コートジボワールからブルキナファソに向かう長距離バスで日本人旅行者の男性と知り合った僕は、2人で同国南部の街、バンフォラでちょっとした観光を楽しんだ。そこから北東に約450キロ離れた首都ワガドゥグーに旅立つ男性を見送った僕は、この国第2の都市、ボボ・ディウラッソに向かうことにした。
次の街でやろうとしていたことは特になかった。そして、進むにしても戻るにしても、帰国までの日が迫ってくるにつれて心に行き詰まり感が迫ってくるなか、それでも僕は先を目指した。
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バスで2時間の小移動で次の街へ
僕は3日間を過ごしたバンフォラを離れ、長距離バスで次へと向かった。目的地のボボ・ディウラッソまでは北東に約90キロで、バンフォラとワガドゥグーを結ぶルートの途中にある。
利用したのは昼の12時発のRakieta社という会社のバスだった。きちんとしたダイヤがあり、真っ昼間に街を出発する公共交通は西アフリカでは珍しいように感じたが、それはこのあたりの国境を越える長距離バス網の充実ぶりが影響しているようだ。前回の投稿でも紹介したが、ここブルキナファソからは南にコートジボワール、東にニジェール、西にはマリや、途中で乗り換えがあるかもしれないが、セネガル、モーリタニアの大西洋岸に面した街までを結ぶバスさえある。そう考えると、経由する都市では正午ごろに出発するバスがあるのも納得がいく。
今回は約2時間で目的地に着いた。西アフリカでの10時間超、ひどいときには1日がかりの長距離移動になじんだ身として、今度の移動はあっという間に感じられた。
続いては、いつもどおり宿探し。教会に併設されている宿泊施設があるというキリスト教系の施設「Eglise De L’Alliance Chretienne Centrale」を目指した。ボボ・ディウラッソも西アフリカの都市の例に漏れず、宿泊施設はその地の物価の割には高価で、バックパッカーにコストパフォーマンスがよいことで名の通っているこの施設を目指していた。
10分ほど歩いているうちにたどり着くと、年配の男性から3種類の部屋を紹介された。そのうちの最も安い部屋をリクエストすると、少しグレードが上の部屋を最安の1泊5,000セーファーフラン(960円)で泊まらせてくれるというので、そこに落ち着いた。
Wi-Fiが使えるということだったが、通信機器側の設定がおかしいようでうまいこといかない。これも西アフリカではよくあることだった。途中であきらめて、外に出かけることに。通りがかりの屋台で遅めの昼食をとったが、まずくて全部を食べきれなかった。宿からあまり離れていないところにスーパーを2軒見つけて、ジュースやビール、水などを買って宿に戻った。
これが人口2,000万人の国の第2の都市?
ボボ・ディウラッソの街で特にやりたいことがあるわけでもなく、やる気も起きなかったものの、夕方には本格的に歩いてみた。
それにしても、ボボ・ディウラッソの中心部は、人口50万人超の都市というのがにわかには信じられないほど、のんびりしていた。これは、グランマルシェ(中央市場)やスーパーマーケットがある通り。
これは、鉄道駅と幹線道路を結ぶ「Ave de la nation」と名付けられた目抜き通り。だが、車通りはそれほどでもなかった。
目抜き通りの端にはラウンドアバウト(環状交差点)があり、円錐のモニュメントが飾られていた。夜はライトアップされるのだろうか。
バイクも見かけた。ボボ・ディウラッソではバイクがそこそこ流通しているようだ。真っ黒なアバヤとニカブをまとったムスリムの女性がバイクの後ろに乗っている姿も見かけた。こういった光景は、都市部以外ではなかなか見られないかもしれない。
街の中心部を外れると、幹線道路以外は未舗装になった。暑さや砂っぽさがもう少しマシだったらまだ散歩したい気分だったが、体力的に厳しくなってきたので、宿に帰った。今回の散歩で往復5キロほどの道のりを歩いたことになる。夜にはWi-Fiがつながって通信できるようになった。
泥で造られたモスク
翌日は動き出しが遅く、お昼時になってようやく宿を出て、長距離バス会社のTCVのバスターミナルに併設された食堂「Restaurant TCV」で食事を取った。
ご飯系のランチを注文すると、料理名は分からなかったものの、おいしくいただけて、リピート候補の店になった。これもまた西アフリカではよくあることだが、僕のような東洋系の1人で旅している外国人でも入りやすく、高くなくておいしい料理を提供してくれる店はなかなか見つからず、貴重な存在だ。
ブルキナファソは治安情勢が悪化しているという情報もあり、街中で写真を撮っていると因縁をつけてこられそうで、そこかしこでカメラを向けるのはためらわれた。
いったん宿に戻り、ゆっくりしていると、バンフォラで別れた男性からメッセージが入っていた。どうやら、首都のワガドゥグーでの用事を終えてこの街に来て、僕と同じ宿にチェックインしていたようだ。しかも、翌日にはマリの首都バマコに向けて出発するという。僕の部屋まで別れの挨拶に来てくれた。
詳しく聞いたわけではないが、男性は日本でお金をためては、外国を数カ月ほど旅する生活を続けているようだった。今回は、西アフリカの名所旧跡を訪ね歩いているそうで、そういう旅行スタイルは、僕にはまるでロールプレイングゲームをいかに効率的に攻略するか、試しているように見えてしまい、今の僕とは旅行スタンスがかなり異なっているという思いが募った。
かつて、僕は仕事の合間を縫って外国を旅することを楽しみにしていた時期もあったが、そうした旅行は心理的負担が少ない半面、自分の身や置かれた環境に対するちょっとした不自由さ、言い換えれば虚しさも感じるものだった。
翌日、男性は旅立っていった。男性から、ワガドゥグーはおもしろさをあまり感じる街ではなく、スタンガンを見せびらかすような輩もいたという話を聞いて、僕はボボ・ディウラッソから先を目指すのは止めて、コートジボワールのヤムスクロまで引き返すことにした。
昼ご飯を食べに訪れたのは、昨日と同じTCVのバスターミナル。チケット売り場に行くと、コートジボワール南部の同国最大の都市アビジャン行きがあり、途中でヤムスクロにも止まるということだった。心配だったのは出発時間で、翌日未明の2時30分発予定だという。そんな時間に外をうろつきたくないと思ったものの、バスターミナルは宿から5分ほどの近さなので、あまり問題にしなくてもいいか、と思い直した。
ついでにTCVの食堂に行くと、前日もいた女性店員が覚えてくれていた。「アチェケがオススメよ」というので、アチェケがついたランチを注文すると、確かにおいしかった。この店員は帰り際、「夜も食べに来なよ」と声をかけてくれて、心が温かくなった。
ついでに、街の中心部を散歩した。この街の目玉の1つ、約140年前の1880年完成とされるグランドモスクのそばも通った。
このモスクは、僕が見たいと思っていたマリのジェンネにある世界遺産「泥のモスク」と同じく、泥が原料の日干しレンガで造られているのが特徴になっている。しかし、修復工事中なのか、トタンのフェンスが張られて無残な景観になっていて、どのように切り取って撮影しても写真映えしなかった。中にも入れず、仮設の礼拝所のようなものに入れるだけのようだ。
それでも、マリの世界遺産に匹敵するようなモスクを近くで見られたことに満足して、もうこの街に思い残すことはないと感じられた。
スーパーに寄って、毎日おなじみになっている飲料水、ビール、ビスケットなどを買って宿に帰った。この街を出る予定も確定し、宿の宿泊費もまとめて支払ってすっきりした。部屋で昼間からビールをあおりながらパソコンを開き、あと少しに迫った帰国から、どう過ごしていくか思い描いてみた。
昼寝をしてから外出して、TCVの食堂に再び訪れてみたものの、かなり混んでいて昼に見た店員はおらず、食堂に入るのは止めて、屋台のサンドウィッチを買って宿に帰った。
帰り道、大勢の人たちを運ぶ三輪トラックが僕の右側を通り抜けていった。乗り合いタクシーなどに代わる移動手段なのか、仕事帰りの集団なのか、あるいは別の用途なのか、判別はつかなかった。ただ、トラックの荷台に乗せきれんばかりの人たちがいる姿を見て、日本とは全然違う異国にいるんだな、という思いを新たにしていた。もういい加減、移動に疲れていたのかもしれないし、こんな西アフリカの姿がもう少しで見られなくなることが寂しかったのかもしれない。僕は感傷的になっていた。
宿に帰って、サンドウィッチをほおばった。翌日は移動に明け暮れてネットにつなげないことがほぼ分かっていたので、遅いネットを使い倒した。
満天の星空は西アフリカのハイライト
夜中、起きる前から何か音がすると思っていたら、部屋にネズミが侵入していたようだった。部屋の明かりをつけてバックパックを動かすと、ネズミはベッドの下に逃げていった。
宿をチェックアウトして外に出ると、道の脇には屋台の小屋のようなものが無数にあった。そこから強盗が飛び出してきたら、ひとたまりもない。そんなことを思いながら、用心してバスターミナルへ。2時くらいに着くと、すでにコートジボワール行きのバスを待つ人たちで結構にぎわっていた。
バスは2時過ぎに到着して、早速荷物を積み込んで座席に座る。この日はありがたいことに指定席になっていて、定刻の2時30分に出発した。バス自体もしっかりしていて全然お尻が痛くならない。ただ、窓ガラスが一度割れたのか、おそらく後からはめ直していて、すきま風が入ってきて少し寒かった。
幹線道路では、治安当局による厳戒態勢が敷かれているようで、国境に着くまでに3回のチェックポイントがあり、そのたびにバスから降ろされて1人ずつ身分証の確認があった。
2回目のチェックポイントだったか、憲兵隊の人が僕のパスポートを見て、僕の下の名前を小さく叫びながら笑顔を見せてくれたのが何気なしにうれしくて、思わず笑顔になった。バスの外に出ると辺りは暗く、空も新月に近くてほとんど月明かりがなく、星がプラネタリウムほどにすごくよく見えた。写真は撮れなかったが、西アフリカの1人旅のハイライトの1つになるような景色だった。
ブルキナファソ側の国境には5時くらいに到着し、逆の向きでも通った国境検査の建物へ。やはり行きと同じく弾丸が撃ち込まれた跡が残っていて、プレハブ小屋のような建物内では、職員の後ろの窓が銃弾によって割れたままだった。バンフォラやボボ・ディウラッソで見た、のんびりした街の光景とはあまりにもかけ離れていた。襲われて死ぬときはタイミングが悪かっただけでしょうがない、などと思いつつ、改めて目が覚めるような思いがした。出国手続き自体はあっさりと終わった。
続いてコートジボワール側は、入国審査から混んでいて、ちょっと時間がかかったうえに、医療チェックがあった。そして、コートジボワールに3度目の入国にして、うわさに聞いていた髄膜炎の予防接種を打つことになった。
日本なら1万円は優に超え、下手したら2万円以上する髄膜炎の予防接種がたったの2,500セーファーフラン(470円)でできるのはありがたい。衛生面でも、消毒液が配備されていて注射針が使い捨てなので安心できた。真夜中の真っ暗な時間帯に公の場で注射を打つのも変な気分だった。
こうして、コートジボワールに戻ってきた。僕は、バスの中では夜通し寝ていた。明るくなってからも窓のカーテンは閉められたままで、コートジボワールの番組か何かのDVD上映が始まって、時々、乗客が笑っていたのが印象的だった。アフリカの人は普段、あまり笑っている姿を見ない気もするが、西アフリカに限っていえば、実際はそうでもない。
10時半ごろ、行きも通ったブアケに到着した。バスの外は暑そうだった。バスターミナルで30分ほど休憩した後、バスはさらに先へと進んだ。帰国への道のりももうそこまで、一歩ずつ近づいてきていた。
旅の情報
今回の宿
Eglise De L’Alliance Chretienne Centrale
ツイン 3泊 15,000セーファー(約2,900円)
設備:共用バスルーム、共用トイレ Wi-Fiあり
予約方法:なし
行き方:ボボ・ディウラッソのRAKIETAのバスターミナルから北東に歩いて12分。TCVのバスターミナルからは東に歩いて5分。
その他:清潔に保たれてはいたが、ネズミが出た宿は初めてだったような気がする。部屋は3種類あり、ファンと蚊帳付きで最も安い部屋が1泊で5,000セーファー、設備は同じでツインの大きめの部屋が6,000セーファー、エアコン付きが10,000セーファーとなっていた。壁の案内を見ると3,000セーファーの部屋もありそうだったが、英語が通じずはっきりとはしなかった。
訪れた食事処
Restaurant TCV
注文品:焼き魚とアチュケのセット(2回目の訪問時) 700セーファー(130円)
行き方:TCVのバスターミナルの敷地内にある。
その他:リーズナブルな価格と安定した味で人気のある食堂のようだった。
旅する40代男の視点からみたブルキナファソ
ブルキナファソもリベリアと同様に、首都を含む大半を見ていないこともあり、全体としてこう、というのを伝えられないかもしれない。また、この項目を書いている2024年現在、この国を語る際には西隣の国のマリと同様に、治安情勢について触れることがどうしても必要になっている。
僕がバンフォラやボボ・ディウラッソを訪れた際、街にはゆったりとした時間が流れていて、特にボボ・ディウラッソはここが大都市だとは感じられなかった。また、コートジボワールの日本大使館で言われたような、治安上の問題を感じさせるものもなかった。
ちなみに、僕が旅した2019年2月当時、外務省の海外安全情報ではブルキナファソは北部、東部の一部分にレベル4(退避勧告)が出ていたものの、国土の6~7割のエリアはレベル1(十分注意してください。)で、僕が訪れたバンフォラ、ボボ・ディウラッソはレベル1との境目のレベル2(不要不急の渡航は止めてください。)に指定されていた。同国中央部にある首都ワガドゥグーもレベル2だったものの、周りはレベル1のエリアに囲まれていた。
陸路での国境越えも、東隣のニジェールのほか、南東部のトーゴ、ベナンとの間ではすでに安全面で問題を抱えていたのに対して、コートジボワールやガーナとの国境はそれほど言われてなかった。つまり、同国の南部を旅するくらいであれば、それほど緊迫感を感じるような情報にはなっていなかった。
その一方で、僕は行き帰りの国境で生々しさの残った武装集団による襲撃跡を見たこともあり、危険とは隣り合わせということを重々感じての旅路となった。そうしたフィルターで街を見ていたせいか、のんびりしていても油断ならないのがこの国の実情なのかもしれない、と思ったりもしたが、街中にいる人たちはごく普通に生活していて、強盗・窃盗や殺傷事件のような一般犯罪に巻き込まれる危険を感じることはまずなかった。
ところが、2019年以降はブルキナファソの治安情勢がますます悪化し、2022年には2度のクーデターも発生して政情不安が増している。2018年の後半からは、外国人をターゲットにした誘拐事件が国境付近を中心に頻発するようにもなった。大きな事件が発生するたびに国際的に報道され、この国の情勢が悪い方に傾いていることは日本にいても確認できるようになっている。
2024年現在、イギリス、アメリカなど各国の安全情報では国土全域が真っ赤、“Do Not Travel”という状況になっている。旧宗主国のフランスによる安全情報を見ても、2022年11月にはかろうじてワガドゥグーとボボ・ディウラッソがオレンジ色の「やむを得ない限り渡航は推奨されない」だったのが、2023年8月には全土で赤色の「渡航は推奨されない」になってしまった。政治や治安が落ち着くまでは、都市部を含めて旅行できる環境にないのが現状だと思う。
この国は1980年代、「西アフリカのチェ・ゲバラ」とも呼ばれるカリスマ軍人・政治家のトーマス・サンカラを生み出した。マリのバマコで泊まった宿には、サンカラの肖像が壁に描かれていたりして、西アフリカでは実際に今でも人気があるようだ。
そのサンカラが名付けた「ブルキナファソ」という国名は「高潔な人」「祖国」という意味だが、サンカラが1987年に暗殺されたのち、独裁政権が長引くにつれて政治腐敗が蔓延した。2010年代以降は「アラブの春」の影響もあり、政情不安が増して、先んじて国情が悪くなったマリからイスラム過激派組織が流入したりしてさらに治安が悪化し、今に至っている。
こうした治安情勢は別にしても、観光面でそれほど多くの見どころがあるとも思えないこの国だが、サンカラをはじめとする国の歴史的背景に少しでも触れていれば、この国を旅するときの見方が変わってくるかもしれない。
旅のしやすさという面でいえば、ボボ・ディウラッソでは、街の規模はそれほど大きくないにしても、僕たちのような外国人旅行者にはありがたい存在のスーパーマーケットもあったりした。ただ、マリのバマコやコートジボワールのアビジャンと比べると、長居できそうなカフェやファストフードチェーンなど望むべくもなく、かなり見劣りすると思った。首都のワガドゥグーはまた別かもしれない、と考えたりもするが、ネットで他の旅行者の滞在記などを読んでいると、首都に行っても似たような感想を持ちそうな気がする。
バンフォラやボボ・ディウラッソを旅していると砂っぽさ、土っぽさが際立っていたような気がして、最高気温はせいぜい30度台の半ばにもかかわらず、体力的に参りそうになった。これは僕のような40代の旅人だけではなく、砂塵にあまり慣れていない日本出身者なら、20代や30代であろうと状況は変わらないだろう。決してサヘル地域のように砂漠化が進んでいるわけではないのだが、夏場を除いてほとんど雨が降らない気候が砂塵の多さに影響しているように思う。
内陸国のブルキナファソは、国土面積こそマリやニジェールの5分の1あまりの大きさしかないものの、6つの国と国境を接していて、アフリカの長距離陸上交通の結節点として重要な位置を占めている。陸路移動でアフリカを渡ってきた僕のような旅行者にとって、この国の治安は西アフリカの旅しやすさにも大きく影響する。
再び政情が安定し、治安が回復するまでは一筋縄ではいかないかもしれないが、この国に再び平和な情勢が訪れることを願い、今後の推移を見守っていきたい。