セネガル その4 噛みしめる1人旅 ピンクの湖を経て次なる国へ

半年間、続けてきた僕たちチームシマの2人旅は前回、セネガルのダカールで終わり、ゆっきーは帰国の途に就いた。西アフリカは交通や衛生面、治安に不安があったのが大きな理由だった。次に合流する予定のアフリカ南部までは僕の1人旅に。どこをいつごろどう旅していくのか、そのすべては僕に委ねられていた。

ダカールではすでにギニアのビザを取り、ここに留まる理由も見当たらない。この地を去る前に、1つ行き残したところがあるとすれば、観光地として知られる湖の「ラック・ローズ」ぐらいだった。1人旅の皮切りに、湖までを往復して少し感覚をなじませてから、次なる国のガンビアへ向かうことにした。

バラ色というよりは血の色?の湖

1人旅となって初めての13日の朝は、宿の「シェ山田」のドミトリーで同室となったNさんの目覚ましで起きた。2人旅のときにはなかったような経験で、他の宿泊客が同居するドミトリーの雰囲気と合わせて新鮮だった。

Nさんと2人で、宿のオーナーの山田さんがおすすめしていたサンドウィッチ屋へ。空港行きのバスが発着するバス停の近くの建物に入っている店で、店名はなかった。

売っていたのは、日本では標準的な食パンではなく、細長いフランスパン。店内は暗く、売店のような雰囲気でイートインスペースがあるような店でもなかったので、1本買って、バス停まで移動して座って食べた。パンの向こうに見えるのは、昨日、ゆっきーを送っていったのと同じ401番の空港行きバス。

パンの中にはポテト、ゆで卵、牛肉が入っていて、ボリュームがあり、おなかいっぱいに。

ここでNさんと別れて、ラック・ローズへ。フランス語を直訳すると「バラ色の湖」となるこの湖は、水面がイチゴミルクのようなピンク色で、しかも塩分濃度があの死海より濃いから余裕で体が浮く!とのことらしい。

まずは、TATAのバス停まで歩いていった。バス停の反対側は広場になっていて、開店前の屋台の骨組みが群れをなしていた。

ラック・ローズは、宿があるワカム(Ouakam)地区からは、前日往復したばかりの空港と同じくらい遠く、44番のバスでダカール郊外にあるバスターミナルまで行ったあと、別の路線バスに乗り換える必要があるという。

こちらはシェ山田にあった地図。右上のパン屋「ブリオシュ・ドーレ・ワカム」の近くにもバスターミナルがあり、44番のバスは始発で座れるため、より楽に行くことができるという。9時すぎにはバスをつかまえることができ、1時間ほどしてダカールの東隣に位置するピキンの乗り継ぎ場所、ポスト・チャーロイ(Poste Thiaroye)という交差点に着いた。

ここで73番のバスに乗り換え。このバス停で止まるバスが多すぎて、丸い案内板がカオス状態になっていた。

ここからは、待ち時間も含めて1時間半くらいかかった。

いきなり未舗装路に入って、バスのすれ違いがギリギリの商店街や住宅街をくねくねと走り、砂煙が立つなか、人も街並みも地元色が強く、露天商が幅を利かせていて、まさにアフリカといった風情。車窓の外を眺めているだけで楽しく、これだけでここまで来た甲斐があったといっていいくらい。

終点のラック・ローズで降りると、歩いて1、2分で湖が見えた。近寄ってみると、湖面の色が普通ではないことはすぐに分かった。

ここからどうしようか考えあぐねていると、英語で話しかけてくる若い兄ちゃん風情の人が。ボート漕ぎをしている人だった。

「15分10,000セーファーでどうだ?」

「高い!」思わず叫んでしまった。

「いくらなら乗るんだ?」

買い手側に金額を委ねるのは、値札のない買い物などの交渉では常とう手段。相手のペースに乗せられまいと僕が押し黙っていると、答えるよう促された。

「3,000セーファーなら」

「5,000セーファー。これがラストプライスだ」

他にボートの漕ぎ手はいそうもなく、まあこんなものかと相手の言い値で話をつけて、ボートに乗った。

このラック・ローズは塩分濃度の高い塩の湖で、塩分を好むオレンジがかったピンク色の藻が大量に繁殖するために、湖水の色が変わるらしい。実際には、湖面がピンクに見えることはほぼなく、せいぜい赤茶色、しかも見え方は気象条件に左右されるという。そんな事前情報も得ていたので、期待値を下げていた。

しかし、沿岸から離れると、ワインレッドのような、あるいはカシスリキュールを薄めたような水面が迫ってきた。

ボートにはセネガルの国旗が立てられ、ボート自体も色あせてはいるが、赤、黄、緑の3色が塗られていた。

動画ではこんな様子。ボートに乗っていると、水面が意外と近かった。写真よりも動画のほうが赤みがかっていて、血が薄まって流れているようにも見えるが、これは場所によって色合いの見え方が違っているから。

どこかのタイミングで湖に入るつもりで、僕は海パンをズボンの下に履いてきた。しかし、この日はそれほど暑くはなく、動画で見るとよく分かるように、風が強かった。

体に塩がつくと後が面倒なのは昔、中東を旅したときに死海に浮かんだ経験から分かっていた。それに、1人になった直後にまた、モロッコでひいて半月ほど引きずった風邪が再発したら……。いくつかの要素が頭に浮かび、湖面に浮かぶのはやめることにした。

ボートの運転手が途中で、塩を採っている人のところまで案内してくれた。この黒人が舟に載せているのは海底にたまっている塩で、すくうと簡単に採れるという。写真を撮ってもいいというので撮らせてもらい、チップを渡した。

帰り際、陸が近づいてくると、湖面の色はより赤に近くなっていた。沿岸部より湖の真ん中のほうが、ピンクに近い色のように見えるらしい。

前日、宿のオーナーの山田さんにラック・ローズに行くことを話すと「ボートには乗ったほうがいいですよ」と勧められていたが、その理由はボートに乗ってみてよく分かった。

ボートの運転手は、15分間と言っていたのに結局、30分弱は湖面に浮いてくれていた。降り際にチップを求められたが、交渉で決まった料金が相場の上限いっぱいくらいだったことは分かっていたので、断った。このあたりはもっとうまいことやってくれたらいいのに、わざわざ気分を害する方向に持っていってしまう人が多いように思う。

セネガルの売り子の粘り強さ

ボートから降りると、土産物を売りに来ていた女性がいた。僕にほしいものもなく、会釈してスルーしようとしたら、ついてきた。

そして、「これはフリー」と言われて、腕輪を左手に付けられた。

「いらないよ」。僕は腕輪を外して返そうとするが、受け取ってもらえない。

「私の写真を撮ってもいいよ。無料だから」

相手がそう言ってくれたことに加えて、何かトラブルがあったときの証拠にもなるだろうと思い、写真を撮った。よく見たら、来ているシャツには「TROUBLE MAKER」(トラブル・メーカー)と書かれていた!これは要注意か。

「WhatsApp(ワッツアップ)で写真を送ってね」

相手からそう言われて、紙に書いたアドレスを渡された。ワッツアップは、簡単にいえばLINEのようにメッセージや写真、動画が送れるアプリ。電話番号があれば登録できる。日本での存在感はLINEほど大きくはないが、メッセージングアプリでの全世界シェアはトップだ。

女性はさらに、商品を一通り見てほしいと言ってきたので、腕輪を返すついでに、この女性が抱えているものを見せてもらった。でも、ほしいものは1つもなかった。

僕は相手にするのに疲れてきて、湖のほとりに向かって歩き出すと、どこまでもついてきて話しかけてくる。ただ、ここで根負けしてしまうと、始まったばかりの1人旅で、しつこさに負けた感触をズルズル引きずってしまいそうな気がした。

そういえば、サン・ルイに向かう途中、停車した乗り合いバンの車内に、売り物の果物を強引に押し込んできていた女性たちもいた。セネガルの売り子の粘り強さはどこでも共通しているのかもしれない。

別の初老の男性に声をかけられて話をしはじめると、女性はようやく諦めてくれた。僕の記憶の限り、この粘りはモロッコ以降では一番だった。

少し歩いていると、パリ・ダカールラリーのゴール地点だったことを示すモニュメントを見かけた。

湖にはもう少し長居しようと思っていたが、物売りなどに声をかけられて情緒がなくなってしまい、1時間ほどの滞在で路線バスに乗って帰ることにした。

帰りは3時間弱かけて、行きも使ったバス停に戻ってきた。すると、広場には屋台がびっしりと広がっていて、朝に見た景色とは全くの別物。

少し中に入ってみると、汚れたブルーシートの上に無造作に積まれた衣類は、売り物とは思えない扱いだった。これでは、もし僕が地元の住民だったとしても、買う気は起きないだろう。

屋台を横目に宿へと向かい、すっかり通いなれたセネガル料理店「Chez Badji」で持ち帰りを買って帰った。

この日は昼ご飯が抜きになっていたので、宿に帰ってさっそくご飯。最初に訪れたときに注文したクスクスを食べた。右側の主食がクスクスの特徴を表していて、左側は牛丼店などにもありそうな見た目。日本人好みの甘辛い味付けで食べやすかった。セネガル料理は日本人との親和性がとても高い、と改めて思った。

2日目となったシェ山田のドミトリーに戻り、体を休めた。僕は一番奥の下側のベッドを使っていた。

Nさんはこの日、泊りがけで出かけていて不在。僕は、今まではいつも横にいたゆっきーがいない寂しさを感じつつも、いないならいないで1人きりになりたい気分だったので、ちょうどよかったかもしれない。ドミトリーは清潔で蚊帳も完備されていて、通路も広く、快適な空間だった。

そして、この日にラック・ローズを訪れたことで、僕がダカールでやり残したことは、もうなくなっていた。

アフリカとは一転、クリスマスムードのパリで

一方のゆっきは、ダカールを離れて13日の未明、スペインのマドリードに到着。僕たちチームシマの旅では、スペインの首都・マドリードには足を運ばなかったから、乗り換えとはいっても初めて訪れる地となった。

次は朝7時台のイベリア航空のフライトでパリへ。外はまだ真っ暗。

1時間半ほどでパリのオルリー空港に到着し、東京に向けた飛行機が出発するシャルル・ド・ゴール空港近くのホテルにチェックイン。この日は、ホテルの近辺で英気を養ったらしい。

ゆっきーとともに帰国することになったチームシマのメンバー、ロバ太郎と、メンバー外のビーバー、ごんばはじめはパリのホテルで快適そうな様子。

ゆっきーはその翌日、パリ中心部を散歩しつつ買い物に精を出したよう。

こちらは、パリ1区に飾られていた巨大クリスマスツリー。ダカールではまず見かけることはなさそうな規模で、そもそもイスラム教が盛んなセネガルでは、クリスマスツリーを見ることもないだろう。

ポンピドゥーセンターの近くの路上。左側のコンテナハウスを使ったような屋台の群れは、僕が見たダカールの屋台とは見た目も売っているものも、雲泥の差のようにみえる。

セーヌ川の北側からパリのど真ん中、シテ島を眺めた様子。1つ1つの重厚な石造りの景色がさまになっていて、同じ世のものとは思えない。

そして、この日のゆっきーのミッションはバターを買うことだった。旅の途中からバターコーヒーに凝っていて、パリのおいしいバターを日本に持って帰ろうという目論見があったらしい。

こちらがその戦利品。バター以外にも、ミシュランが発行しているアフリカの地図や、旅の間にも使っていたヴェレダのオイルなどを買っていたよう。いろいろ買えて、ロバ太郎はほくほく顔になっていた。

翌15日は早くも、ゆっきーがパリを離れる日。正午前に発つアエロフロートのフライトで、モスクワ経由で成田まで帰る行程だった。

このころのゆっきーの思いといえば、「旅を思い返せば、一瞬一瞬がもう戻れない輝かしい時間でありました。楽しい時も苦しい時も、いい人も嫌な人も今思えば全部がいとおしい」ということだった。半年間、けがも事故も犯罪もなく、素敵な旅ができたことに感謝していたという。そして、僕がいないと、意外と寂しかったそうだ。

遠いガンビア川への道のり

ゆっきーがパリを散策していた14日を僕は休養日に充て、翌15日、ガンビアに向けて出発することにした。

僕しては珍しく起きだしが遅くなった14日の朝10時過ぎ、外に出てみると、ダカールに来てから初めての曇り空。地面には雨が降った跡もあった。

前日に続いてサンドウィッチ屋に行き、1本買った。包み紙が新聞ではなく、オレンジ色を基調とした家電製品の広告だったのが印象的。

この日は、宿に帰ってきてからサンドウィッチを食べた。明るいところで開いてみると、中身はこんな感じ。意外と具材が多く入っていた。そこからは、1人となって初めての長距離移動に向けた出発準備をした。

そして翌日。ゆっきーがパリから日本に向けて発った15日、僕はガンビアに向けて出発した。1週間あまり滞在したこのシェ山田も、もう戻ってくることはないだろうと思った。山田さんは「いつでも戻ってきてくださいね!」と声をかけてくれたけれども。

朝7時過ぎには宿を出発して、歩いて30分弱ほどの44番の路線バスの始発バスがあるターミナルから、前々日にも訪れたピキンに位置する大型ターミナルのガラージュ・ピキン(Gare routiere des Baux Maraichers)を目指した。

他にもガラージュ・ピキンに行くバス系統はあったものの、この44番を選んだのは、やはり始発で座って乗っていきたかったから。まるで大都市圏の朝ラッシュに耐えられないおじさんのようではあったが、それはここセネガル。どこにスリや強盗が潜んでいるかも分からず、荷物が多いため、できる限り自衛する必要もあった。

上の地図でいえば、ワカムが出発地点で、前々日に乗り換えたポスト・チャーロイが右端。その左の「A1」と書かれ、オレンジの道が交わるあたりにガラージュ・ピキンはある。

この日は土曜ということもあり、道はすいていて、バスに乗ってから1時間足らずで到着。定員7人が集まったら出発する乗り合いバン「セットプラス」のガンビア行きを探していると、最後のピースにうまいことはまったらしく、ほとんど時間をロスすることなく出発できた。しかも、特に快適な助手席だったが、その分1,000セーファー(190円)余分に支払うことになった。それでも、通常運賃の6,000セーファーに加えてなら、安いものだったかもしれない。

ダカールから郊外に抜けるまでは排ガスがひどかったが、その後、南東の内陸方向に差しかかると明らかに緑が増えてきて、バオバブの木もたまに見かけた。

そして、国境に近づいてくると、道路を渡るヤギの群れが。久しぶりに西アフリカの自然を感じられた。

国境には14時30分ごろ到着。ここの国境はセネガル側がカラン(Karang)、ガンビア側がアムダライ(Amdallai)というらしい。何の苦労もなくセネガルの出国スタンプを押してもらい、歩いていくとすぐにガンビア側のイミグレーションオフィスが見えた。

ただ、イミグレーションに行く前にビザ代を確保する必要があった。このガンビアは、日本国籍の場合はアライバルビザが取ることができて、ビザ代はガンビアの現地通貨・ダラシで支払うのが一番レートがいいらしい。

ウエスタンユニオンの両替所だとお札をごまかされずに安全だというので、向かったものの、出入口が閉まっていた。ドンドンと扉をたたくと男性が戻ってきてくれて、手元の50,000セーファー(約9,700円)を4,150ダラシに両替してくれた。

そのままイミグレーションへと行き、奥に案内された。ビザの有効期限はこちら側の申告に応じて決まるらしく、僕がビザ代の3,000ダラシを払って「3週間滞在します」と話すと、28日間有効のビザスタンプを押してくれた。

このガンビアの特徴の1つに、西アフリカでは数少ない英語圏の国ということがある。公用語は英語で、イミグレーションの係官とも英語のやり取りでスムーズに話ができた。英語がこれほどまでに通じるのはヨーロッパ以来で、とてもありがたかった。

ここまでも十分長かったが、ここから先もまた長かった。

進行方向の左の分かりにくい脇道に入り、乗り合いバンに乗り込んでガンビア川の河口の街、バッラを目指した。乗客は助手席に2人、2~4列目に4人ずつのぎゅうぎゅう詰めで、国が違えばこんなにも変わるのかと思ったり。バッラまでは約20キロほどの短い道のりだったのが救いだった。

バッラの港に着いたのは16時前。宿を出てからすでに9時間が経っていた。ここからガンビア川をフェリーで渡り、首都のバンジュールに着いてから、この国の最大都市・セレクンダまで行くつもりだった。

しかし、フェリーを待っていてもなかなか来ない。他に待っている人たちは、きれいに着飾ったアフリカ人ばかりで、悠長に構えているようだった。

この様子だと、セレクンダに着くのはいつごろになるだろうか。じわじわと焦りが襲ってきた。

結局、フェリーが来たのは17時45分ごろ。この日も昼抜きでお腹が減っていて、何か食べておけばよかったと思った。待っていた人たちがぞろぞろと歩き出し、フェリー乗り場へと向かった。すでにガンビアの国境は超えていたが、川を渡ってからがようやく、この国でのスタートになるような感覚がしていた。