように来る人もいる。人生の摂理を考えれば、それは当たり前のことだろう。僕は遠くモンゴルからここまでやってきて、そしてとどまった。
バックパッカーにとっても一筋縄ではいかない西アフリカの道のりは、これまでも味わってきた。この先どこまで行けるか分からないし、ゆっきーがいないことによる不安もあった。
ひょっとしたら僕が1人旅をしている間に事件や事故に遭って、2度と会えないかもしれない。とにかく西アフリカの情報は少なく、どこにどんな危険が潜んでいるかも分からない。けれども、行けるところまで行ってみよう。何とか気を奮い立たせていた。
そして、感傷に浸る間もなく、次の現実がやってきた。この日の最終バス。終バスの時刻は20時30分ごろと聞いていたが、ここでも確実な情報は持っておらず、本当にその時間にバスは来るのか、定かではなかった。下手したら、この日のうちに帰れない可能性もあった。
バスを降りた幹線道路まで戻ってきて、反対車線でバスを待った。国内最大の国際空港の手前の道路だというのに、何ともがらんとしていて、時折、思いだしたかのように車がやってきていた。
歩道からやや離れた、何も書いていない柱がバス停の目印だと思い、そこでしばらく待っていた。すると、他にもバス待ちの人がやってきて、どうやら僕の勘は正しかったことが分かった。
行きと同じようにバスに乗り込んだ。そして、車内ではやはり、電灯はつかなかった。どうやら、これがダカール仕様らしい。車内が暗かったからか、僕はいつの間にか寝てしまっていた。
そして、起きて間もなく、バスがよく分からない場所でストップした。バスの運転手が叫んで、他の乗客がぞろぞろと降りていき、何事かと思いながら僕もそれに続いた。すると、前に待っていたバスに乗り換えて、宿の方面に向かうようだった。
ひとまず、無事に宿近くのバス停まで行って一安心。宿では、ゆっきーと過ごした2人部屋から、6人が泊まれるドミトリーの部屋に移り、Nさんと同室になった。
空港帰りのバス旅と、この旅で初めてとなるドミトリーを通じて、これから本格的な1人旅が始まることを実感した。
旅の情報
訪れた食事処
Yogurtlandia
注文品:(初回)アイスクリーム、クレープ、コーヒー1つ 4,500セーファー(870円)
行き方:メルモーズのマダガスカル大使館がある交差点を北東に上がって左手すぐ。
その他:他にはワッフルやパンケーキなども置いてあった。