物価が高く観光地としての見どころもないギニアビサウを早々に去ることに決めた僕は、首都・ビサウの宿で知り合ったブラジル人の旅人、パウロとともに、隣国のギニアの首都・コナクリに足を進めることにした。
ビサウからコナクリに至る道は長距離のうえ、道路環境が悪くて、少なく見積もっても1日以上の過酷な旅になることは分かっていたものの、実際に体験してみると道のひどさに加えて車内環境のひどさも異常なほど。パウロとともに長時間、想像以上の苦しみに耐えながらコナクリを目指した。
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ギニアビサウ東部の拠点・ガブへ
ギニアビサウで3泊した宿を12月22日に出た僕は、パウロとともにローカルバスのバス停まで歩き、パウロがもたらしてくれた情報をもとに長距離バス乗り場まで向かった。
ギニアビサウからギニアに行くのには、僕が調べた限りでは2つの道のりがあった。セットプラスなどの車でガブを経由して、大きく回り込む形でコナクリに行くか、バイクタクシーを使いつつ、南方の町・ケボ(Quebo)からショートカットして国境を抜け、ギニアのキスマヤ(Kisoumaya)を経て同国西部の中心都市・ボケ(Boke)を目指すか。
道は2つに1つだったが、バイクタクシーを使うルートはかなりマイナーなようで、本当に行けるかどうかの保証はない、いわば幻のルートだった。
そういうわけで、長距離バス乗り場に着いたら、今度はギニアビサウ東部の街、ガブ行きのバスに乗ろうと思っていたものの、なんとバスは早朝の段階ですでに満席。前日まで3日間のストライキが明けたばかりの朝とあって、これまで足止めを食らっていた人たちが一斉に動き出し、大混乱が起きているようだった。
そこで、ガブまでセットプラスか乗り合いバンでいくことに方針を変更。さらに少し先までローカルバスで移動すると、ガブ行きの乗り合いバンがすぐに見つかった。
乗り合いバンはすし詰め状態で、15人乗りの車に何と25人も乗せていた。パウロも僕も、アフリカの色彩豊かな服をまとった人たちに囲まれながら、車は朝の6時50分に出発した。
そこから40分あまりして、車はストップ。何かトラブルが起きたらしい。
外に出てみると、マフラーが外れたようで、運転手たちがマフラーを切り離す作業を手早く行い、時間のロスは最小限で済んだ。
ところで、ギニアビサウは前回の投稿でも書いたとおり道路事情が悪く、今回、車が止まったあたりもアスファルトには大きな穴が開いているところも多かった。車はタイヤのバーストを防ぐため、穴を避けるか、徐行して走るか、路側の舗装されていないところを慎重に走るしかなく、なかなか先に進まなかった。
ふと遠くを見ると、朝日が幻想的だった。
その後、ビサウとガブの真ん中あたりの町の郊外でバスを乗り換えて、200キロほどの道のりを約5時間かけてガブに到着した。
バスが止まった場所からコナクリ行きのセットプラス乗り場までは少し距離があり、タクシーに乗って移動。すると、ガブでもストライキ明けの混乱状態はまだ続いているようで、乗車券の売り場があるにもかかわらず、なかなかチケットを売ってくれなかった。
「どうにもならない雰囲気だね」と僕。
「とにかくチケットを手に入れるしかない!」とパウロ。
チケット売り場のボス格と思しき人に目をつけて、何とかねじ込んで2人分のチケットを売ってもらった。
自分たちの座席を確保したところで、ようやく昼ご飯。幸いにも、セットプラス乗り場には食堂が併設されていて、きちんとした食事をとることができた。
もちろん、ここの食堂もビサウの店と同じように、店の名前はなかった。サンドウィッチと豆ごはん、コーヒーをここで取った。
ガブはギニアビサウで第3の規模の街だが、人口は2022年現在で1万5千人弱とされている。そもそも、ギニアビサウ自体が人口210万人ほどで、そのうち40万人弱がビサウに集中している。そんなわけで、このガブも雰囲気は田舎町そのものだった。
昼ご飯を食べると13時ごろになっていた。コナクリ行きのセットプラスはようやく出発準備が始まったようで、パウロと僕は他の乗客たちと同じように作業を見守っていた。そして、本当の地獄はここから始まろうとしていた。
旅慣れたブラジル人の仲間とともに
僕には、ガブからは少なくとも24時間ほどの移動になることが分かっていて、どんな車に当たるかがとても重要だった。そして幸運にも、僕たちが乗り込む車はトヨタ製のSUVのような車で、このあたりの国を走っている車としてはさほどボロくはなかった。
しかし、セットプラスは運転手を除いて7人乗りのところを9人詰めにしていて、僕は真ん中の列で、右隣は赤ん坊を抱えた超絶太った女性。そして、パウロは僕の左で窓側。本来なら3人乗りのスペースに、赤ん坊を除いても4人が座らされていてとても狭く、先行きが思いやられた。
セットプラスは13時40分に出発した。パウロはここにきてようやく、次の移動が24時間くらいかかることを理解したようで「信じられない」「お前はこんなに長時間だということをあらかじめ知っていたのか?」などと話しかけてきて、がく然とした様子。旅慣れている割には、ちょっと情報収集が足りないよう。
さて、このパウロだが、前の日、ビサウでの昼ご飯のときに話していたのは、
・パウロは7年間、世界を旅をしている
・西アフリカの旅を終えたらエクアドル、ペルー経由で母国に帰る
・ブラジルに帰ったらアマゾンに行きたい
・アフリカにはモロッコのカサブランカから入り、そこから南下してきた
・その前はインドとネパールに1年ずついた
・インド、ネパールからすると、西アフリカの物価はとても高い
・かつて英語の教師をしていて、英語には困らない
・ブラジルもギニアビサウも母語はポルトガル語で、言葉は通じるが、細部がかなり違っている
といったこと。パウロは僕より年上なのは間違いなさそうで、50代に見えた。他にもいくつかの話題で雑談した。
それ以外にも、旅に出るまでどんな生活をしていたのか、何をきっかけに旅に出たのか、今はどうやって生計を立てているのか、貯金を取り崩しているのか——など、いろんな質問が浮かんできた。
しかし、バックパッカーにいきなりそういったことを聞くのも野暮というもの、というのが国籍は変わってもだいたいの共通認識で、込み入ったことを聞くつもりはなかった。気になり続けたら、機会を待って聞けばいいと思っていた。
ぎゅうぎゅう詰めの長時間移動
ガブの街を出ると同時に舗装路は終わり、幹線道路ながら、どこかのサファリかと思うような悪路が続いた。違いといえば、野生動物が見られるかどうかだけだった。
それにしても車内環境は最悪で、隣の女性がデンと場所を取っていて、赤ん坊が泣いて母乳をあげていたり、運転手はずっと窓を開けていて赤土の砂煙が車内に入ってきたり。パウロは僕以上に砂煙を浴びていた。もちろん車内に冷房は効いていないので、窓を開けていないと暑すぎて耐えられない。
それでも、国境からはかなり手前、ピッチー(Pitche)という町にイミグレーション(出入国管理所)があり、そこまでは順調に到着。出国スタンプを押してもらい、14時50分ごろ通過した。
ここから、グーグルマップにも載っていない、南に伸びている道をしばらく走っていくと、突き当たりになっている川があり、ギニアとギニアビサウを分けていた。
ちなみに、地図と航空写真を見比べてみると、そこに道があるのは一目瞭然。国境を越える車がそんなところを走っているとは、思いもよらなかった。
国境の川では台船に車を載せて、両岸を結んだワイヤーロープを手で引っ張って進むようになっていて、先に出発していた車3台が待っていて、僕やパウロの乗る車が最後の1台だった。僕たちも他の乗客や運転手と一緒にロープを引っ張るのを手伝って、アフリカのローカル感を味わえた。
ちなみに、グーグルマップ上では、ギニアビサウ側には道がないものの、ギニア側は道が通じている。どうしてこうなっているのかは、よく分からない。
ギニアに入るとすぐにパスポートチェックがあったものの、ただパスポートの確認だけで、イミグレーションがあったわけではなく、そのまま車で先へ。ギニアでも道路環境は良くはならなかった。前を行く車は、乗客が車内に入りきれないのか屋根の上にも人が乗っていた。砂煙で体がドロドロになっていたに違いない。
ところで、いったん車を降りて再び乗るたびに、乗ったときの位置取りをきちんとしないと窮屈すぎて辛いため、かなり神経を使った。ただでさえ狭い座席に加えて、右隣は乳児連れの女性とはいえ、1人で2人分に近いスペースを占めていて、これなら2人分の座席を買ってくれと言いたいほどだった。
車は遅々として進まず、時には対向車と道の譲り合いをしながら、故障もせず何とか動いていた。車内では常に上下左右に体を揺られ、座席という点で唯一快適さが保てていたとしたら、通常の1人分のスペースが確保できている運転手だけだっただろう。運転手は自分の好きな曲をかけながら、ジャングルの中を駆け抜けるように車を動かしていた。
ギニア側の国境付近では、これまであまり見たことがないような様式の家が建っていた。
ギニア側のイミグレーションも、ギニアビサウ側と同じように実際の国境からは10キロほど離れていて、フラモリ(Foulamori)という町にあった。この町に到着したのが16時20分で、入国手続きを済ませ、そこからさらにコナクリに向けて進んでいくうちに日が暮れて夜になった。そして進むこと4時間弱、クンビア(Koumbia)という名の大きめの町に差しかかったところで車がストップした。
どうやらここで夕食を、ということらしい。疲労困ぱい気味のパウロとともに車外へ出てみると、町全域が停電しているらしくてメインの道沿いでもかなり暗く、写真に撮ってみると何かの映画のワンシーンのよう。
道路沿いの名もなき店でたまごサンドとファンタを買い、早速食べた。写真の左奥にいるのが店を仕切っていた女性とその子ども。
このころになって気づいたが、セットプラスは何かトラブルがあったときのために、2台がペアを組んで移動しているらしい。もう1台のセットプラスはかなり遅れていて、この町に到着したのを見計らって21時ごろに出発した。
この先は、運転手が眠くなるまで走り続けるのか、どこまでいくのか想像もつかないまま、僕もパウロもウトウトと眠りに入っていった。
野宿を経てギニアの首都に
翌23日の午前3時か4時ごろ、ボケの街のターミナルに着いたようで、そこに入って休憩。この日はそのまま野宿になった。3、4時間ほど休むと、空が明けてきた。
奥の黄緑色の車が、僕とパウロが乗っていた車。運転手はこんな過酷な状況で、よく事故も起こさずに運転し続けているもんだと思った。日本なら間違いなく訴えられるレベルだ。
車は朝7時20分に出発。ボケからは舗装路になり、道路は走りやすくなったものの、車内は相変わらずつらい状況で、隣の女性は場所を多く取っていた。
「何とかしてくれよ。ここがシートの真ん中、センターラインだよ!」
英語で女性に訴えても言葉は通じず、女性は逆に運転手に向かって文句をいろいろ言ってきた。どうしようもない人だ。
それでもウトウトしつつ、道を進んでいると、10時ごろ休憩に入り、パウロとともにまたサンドウィッチを買って食べた。
昼になり、コナクリに近づいて景色が街っぽくなってくると、今度は渋滞に巻き込まれてなかなか先に進まなくなった。それでも、14時前にはコナクリの街に入り、大規模なモスクなども見えた。この国の首都は、ビサウとは違ってかなり規模が大きいことがすぐに分かった。
そして、中心部から離れたターミナルに到着。とにかく服も荷物も赤土だらけで何ともひどい状態で、パウロとお互いの顔を見合ってはおどけていた。そして、終始険悪だった右隣との女性とも別れられて、心からホッとした。
それにしても、今回はこれまで体験したことのないような行軍で、バックパッカーにとっては「地獄」とも言ってもいいくらい。僕はアジアや南米で厳しい長距離移動をしてきた経験もあったものの、過酷さでは比ではなかった。ギニアビサウからギニアにかけての行軍を1度でも味わったら、長距離移動で怖いものはもう何もないような気がした。
そして、僕とパウロは息をつく間もなく、宿探しに入った。