ガンビアの洗礼! 最低レベルの安宿に苦しめられる

セネガルの首都ダカールから一時帰国する妻のゆっきーを見送った僕は、引き続き陸続きで旅をつづけ、次の目的地となるガンビアの最大都市セレクンダを目指した。

そして無事に国境を越えたものの、すでに日は沈みかけていて、その日の宿も未定のまま、ガンビア川を渡るフェリーに乗り込んだ。明日はおろか、今夜のこともまだ見通せていなかった。

観光地で待っていた宿

ガンビアはガンビア川に沿った、消化管のような形をした国だ。その国土はすべてセネガルに囲まれている。なぜこんなに細長くセネガルと国が分かれているのかといえば、このあたりの国々の例に漏れず、かつての西欧の植民地政策にいきあたる。

ガンビアの国土の領域流域は18世紀、フランスとイギリスの争いの後にイギリスの支配が確立し、1965年に独立するまでイギリス領だった。そのため、現在もイギリスとの関係が強く、公用語は英語で、フランス語がよく通じる周辺の国々のなかでも独自の立ち位置にいる。

そういったことは予備知識として得ていたが、暗くなりかけたガンビアでようやく首都バンジュール行きのフェリーに乗り込んだばかりの僕にとっては、当面の問題はいかにしてこの日、最大都市のセレクンダまでたどりついて寝るところを確保するか、に絞られていた。

フェリーは17時45分ごろ到着したが、そこから乗客や荷物などが乗り込んで出港したのは18時30分ごろ。すでに空は暗くなりかけていた。そして、対岸にある首都のバンジュールに着いた19時15分ごろには、当然、日が暮れていた。オレンジ色のライトに照らされながら大勢の人たちが押し合いへし合いフェリーを降りていくなかで、写真を撮影する手が震えた。僕も気後れしながら先へと向かった。

セレクンダに向かう乗り合いタクシーを探すと、350ダラシ(780円)で行くというドライバーが現れた。

「さすがに高すぎる」

価格相場に不慣れな外国人をカモにしようという人かもしれなかった。朝からの疲れを引きずりながら、タクシーの誘いを断って、フェリー乗り場を抜けて暗がりの中を歩いていった。

「セレクンダに行く車の場所はどこ?」と地元の人に聞いて回り、乗り合いタクシーの場所を発見。相場の2倍の50ダラシ(110円)を払うとすぐに出発、僕以外の乗客は2人だけで快適だった。

セレクンダのウェストフィールド(Westfield)というエリアで降りると、ここでもタクシーの運転手から声をかけられた。どうもこの国は、セネガルの商売人のように、こちらに向かってぐいぐい来る人が多いらしい。運転手の誘いは無視してさらに乗り合いタクシーを探すと、セレクンダの北方にある港沿いの町、バカウ(Bakau)行きが見つかったので、それに乗ってさらに移動した。

町に着いてからは、数少ない情報をもとに、泊まろうと思っていた「バカウ・ロッジ」まで歩いていくと、すでに閉業。他に候補としていた「ヘリテージ・ホテル」(Heritage Hotel)は、思っていた料金の2倍を提示され、その近くの宿に誘われたので部屋を見たところ、棚がホコリをかぶっていて清潔そうには見えず、そこに泊まるのはやめにした。

結局、バカウの海沿いのメインストリートに戻り、看板も出ていない「ロマナ・ホテル」(Romana Hotel)に泊まることに。ここも一応、ネットで情報を得てはいたが、候補にはしていなかった。

部屋はこんな様子。クーラーもWi-Fiもなく、電源を取れず、シーツには汚れがあり、この日は断水のため汲み置きの水しか使えない、という惨状だったが、時刻は21時を回っていて、もうこれ以上探す気力もなかった。

しかも、この宿の手前で「案内」と称して後ろからついてきた現地人2人が「案内料をよこせ」と言ってきた。

「あんたたちが勝手についてきただけだから払えない。今日はダカールから移動してきて疲れているから帰ってくれよ」

そう伝えると、ようやく去ってくれた。

この日は朝から何も食べておらず、宿探しでは重い荷物を抱えながらあちこち歩いていて、疲れていたのは事実だった。少し部屋で休んだあと、併設されているカフェ・バーで晩ご飯。

まずはコーラ。この日は途中から飲み水を切らしていて、この1杯のコーラが天国のように感じられた。ところで、こういう南国のコーラは日本で飲むとのは違って、なぜこんなにおいしく感じるのだろうか。

注文した食事はスパゲッティ。最も無難なものを、とスパゲッティを選んだものの、皿の端に付いていたチーズの存在がよく分からなかった。日本人とガンビアの人たちの感覚の違いなのかもしれない。とにかくサッと食べて、部屋に戻ると体も洗わず眠りについた。

かたや無事の帰国、かたや再度の宿探し

一方で、セネガルから空路でダカールを出たあと、パリに滞在していたゆっきーは、15日12時ごろのアエロフロート便で出発し、ロシア・モスクワ経由で日本に帰国することになっていた。

15日午前、ゆっきーが帰国便に乗ったシャルル・ド・ゴール空港は、ヨーロッパの冬を思わせる曇り空。

モスクワに到着し、日本行きのフライトに乗り換え。サンクトペテルブルクを去った7月上旬以来、5か月ぶりのロシアの地だったが、感傷に浸る間もなく乗り換えて、現地時間で20時過ぎのフライトで成田へ。どんよりとした寒空だったという。

そして、翌16日昼ごろ、成田に到着。家族の出迎えを受け、空港でラーメンと餃子を食べて東京の自宅まで帰ったという。ゆっきーの旅は6か月と3日間に及んだ。

そして、ここからは完全に僕1人の旅となる。

翌日、起きると宿は相変わらず断水していた。

前夜は暗くてよく分からなかった、宿の部屋の手前の状況。アーチをくぐると3部屋ある建物が右手に現れる、という造りだったらしい。

しかし、ところどころの塗装が乱暴だったり、廃材が無造作に置かれていたりして、これまで街で泊まってきた宿との違いは歴然としていた。

気を取り直して町中に出てみることに。

このバカウは、ガンビアの中ではビーチリゾートと位置付けられているらしく、それなりに観光客もいるらしい。

こちらが朝のメインストリート。小規模なうえに閑散としていた。

近場の海に行ってみた。

小さな漁師船が海から上がって、老若の男たちが手押しで船置き場まで運ぶ姿は、なかなか見ごたえがあった。

宿をチェックアウトして、セレクンダの街中を目指した。前日夜の様子から、バカウはのんびりした雰囲気のなかでもツーリスティックな雰囲気で、何ともなしに合わなそうな感じがしていた。

セレクンダに向かう道中では、祈祷を促す標識が。ここガンビアは国民の約9割がイスラム教徒らしい。2015年には、当時の大統領が「ガンビア・イスラム共和国」と変えたが、政権交代後の2017年には元の「ガンビア共和国」に戻ったという。

こんな水たまりのあるダートの道路わきに、どこかで見たようなバスの車体が。近づいて見てみると。

左上の「TMB」が特徴的なこの車体は、スペインのバルセロナ交通局(Transports Metropolitans de Barcelona)のバス。なぜガンビアにあるのかも謎ならば、タイヤを外されてこの場所に固定されているのも謎だった。

通りすがりのレストランでは、ここガンビアではなく、シエラレオネの国旗が掲げられていた。左上の板の下地がそう。シエラレオネ出身の人がやっている店なのだろうか。ともに西アフリカで英語圏、という共通点がある。にしても、陸続きだと少なくとも2つの国を挟むし、移り住むにはかなりの胆力と労力がいりそうだ。

大通りを歩いていると、日本語のような殺虫剤の商品の巨大な広告看板。「Yuki」とあるのを見て、ゆっきーのことを思い出した。殺虫剤の商品だけれども。もう日本に着いているころだろうと思ったが、Wi-Fiもなく連絡できていないまま。どうしているだろうか。

YMCAというだけで油断していたら

この日、泊まろうと思ったところはYMCAだった。YMCAではさすがに、バカウの宿のように不潔さに悩まされることはないだろう。そう思っていた。

真っ昼間の13時30分ごろに到着。まずはまともそうな建物でホッとした。その日の夜、恐怖が待っているとも知らずに。

宿を管理している男性に部屋を見せてもらうと、前日の宿よりは清潔そう。この部屋に決めて、チェックインした。ここで何ともうれしかったのは、Wi-Fiが通じて、ゆっきーと生存確認ができたこと。やりとりにしばらく時間を費やした。

現金を持っていなかったので、銀行のATMまでお金をおろしに出かけるついでに街を散歩。それからいったん宿に戻り、2日分の宿泊費を支払った。

しばらくゆっくりしてから、ご飯を食べるために外出。日曜だったからか、あまり開いている店がなく、歩き回ってようやく行きついたのが、グーグルマップにも載っていた「Great Hands Emeka Restaurant」という名の店だった。

どうやらナイジェリア料理の店で、キャッサバなどから作られる西アフリカの主食、フフがメインのよう。

しかし、僕はチャーハンのような料理を頼んだ。アフリカ料理よりは、できるだけオーソドックスな食事がしたい気分だった。

宿に帰ってくる途中には暗くなって、街灯がつかない道もあってかなり暗かった。それでも人が結構歩いていて、治安に不安は感じなかった。

YMCAの建物に着いたものの、明らかに昼間と様子が違っていた。廊下にゴキブリがうようよしていたのだった。どうやら建物内に巣があるらしい。部屋に入った。

「!!」

そして、それはベッドの枕の裏にも潜んでいた!部屋から追い出したものの、他の虫も入ってきていたりしていた。

どうやら、この建物自体がいろんな虫の巣窟になっているようで、電気を消して寝ると、かなり虫に苦しめられそうだった。やむをえず、顔を電気をつけたまま寝ることにした。

ここセレクンダは、ダカールや前日のバカウと比べても暑かったものの、寝苦しさは感じなかった。ただ、電気が煌々と光るなか寝るのにはなじんでおらず、それが辛かった。

逃げるようにこの国から退散

結局、電気をつけたまま寝ると、翌朝はそんなに早く目が覚めるわけでもなかった。起きて外に出てみると十分に明るく、廊下の向こう側にバスケットボールのコートが見えた。昼間には、大学生らしき男性たちが練習している時間帯もあった。

午前中、昼ご飯を兼ねて散歩に出かけたものの、裏道に入ると田舎のような風情で食事どころがまったく見当たらない。

ここ2日間の出来事でガンビアにこれ以上滞在する気力も薄れ、翌日にも先に向けて出発しようと思っていた。

ただ、手元の現金が足りなくなろうとしていた。街の両替所もチェックしていると、イギリスのポンドを両替しているところもちらほら見かけた。このあたりはさすが元イギリス領というところ。

10月のイギリス滞在時に使いきれず、余っていた10ポンドのうち、5ポンドを両替に回すと、300ダラシ(670円)に両替してもらえた。

昼ご飯は、宿に併設されている「YMCA Restaurant」へ。日曜も含む毎日9時から24時まで開いているということだったが、なぜか16日の日曜は営業していなかった。

「Benechin」と呼ばれる日替わりのローカルフードメニューを注文すると、やってきたのは、主食のジョロフライスとタンパク質が多そうな両生類の丸焼きみたいな料理だった。ジョロフライスはトマト風味の炊き込みご飯で、これをガンビアではベネチン(ベンナ・チン、ひとつ鍋という意味らしい)とも呼ぶようだ。

安いうえにかなりおいしかった。そして、この写真では分からないと思うが、丸焼きの見た目がグロテスクだった。

この日、YMCAでは断水していたが、夕方には回復したようで、シャワーを浴びて蚊取り線香をつけて、できる限りの夜の虫対策をした。

夕食は再びYMCAで。ガンビア産のビールにミニピザという組み合わせで、軽めの晩ご飯にして、翌日の移動に備えた。

翌18日は、ガンビアから再びセネガルに戻る道のりへと出発した。乗り合いタクシーでまず南の方のブリカマという町まで行き、そこから別の乗り合いタクシーに乗って「Giboroh」という国境のポイントを目指そうとしていた。

宿を6時30分に出て、セレクンダの乗り合いタクシー発着場まで1時間弱の道のりを歩いていった。

途中で見えた、セレクンダの中では目立つ立派な3階建ての建物。イスラム教のモスクのようでもあったが、まだ建てている途中なのか、窓ガラスがはめられていなかったよう。

乗り合いタクシーの発着場が近づいてくると、にぎわいも少しずつ出てきたようだった。宿に恵まれず、どうにも気分が落ち込みがちだったガンビアともこの日でさらばと思うと、僕の足取りも軽くなった。

旅の情報

今回の宿

Romana Hotel
ツインルームのシングル利用 1泊 400ダラシ(890円)
設備:専用バスルーム(バケツシャワー)、専用トイレ
予約方法:なし
行き方:バカウのメインロードのAtlantic Boulevard沿いにある。部屋のある建物は道路から少し中に入ったところに位置している。
その他:カフェ・バーは道路に面していて、部屋からは離れているが、音が聞こえてくる。「ホテル」という名だが、ゲストハウスのような雰囲気に近い。部屋はとにかく暗かった。

The Gambia YMCA Hostel
ツインルームのシングル利用 2泊 800ダラシ(約1,800円)
設備:専用トイレ、共用シャワールーム Wi-Fiあり
予約方法:なし
行き方:ガンビア大学から南に歩いて6、7分。
その他:部屋自体は清潔だったものの、建物は痛みが進んでいて、これまでの中で最も虫に悩まされた宿だった。併設されていたレストランは雰囲気、価格ともよかった。

訪れた食事処

Great Hands Emeka Restaurant
注文品:チャーハン 100ダラシ(220円)
行き方:セレクンダのメイン通りKairaba AvenueのEcobankから南に歩いて6、7分。
その他:ガンビアのようにグーグルマップの情報があまり充実していない国では、マップに載っているレストランというだけでそれなりのステータスがあるようで、この店もそんな感じだった。ただ、2020年10月には、無許可営業と衛生上の問題によって、国の食品当局から営業停止を命じられたという情報もある。

旅する40代男の視点からみたガンビア

ガンビアは一言でいえば、のんびりした国だと思う。

移動は乗り合いタクシーか普通のタクシーで、バス路線などは走っておらず、セネガルの都市部よりも経済的には立ち遅れている印象だったが、その分、ゆったりとしていた。。幹線道路はそれなりに車で渋滞していたものの、そんな道のロードサイドの店やオフィスもどことなく垢ぬけていなくて、ホッとする部分があった。夜でも治安上の問題は感じなかった。

ただ、この国では1990年代以降、クーデターやクーデター未遂が何度か起こっていて、2016年の大統領選のあとはしばらく混乱が続くなど、近年でも政治的な不安定さがあるらしい。

ガンビアは川沿いの一部を占めている細長い国で、セネガルに囲まれていて、地図上を見ただけではセネガルと分かれていることがとても非効率なように感じられる。植民地時代の名残から、それぞれの国で通じやすい言葉が英語とフランス語という違いはあるものの、両国は民族的には同じのようだ。

国土が完全に他国に囲まれた国は世界中にいくつかある。アフリカでいえばレソトがそうだし、ヨーロッパではバチカンやサンマリノがそれに当たる。ただ、そういった国はガンビアほど国土が大きくなく、いびつな形もしておらず、違和感はさほどない。むしろ、それと比較してみると、ガンビアの不思議さが浮き彫りになる。

どうやら、ガンビアとセネガルはかつて1982年に「セネガンビア国家連合」を結んだことがあるようだ。ウィキペディアによると、議会、軍事、経済について統合したそうだ。

しかし、主権や言語を巡る問題で両国関係は悪化、1989年にはわずか7年あまりで国家連合が解消されたという。

旅する身からすれば、英語が通じるのがありがたい一方で、通貨ダラシは他国では使い物にならないため、国を越えた地域通貨になっているセーファーフランに統一してくれた方がよほどやりやすいのに、と思う。

この国の見どころは、世界遺産としてはセネガルにまたがる「セネガンビアの環状列石」(ガンビア側は、上の地図でいえばMadina Umfallyより上、ガンビア川の北方あたり)があり、ここでもやはり国を2つに分かつ不自然さを感じてしまう。それ以外には、上の地図ではバンジュールから伸びるガンビア川のUの字の真ん中あたりにあり、奴隷貿易の拠点となったクンタ・キンテ島も世界遺産になっている。

ただ、これらの遺跡は、日本人旅行者で足を運んだことのある人はネットで探してもほぼ見かけない。また、僕もそれほど訴求力を感じなかったので、スルーした。

他には、バカウにワニ園があるらしく、少し遠めの地図にも「クロコダイル・プール」としてバッチリ写っていた。僕自身は外国でわざわざ動物園の類に行くことには興味がなく、見ようという気にならなかった。

そんなわけで、ガンビアはアクティビティを楽しむというよりは、のんびりとリゾートで訪れるなら楽しい国かもしれない。それか、大西洋岸から内陸に当てもなくのんびり向かっていく旅とか。

僕が旅していたころは、ガンビア川にかかる橋はなかったものの、この国を通り過ぎて1か月後の2019年1月には、東西の国土の真ん中あたりに橋が完成したらしく、少しは旅しやすくなっているのかもしれない。

人々はフレンドリーでよく声もかけてくれると思うのだが、日本での存在感そのままに、僕の中では遠くて遠い国として刻まれた。