宿をはじめとしてアフリカの貧弱なクオリティを実感したガンビアを早々に去ることに決めて、僕は再びセネガルに足を踏み入れ、同国南部のカザマンス地方に向かうことにした。ただ、カザマンスはかつて紛争があった地で、これまでサン・ルイやダカールといったセネガルの街を旅してきた僕にとっても、1人旅で足を踏み入れることには多少の警戒感があった。
実際にカザマンスを訪れてみると、そこにはのんびりとした空気が漂っていて、少しの間の滞在ながら心安らかな時間を過ごした。そして、穏やかな時の流れの中に、次なる難題がじわじわと迫っていた。
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西アフリカには珍しくスムーズな移動
ガンビア最大の都市、セレクンダの乗り合いタクシーなどのターミナルには朝7時30分ごろ到着して、まずは南に20キロ余りのブリカマ行きに乗り込んだ。
そして、1時間もせずにブリカマのターミナルに到着。次は国境を越えたセネガルのセレティ(Seleti)行き定員7人の「セットプラス」に乗った。
ここでは50ダラシを支払って手書きのチケットをもらい、しかも座席まで決まっていた。今回はたまたま直前に先発のセットプラスが満席になったばかりで、僕は次発の車で最も楽な助手席に座ることができた。荷物代25ダラシを支払い、余ったお金をセネガルの通貨セーファーフランに両替してもらっている間に定員が埋まり、8時40分には出発。順調な旅立ちだった。
道路はすべて舗装路で快調に進み、30分あまりで国境に行きつく。ここの国境は、モーリタニアとセネガルの間のロッソ国境のようにはトラブルがなく平穏に進む、という評判だった。
まずは金網越しにパスポートを渡して出国スタンプを押してもらった。しかし、ここでちょっとした事件が発生。
奥の「偉いさん」のところにいってスタンプを押してもらってきた男性係官が帰ってきた。
すると、係官は「朝食をくれ!」とわいろを要求。
僕はあっけに取られてポカーンとして無視していると、係官は次には「飲み物をくれ!」と言ってきた。
「水しか持ってないよ! それでもいい?」僕がそう言ってペットボトルに入った飲みかけの飲料水を持ち上げると、係官はいらねえよとばかりに顔を背け、パスポートを返して通してくれた。
同じ車で少し行くと、今度はセネガル側の入国。銃を持った兵士がいるゲートの前で降りて、左手の小屋で何やらメモを書いてもらい、また車に乗り込んで、少し行ったところに右手にあるイミグレーションで入国スタンプをもらった。ここでは「どこから来たのか?」「今日の行き先はどこか?」「職業は?」など、いくつか質問されたが、わいろの要求はなく、すんなりと越えることができた。
この国境からすぐの街がセレティで、ここからまた車を乗り換えてこの日の目的地、ジガンショール行きのセットプラスへ。この日の移動は実にスムーズで、宿を出てから徒歩1時間とセットプラス2回乗車と国境手続きも含めて、50キロ弱の道のりを3時間くらいで来ることができた。
セレティのターミナルでも紙でチケットをくれた。車体番号と乗車番号が書いてあり、僕は次の車では3番目。後に続く客はおらず、しばらく待つことになったが、10時過ぎには定員まで揃って出発した。セレクンダからジガンショールに向かうルートは長いこと待たされることがなく、住民の需要がとても多いのかもしれない。
道中の雰囲気は、これまでのセネガルやガンビアとは違っていた。検問が多かったり、ところどころに車がスピードを緩めなければならないよう障害を設けていたりと、治安維持のため警戒している様子が感じられた。
ガンビア側に続く大河のカザマンス川を渡ると、そこからすぐにジガンショールのターミナル。車を降りてからは、この日の宿泊先に考えていた宿まで街を歩いていった。
時間はちょうど正午を回ったところ。ジガンショールは道によって舗装されたりされていなかったりしていて、大荷物を抱えて歩くのは大変だった。
ターミナルから15分ほどで、この日の宿として目星をつけていた「Hôtel Relais Santhiaba」に到着。部屋を見せてもらうと、掃除が行き届いていてきれいで、蚊帳もあった。ここに泊まることに決めた。
泊まった部屋は、かつての屋上に増築したような雰囲気の建物の一角。部屋の周りでは、建築現場や土木現場の作業員のような雰囲気を持った男性たちが中庭のようなスペースに集まって話をしたりしていて、若干、近寄りがたい雰囲気も。
こちらは、3階にある部屋を出たところから眺められるジガンショールの街の郊外の様子。そびえる高木が、暑い南の地方まで来たことを感じさせた。
あっという間に次の国のビザを取得
ジガンショールに早く着けたので、この日のうちに次の目的地、ギニアビサウのビザを取っておこうと領事館へと向かうことに。
この写真は、宿の前の様子。ごみも散乱するダート道で、土っぽくてのどかだった。
ギニアビサウ領事館は、宿から歩いて3分の近場にあった。宿の周りは碁盤状に街が整備されていて、領事館の目の前の道は舗装されていた。すべての道を舗装するほど道路にはお金が回っていないのだろうが、道が未舗装になる基準が分からず、このあたりのアバウトさがこの街の特徴の1つなのかもしれない。
領事館を訪ねると、領事に仕えている男性がすぐに迎え入れてくれ、机の上でピーナッツを食べている手を止めて対応してくれた。
男性は申請書類を書き込んでくれて、写真もパスポートのコピーも不要という。しかも、1か月の観光ビザの代金は、西アフリカの国にしては破格の20,000セーファー(約3,900円)。そんなに適当な対応でいいのだろうか、大丈夫なのだろうか、僕は少し心配になった。
男性はさっきまでピーナッツを食べていたその手を拭くこともなく、ビザのシールにも必要なことを書いてくれた。
「ギニアのビザの隣にビザを貼ってもいいか? 2つの国は近いから、隣に貼りたいんだ」
茶目っ気を含ませながら、そんなことを話す男性。態度も含めてどことなく憎めない人だな、と思った。そんなわけで、ビザの申請はとても簡単に、あっという間に終わった。次の国に行く権利をこれで得たのか、まだ半信半疑だった。
田舎風情の街の洗練された一角
ここからは、ジガンショールの街をひたすら歩き回った。幸先よくビザが取れたこともあって、翌日にはギニアビサウに向けて出発することに決めていた。
セネガル料理のヤッサ・プレの食べ納めもしたいと思っていた。しかし、この街は思っていた以上の田舎で、しかも昼下がりに差しかかっていて、気分よく食事を取れそうなところがなかなか見つからない。
そんななか、ヤッサ・プレのメニューを掲げている店を発見し、早速、店内に入った。
店の名前は「Saveurs du Sud」。室内には格式を感じてかなり気に入った。ヤッサ・プレとバオバブのジュースを注文した。
これが出てきたヤッサ・プレ。おそらくセネガルで最後となるこの料理は、残念ながらダカールで食べたものよりも数段、味が落ちる感じで辛かった。特に、トウモロコシとオリーブはいらなかった。辛い味付けは、一般的にスパイシーな料理が好まれるイメージのある、南に暑いところに向かっていることと関係があったのかもしれない。
こちらは店を出たあとに撮った写真。細い階段を上がっていくと店があった。仮にぼったくりの店に入ったときに、こんな階段だと逃げ場を防がれてどうにもならないときがある。ただ、この店は黒板にちゃんと料金まで載せてあったので心配はなかった。
このあと、宿に戻ったり再び出かけたりしながら、食料品店でセネガル製のビール「ガゼル」を手に入れた。缶にはその名のとおり、アフリカ大陸のサバンナや砂漠に生息するガゼルが描かれている。セネガルは、飲酒に対する戒律が厳しいイスラム教徒が大多数だが、ここカザマンス地方はキリスト教徒も多いようで、大っぴらにビールが売られていた。
セネガル最後のビールも味わい、宿の不安定なWi-Fiで次に向かうギニアビサウの情報をインターネットに求めたが、あまりいいものは見つからなかった。
正直なところ、ギニアビサウ以降に訪れる予定の国々は、情報が不十分なこともあり僕にとっては“秘境”にも近いような存在だった。まあ、なるようになるで次の国を目指すことにしよう。そう思っていた。
次の日の朝も快晴。ただ、僕は風邪をひいてしまっていた。ガンビアの途中あたりから体調が悪化していて、前日に飲んだビールが決定打となったようだ。
ただ、それほど重症でもなく、この日の宿についていた朝食を取りに1階まで降りていき、パンとコーヒーを食べた。
そして、9時30分の少し前にはいよいよ向けて出発。西アフリカでの長距離移動は早朝出発が鉄則だが、この日は多少遅めに出ても、昼下がりには次の目的地、ギニアビサウの首都・ビサウに着けると思っていた。
歩いて20分くらいで前日、セットプラスを降り立ったターミナルに着いた。
しかし、ここで想像もしていなかった事態が待っていた。そして、僕は自分の見通しの甘さを悔いることになった。
旅の情報
今回の宿
Hôtel Relais Santhiaba
ツインルームのシングル利用 1泊 6,000セーファー(約1,200円)
設備:共用バスルーム、共用トイレ Wi-Fiありだが、部屋では不安定
予約方法:なし
行き方:ジガンショールのセットプラス乗り場から南西に歩いて15分。
その他:写真は部屋に入って逆から見た様子で、ドアを開けていても部屋の中が見えないようになっていた。どことなく日本に通じる配慮だと思った。
訪れた食事処
Saveurs du Sud
注文品:ヤッサ・プレ、バオバブジュース、スイカ 4,000セーファー(770円)
行き方:ジガンショールの市庁舎から南に歩いて2分。
その他:おしゃれな空間だったが、訪れた時間帯が14時台と遅かったからか、僕以外に客はほとんどいなかった。
旅する40代男の視点からみたセネガル
セネガルは、西アフリカ旅行の入り口としておすすめしたい国だ。日本人にはビザが不要だし、セネガル料理は日本料理になじんだ人にはおいしく感じる。主要な長距離移動はセットプラスの網が張りめぐらされている。短距離移動は首都のダカール市内なら公共バスやタクシーがある。
アジアやヨーロッパ、アメリカ大陸を何回か旅行したことがある人なら、快適とはいえないまでも、トラブルなく旅することができるのではないか。
モロッコからアフリカ大陸を南下してきた印象からすると、セネガルはモロッコよりは旅しにくく、西サハラやモーリタニアよりは断然、旅の環境がいい。見どころもそれなりにある。
首都ダカールには何なら、日本人宿もある。ゆっきーと僕のチームシマが泊まった「シェ山田」は新型コロナウイルスが流行したのちに閉業してしまったが、2022年10月現在ではもう1軒、日本人宿「和心」が残っている。
かつてシェ山田には、フランス語を安く学びたい人が短期留学に訪れていたりもしていたよう。話はさらに飛んでしまうが、フランス語が使えてその気があるなら、ビジネスの舞台として検討する余地さえありそうだ。
そんなセネガルも、カザマンス地方は治安上の不安を抱えていて、外務省の海外安全情報では僕が訪れたころ、ジガンショールを除くカザマンス地方は「レベル3:渡航は止めてください。」とされていた。僕は滞在中、治安上の不安を感じることはなかったものの、そこへ向かう道中の警備は厳しかった。
なぜこのようなことになっているのかといえば、そこには民族問題が横たわる。ダカールや北部の街サン・ルイではウォルフ族が主流なのに対して、カザマンスではジョラ族が中心で、1980年代に勃発したカザマンス紛争はそうした民族対立が火種になっていた。ただ、近年は以前に比べるとだいぶ落ち着いているという。
体感治安という点でいえば、僕個人ではセネガルに着いたばかりのサン・ルイでスリに遭いかけたことがあり、日本にいたらあまり感じることのない、油断のならなさというものを実感していた。それ以外には、これまではダカールへの移動の際に少し触れただけだったものの、ムリッド教団をはじめとするセネガル独自のイスラム教団の存在が、この国の負の部分として気になった。
それらの教団の影響を特に受けているのが、貧しい子どもたちだ。長距離移動のターミナルでセットプラスを待っていると、薄汚れた服装で底のすり減ったサンダルを履いた子どもたちが、バケツや空き缶を持って物乞いする姿をよく目にした。僕が目にしたのはすべて男の子で、こちらが断っても執拗にねだっていた。
そうした子どもたちは「タリベ」と呼ばれ、教団の中で指導的立場にある「マラブー」から物乞いを強要されていることも多く、国際的に問題視されているという。
セネガルは、西アフリカの中では政治的にも安定し、経済的にも今後の発展が期待され、旅のしやすさもあって旅行客の認知も徐々に得てきているように思う。ただ、僕のような通りすがりの旅人では決して全体像を知ることのできないような、この国の暗部の一端も垣間見られた。
セネガルは、社会制度などでの複雑さはインドほど分かりやすく伝わってこなかったものの、簡単には割り切れない社会の成り立ちが感じられたように思う。