ガンビアを3泊で切り上げることにした僕は、現地ではほぼ唯一の長距離移動手段となっている乗り合いのセットプラスが集まるターミナルに向かい、次の国、ギニアビサウまで向かうことにした。
ジガンショールから国境を越えて、ギニアビサウの首都ビサウへと向かう道のりは山あり谷ありの行程だった。そして、ビサウでは、西アフリカの1人旅で唯一無二となる旅人と出会うことになった。
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ターミナルで待っていたワナ
ジガンショールのターミナルに着いた僕は、早速、隣国の首都・ビサウに向かう定員7人の乗り合いセットプラス乗り場を探した。そして、それはすぐに見つかった。しかし、そこには車の姿はなく、どの国のターミナルでも当たり前のようになっている喧騒もなかった。時間は朝の9時45分ごろ。本来なら車と人でごった返している時間帯だ。
「ここで待っていてもムダだよ。今日からストライキに入った」
少し英語を話せる人が、親切に教えてくれた。タイミングの悪いことに、ストは3日間行われる予定だという。車は最初のほうに乗客を降ろしに来た以外はまったく現れなかった。
そこから2時間ほど待っているうちに、ジャネット・ジャクソンをでっぷりと太らせたような人がビサウ行きの車を求めてやってきた。グーグル翻訳を使って英語とフランス語で少しやり取りをすると、やはり同じことを言っていた。
彼女もしばらく待っていたが、僕より先に諦めて、タクシーをつかまえてどこかに去っていった。
ターミナルにはいろんな売り子がいて、特に気になったのは携帯電話やスマホを手に持ちながら売り歩く人たちだった。新品なのに他人の垢がついた、スマホのような高級品をほしがるような人たちはいるのだろうか。1か月に1個でも売れることがあるのだろうか。
前回の投稿で紹介した、物乞いをする子どもたち「タリベ」はこのターミナルでも見かけた。スマホ売りの人たちとタリベたちの日々の生活がどれだけ悲惨なものかを思うと、この日、セットプラスを待ちぼうけて落ち込みかけた気分がさらに暗くなった。
国境を超える新たな道筋と新たなワナ?
「ビサウか?」
「そうだよ」
この日、正午過ぎまでターミナルでたたずんで、前日の宿まで戻ろうとした矢先、タクシーの運転手から声をかけられた。
運賃はセネガル国内が7,000セーファー(約1,300円)と、ギニアビサウ側まで行くなら2,000セーファー(390円)だという。セットプラスなら5,000セーファー(960円)に加えて荷物代で済むところだった。しかも、運転手の言い値では首都のビサウまで行ってもらえるとは思えなかった。そこで、僕はセネガル側の国境まで行ってもらうことにした。国境さえ越えたら、向こうではストもなく交通機関が動いているかもしれないし。
国境の手前で荷物ごと降ろされ、セネガル側の国境審査に行って出国スタンプを押してもらった。
続いて、ギニアビサウ側の国境審査ためイミグレーションオフィスへ。オフィスとはいっても小屋のような建物で、セネガルからガンビアに国境を越えたときのようなちょっとした事件もなく、平穏に終わった。
「ビサウまでどうやって行けばいいの?」
英語も分かる係官に尋ねてみたら、次の町までバイクタクシーで1000セーファー(190円)、そこからセットプラスで首都まで向かう必要があるという。
係官はどこかに電話をかけて状況を調べてくれたようだが、残念ながらギニアビサウ側でも交通機関は動いていないようだった。
「ちょっと待ってて」
そして待つこと60分ほど。昼ご飯に誘われて、チェブ・ジェンから野菜をほとんど抜いたような魚ご飯を建物の中でごちそうになった。ちょうどお腹が減っていたタイミングで、これがとてもおいしかった。
それから建物の外に出ると、数分後には係官がオフィスにあったバイクを動かしてくれて、隣町まで送ってくれた。
ストに出くわして気の毒に思った係官が個人的にいろいろと施してくれたのかもしれない。ただ、それらの好意に対して僕ができることといえば、「本当にありがとう」とていねいにお礼を言うことだけだった。
この国境での出来事は、チームシマの2人旅ではなかったような面白い体験だったが、国境付近だったことや国の建物だったこと、ここは日本や西欧とは著しく治安状況が異なる西アフリカということを考えると、写真を撮るわけにもいかず、1枚も残せなかったことが残念だった。
そしてこの先、西アフリカではさらに治安上の緊張地域も通る予定で、写真が撮れない状況がますます増えていくことが予想できた。
「地雷臭」がただようおばさん
国境の係官が僕を送ってくれたのは、隣町の「サン・ドミンゴス」という小さな町だった。
「この周りにゲストハウスはないですか」
降ろされた場所の近くに、僕より年配と思われる女性がいて、英語ができるようだったので聞いてみた。
「私はここの住人じゃないけど、あるんじゃない?」
すると、近くにいた男に声をかけられた。この女性によると、1人20,000セーファー(約3,900円)でビサウまで運んでくれるという。完全に足元を見られていた。相場から考えると法外な値段であることは間違いない。
その場には、もう1人別の女性がいた。2人はそれぞれ15,000セーファー(約2,900円)なら乗るということで話がまとまったみたいだった。
「あとはあなた次第よ。この町で今日、明日の宿代を払うよりもビサウに向かう方がいいんじゃないかしら」
英語を話せる女性がそう言ってきた。確かにその通りで、僕も2人とともにビサウに行くことにした。
車のトランクは大半が女性の荷物で埋められ、僕のバックパックがようやくスペースに入る程度。ヨーロッパ滞在中にIKEAで買ったボストンバッグは、しかたなく手元で持っていた。
車内では、朝からの疲れでウトウトしかけては、隣にいるこの女性に話しかけられるはめになった。
ギニアビサウの道路環境は劣悪で、アスファルト舗装はされているものの、凹凸がかなりひどく、補修されていないためスピードが出せない。女性がとにかくよくしゃべることと合わさって、かなり悲惨な環境になった。ただ、車窓から見える景色はどことなく幻想的なところもあり、窓の外を見ているとかなり癒された。
この女性は最初、どこから来てどこに行くのかといった話をしていたものの、次第に「今晩泊まるところがあるの?」「このあとどうするの?」とこの日のことを聞いてきた。僕は眠たかったこともあり、適当にやりすごしていた。
そうこうしているうちに、ビサウの町中に入ってきた。時刻は18時。まだ空は暮れていなかった。
乗っていた3人のうち、まず助手席に乗っていた女性が降りた。そして、その次は僕の番。本来なら5000セーファーで行けるところを、この車だけで15000セーファーも支払っているだけあって、希望のところまで連れていってくれるのはありがたかった。
そして、僕が円形のラウンドアバウトの交差点で降り立ったところで、なぜか僕の隣にいた女性も降りた。しかも、女性の大荷物も一緒で。僕は訳が分からず、きょとんとしていると、「運転手が僕の降りたいところを分かっていなかったから、ついていったのよ」とその女性。
「それなら一緒に降りる必要はなかったのに。なんで運転手に最後まで送ってもらわないの?」
その後も問答は続いた。話は平行線で、僕はその場を離れることにした。女性についてこられるとトラブルになりそうだったので、少し回り道をして、この日の目的地としていた宿に向かった。女性は追いかけてこなかった。そうして、なんとか振り切った。
この日の宿は「Pensão Creola」で、スイス人が経営。これまで書いていなかったが、ここギニアビサウはかつてポルトガルの植民地だったところで、スイスゆかりの人が移住しているのはどんな理由があったのだろう。この宿は、宿代が高いビサウの中ではかなり安い方で、清潔さもあって、この国を訪れるバックパッカーには知られている。
空いているのはダブルの部屋1室だけだったらしく、ひとまずそこにチェックイン。ようやく落ち着いた。
少しゆっくりしてから外に出てみると、街灯がない道が多かった。ついている街灯も、昼間の太陽光発電でかろうじて光らせているという印象。まだ19時過ぎというのにスーパーは軒並み閉まっていて、食べ物や水の確保に苦労した。電力が満足に供給されず、自家発電しながら営業すると割に合わないからだろうか。田舎町ならともかく、これでも一国の首都なのだろうか。
明るい道もあったが、人通りも車通りもまばら。ひとまず、売店を見つけて水とジュースを確保した。
そして、宿の近くの暗い裏道を歩いていると、キッチンカーでサンドウィッチの屋台をやっているのを見つけて、1,500セーファー(290円)のサンドウィッチを買って宿に帰った。
こちらがそのサンドウィッチ。セネガルのダカールで食べたサンドウィッチに比べて小さくて具も極端に少なく、おいしくなかった割に値段は2倍以上した。やはりこの国の物価はとても高いようだった。
そうこうしているうちに、宿に泊まっているブラジル人の男性が姿を現して、少し話ができて楽しかった。この街にはビジャゴ諸島という群島があり、そこに行ってみたらよかったので、おすすめだという。この男性は明日、ビサウを出ようとしていたものの、ストが終わるまで滞在することにしたということだった。
インフラの貧弱な街
朝、起きるとすでに空腹だった。鼻やのどに風邪のような症状が出ていて、この日はゆっくり過ごすことに決めて、ひとまず食料となるものを買いにいった。
その結果がこちら。西アフリカにしては物価が高く、お菓子でも日本に近い価格だった。ゆっきーとセネガルのダカールで別れて以来、まともな食事が減ったことを実感していた。
この日はシングルの部屋に移れるか、宿のオーナーに聞いていたが、結局、空かなかったらしく同じ部屋に連泊することに。宿でゆっくりしていると風邪のような症状もだいぶ落ち着き、昼から近所の散歩に出かけた。
こちらは、前日も通ったラウンドアバウト。現地では「バイアナ」(Baiana)と呼ばれているらしい。日中でも閑散としていた。
久しぶりに自撮りしてみると、心なしかほおが瘦せてきたよう。
宿から離れていない大きめの道でも、赤土があらわになったままの道が。
話に聞いていたフェリー乗り場に行ってみた。事前に仕入れていた運賃の情報は2,500セーファー(480円)で、ブラジル人の男性からも「安い」と聞いていたが、目的地がボラマ島、ブバケ島の場合ともフェリーの外国人料金は14,900セーファー(約2,900円)で情報のほぼ6倍近く。泊まっている宿の1泊分もした。
ひとまずフェリー乗り場を離れて、英語の旅行本「ロンリープラネット」に載っていたレストランを目指したが、跡形もなくなくなっていた。他に何かないかさまよって都心部から離れ、前日に通った道をたどっていくと、にぎやかそうなマーケットが見えてきた。
目立たないようにして写真を撮っていたが、どうやら気づかれてしまったらしい。アフリカ人の嗅覚の鋭さに感心させられた。
この道には、西アフリカでは見かける機会が少ない歩道橋があり、そこから写真を撮ってみると。
高木とパラソル、カバーのかけられた車があり、活気と豊かさを感じさせる地区のよう。
さらに遠くまで眺めてみると、一直線に道路が伸びていて、まさにこの道がこの街の表通りなのだろう、ということが実感できた。
これだけ歩き回っても結局、めぼしい店が見つからず、宿に帰ることに。
道路は相変わらず凸凹が目立った。
舗装の大半がはがれかかっている道も。こういう姿を見ると、日本の道路インフラがいかに優れているかを感じた。
いったん宿に戻ってから、夕方、再び近所を出歩ていると、都心でも廃墟のように壁が崩れたままの家があったりして、何とも言えない不穏な雰囲気が漂っていた。
その近くの路上でフレッシュジュースを売っているおじさんを発見。通行人もまばらなこんな場所でよくやっているものだと思ったが、渡りに船とばかりに3袋買った。
右がセネガルでも見かけたビサップで、左はレモン。レモンは2袋を買い、その場で1つを空けた。1つ100セーファー(20円)とかなり安かった。
サンドウィッチのキッチンカーが出没していた路地にも行ってみた。すると、そのキッチンカーはシャッターを下ろしたまま道路わきにたたずんでいた。あまりに無防備なような気もしたが、車を動かすガソリン代さえもったいないのかも。しかし、盗難やいたずらなどはされないのだろうか。
食料品店でこの日の晩の食べ物を手に入れて宿に戻ってきた。右が泊まっている宿。
この日の晩ご飯は何の味もついていないパン2個とコンビーフのような缶、ポテトチップス。前日のサンドウィッチの具材と同じくらいのものとプラスアルファまで用意できて、さらにかかったトータルのお金はサンドウィッチよりも安かった。それにしても、前日と同じくわびしい食事に変わりはなく、翌日以降、どうすればよいのか考え込んでしまった。これままでは体調にもさらに差し障りが出そうだった。
そういえば、セネガルのダカールを発って以来、ずっと水シャワーしか浴びていなかった。風邪の環境ではなかなかきつかった。
ブラジル人と行動を共にすることに
次の日の朝、外に出てみると、街は相変わらず閑散としていた。宿の周辺でもタクシーを見かけるようになったものの、ハザードをつけながら走っていたり、どの車も客を乗せていなかったりと、まだストが続いていて正常化していない様子。
宿を移ろうかと思い、目星をつけていた1泊10,000セーファー(約1,900円)の宿を見てきたものの、かなり汚そうだったので今の宿で延泊することに。
宿に帰ってくると、ストの影響で足止めを食らっているブラジル人男性がパソコンをいじっていた。名前を聞くと、パウロと言うらしい。
「島には行かないのか?」とパウロ。
「昨日、フェリー代を調べてきたら、片道15,000セーファーもするから行けないよ」
「その隣の港から小型のボートが出ているよ。それなら3,500セーファーだ」
「そうだったの?じゃあ見てくるよ」
さっそく、フェリー乗り場の隣にある港に行ってみた。
すると、実際に船はあったものの、ボラマ島行きはすでに出たあと。ブバケ島行きは出発間際だった。ボートはかなり古びていて、救命胴衣を着たすし詰め状態の客を乗せた船がまさに出発しようとしていた。聞くと6時間の船旅らしい。
出港シーンを見送った。離島に行こうとすれば、あの調子で長時間の船旅をしなければならないのか……これは生死をかけた渡航になる。そこまでして行きたいところではない。乗るのは止めておこう、と思った。
宿に帰るとパウロがいて、「安い飯屋があるから一緒にどう?」と昼ご飯に誘ってくれた。そして、もう1人、宿にいたイギリス人男性も含めて3人でその食堂に行った。
このイギリス人は仕事で5週間ギニアビサウに来ていて、この日の夜、ロンドンまで飛行機で戻るらしい。食堂は地元の人たちが集うような雰囲気で、店の看板は出ていなかった。イギリス人男性は中の様子を見て入るのをやめ、パウロと僕の2人で入店した。
僕が注文したのは、魚が載ったクスクスのような料理。この国に来て3日目にして初めての、まともな食事だった。パウロは、母語のポルトガル語がブラジルとここギニアビサウに共通するだけあって、普通に会話が通じるようで、僕にとっても楽に食事にありつくことができた。この店ではついでに、自分で作るインスタント以外では久しぶりのコーヒーも飲んで、パウロのこれまでの旅や生きざまなどについていろいろ話をした。その内容は次回に。
パウロと行動をともにすることで、もう1つ助かったことがあった。ギニアビサウでは、モーリタニアに着いたときと同じく、マスターカードのクレジットカードで現地通貨をキャッシングできる銀行を見つけられていなかったが、パウロが連れていってくれた銀行ではあっさりキャッシングすることができた。
宿に戻ってくると、前日の露天商のジュースが恋しくなって、同じ場所に行って探した。しかし、この日はアイスを売っているおばさんしかおらず、おばさんからバナナアイスを1つ50セーファー(10円)で2つ買った。キンキンに冷えていて、これはこれでかなりおいしかった。
そして、新たな節約方法として水をペットボトルで買うのをやめて、大半の現地人と同じく水パックに頼ることにした。品質には不安があるものの、その方が4分の1くらい安い値段で買えた。
ここビサウでは、後発開発途上国、あるいは最貧国とは思えない物価の高さにおののき、食生活を切り詰めていった一方で、この場所にこれ以上、滞在する意味を見いだせなくなっていた。
ギニアビサウに入る前から続いていたストはこの日でようやく終わり、翌日からは長距離移動がまともにできる見通しも立っていた。
パウロは翌日、ギニアの首都コナクリに向けて出発すると聞いていた。そこで僕は、パウロとともに翌日、ギニアビサウを抜けてギニアへと向かうことに決めた。
そして僕はこの街の見納めになるかもしれないと思い、いくつか建物を見にいった。
そのうちの1つ、大統領官邸。この国では、国家機関の建物の撮影はかなり神経質なので、その場にいた人に撮ってもいいかどうか確認してから撮影した。ウィキペディアの英語版によると、大統領官邸はかつて内戦で破壊されたものの、中国の援助により2013年にリニューアルされたらしい。
こちらはカトリック教会のビサウ大聖堂。数少ないビサウ市内の見どころだったものの、中には入らなかった。
夜になり、宿で移動の情報を収集していると、途中のガブという町までは数時間で行けるものの、その先が非常に困難な道のりとなるらしい。僕は覚悟を決めて、体調回復を期して早めに寝ることにした。
翌朝、パウロと待ち合わせして6時過ぎに宿を出た。いくら南の方に降りてきたとはいえ、外はまだ真っ暗。ここから、コナクリに向けた旅路が始まった。
旅の情報
今回の宿
Pensão Creola
ダブルルームのシングル利用 3泊 54,000セーファー(約10,400円)
設備:専用バスルーム、専用トイレ、Wi-Fiあり
予約方法:なし
行き方:バイアナのラウンドアバウトから北西に歩いてすぐ。
その他:趣のある内装で、部屋は広く清潔さもあった。ただ、Wi-Fiは弱くて水シャワーしかなく、1泊3,000円超の宿にしては物足りなかった。それでも、インフラが貧弱なギニアビサウの中でも、自家発電はきちんとしていて、停電がなかったのは好印象。ビサウには1泊10,000セーファー(約1,900円)ほどの安宿もあるにはあるらしいが、質が非常に悪いらしく、実際に行ってみたものの、外観を見ただけで諦めた。
訪れた食事処
店名不明の食堂
注文品:魚料理、コーヒー 2,500セーファー(480円)
行き方:バイアナから南東に歩いて5分、4つ目の交差点を左に曲がって左手にある。
その他:おそらくこの旅で初めての、店名が分からない食堂。西アフリカではそういう店も多かった。食事は決しておいしいとは言えないが、地元の人でにぎわっていて雰囲気はよかった。
旅する40代男の視点からみたギニアビサウ
ギニアビサウは、アフリカ大陸の大西洋岸に面した国で、面積はアフリカ54か国中42番目とそんなに大きくはない。ちなみに、この国を訪れる前に通ったガンビアは49番目。そして、ギニアビサウもガンビアと同じく、日本にいるとまずほとんど情報が入ってこない国という点も似通っている。
かつてポルトガルの植民地だったアフリカの国々は独立が遅れ、独立後も旧宗主国から十分な支援が受けられなかったようで、ここギニアビサウも例外ではなかった。
この国を特徴づけているのは、何といってもその貧しさ。本文でも触れたが、道路を見るだけでもこの国のインフラ整備は不十分なことが分かるレベルで、電気の供給状況もかなり悪そうだと感じた。
経済は壊滅的で、農業でさえ国内需要を満たせないレベルだという。そのせいか、ポルトガル語圏なのに、通貨では周辺のフランス語圏の国々で流通しているセーファーフランを採用している。独自通貨を維持できず、周辺国に合わせないとやっていけないからそうしているのではないかと推測する。
本文にも書いたとおり食費、宿泊費をはじめ物価は高く、公共交通網もないに等しい。現地の人たちがどうやって生活を成り立たせているのか心配になるくらいだが、それでも何とかやっていっているのだろう。
観光客の目線からみると、ビサウからアクセスできる離島以外に見どころは少ない。情報の少ない国でアクシデントを楽しむくらいのつもりでないと、観光でこの国に来る意義は見いだせない。
宗教については滞在中、あまり意識する場面がなかったものの、現地宗教(原始宗教)の力が強く、国民の4割を占めるらしい。それ以外はイスラム教が5割、キリスト教が1割とか。宗教面で郷土色の強さを感じられる部分がどこかにあれば、この国への印象もまた違ったものになったのかもしれない。
日本国内にはギニアビサウの大使館がなくビザが取れないことをはじめ、交通や物価面、産業や観光の面からも魅力に乏しく、老いも若きも訪れようというモチベーションが働きづらい国の1つ、というのが僕の実感だ。ビサウに滞在しているときは、物価の高さもあって散財を控えるために質素な食事に終始して、何かの罰ゲームでこの国にいるのだろうかと錯覚を覚えるくらいだった。ただ、現地を訪れていて、体感治安の悪さを感じなかったことは救いだった。