ギニア その2 クリスマスムードゼロの首都でビザ取りに奔走

ギニアビサウの首都・ビサウから32時間ほどかけて、赤土を全身に受けて泥だらけになりながらギニアの首都・コナクリまで移動してきた僕とブラジル人の旅人、パウロは、その疲れを癒す間もなく宿探しを始めた。

この国の首都では、このさき訪れる予定のシエラレオネやマリ、ナイジェリアなどのビザを取る必要があり、しばらくの間、滞在することにしていた。パウロもビザ取りの関係で数日間はとどまることは確実となっているようだった。ただ、ビザを取り終えるのがいつになるのかめどは立っておらず、しかも新たに手にするビザがなければ後にも先にも進めない状況だった。

コナクリは大西洋に面しているとはいえ、これまでに訪れてきたモーリタニア以降の海岸沿いの大半の都市と同じように、リゾート的な雰囲気からはほど遠く、旅人にとっては通り過ぎるだけの街で滞在には不向きかもしれない。しかし、下手をすれば中長期の滞在を余儀なくされるかもしれなかった。

道端のサッカー少年たちと記念撮影

23日の昼過ぎ、コナクリに着いて宿探しをしようとするパウロと僕だったが、パウロはもともと英語のガイドブック「ロンリープラネット」で、僕はネットで事前に目星をつけている宿の情報を得ていた。そして、それぞれ宿の名前が違っていた。

ひとまずパウロが目指そうとしていた宿にタクシーで向かうと、新たな事実が発覚。実は聞いていた名前が違うだけで、実際は同じ宿を指していたのだった。というわけで、僕とパウロは目的とする宿「Maison d’Accueil」へと向かった。英語風にいえばミッション・カトリック、つまりキリスト教系の施設が今回の目的地で、コナクリの都心部にあった。

ちなみに、首都の人口は2014年時点で166万人。他の国の例に漏れず、年々多くの人が都会に流れるようになっている。僕たちの目指していた都心部は半島の先のほうにあり、海に面したどん詰まりに位置している。

宿には14時30分ごろ到着。広い敷地の中にある中層階の建物で、ガンビアのセレクンダで泊まったYMCAを思い起こさせた。最も宿泊料の安いエアコンなしの部屋が空いていて、隣の部屋同士でパウロと泊まることに。テラスハウスの住人同士のように滞在することになった。

部屋の中はこんな様子。蚊帳が用意されていた。

バスルームはまあまあゆとりがあり、清潔だった。奥のシャワーブースにバケツが用意されているのは、断水があるから。この部屋のトイレには便座がなったが、外国ではありうる話でご愛嬌といったところ。ただ、宿泊施設のトイレに便座がないというのはあまり聞いたことがなかった。これでWi-Fiがあれば他に望むものはなかったが、そうはいかないのがこの西アフリカ。宿で使えるWi-Fiはなかった。

ひとまず荷物をチェック。かばんはかなり赤土を浴びていて、洗濯しても汚れはなかなか落ちなさそう。

部屋で落ち着いたあとは、1日以上まともな食事をしていなかったので、パウロとともにご飯を食べに出かけることに。しかし、この23日は日曜で、開いている店がなかなかなかった。

中国系のホテルに併設されている中華料理店がオープンしていたので、のぞいてみたら1品が1,000円ほどする、現地の高級店だった。ホテルの前には人がたむろしていて、少し話をすると、ビジネスで滞在していたインドネシア人のグループのよう。

その後、食事どころを探しながらジュースを飲んだり、海の近くの屋台で魚の焼き物を食べたり。さらに道を歩いていると、サッカーの練習をしている少年たちと出会った。

白色人種と黄色人種の組み合わせが珍しかったのか、練習の足を止めて寄ってきた。そして、記念撮影をすることに。

ここでの特筆は、そろいのユニフォームを来た少年たちには大人の指導者たちがいて、道端とはいえただの遊びではなく、きちんとした練習の体を成していたということ。そして、子どもにユニフォームを買ってサッカーを学ばせることができるくらいの資金力を持った家庭の子どもたちが集まっていた、ということだった。都心での子どもたちのこのような姿は、ギニアビサウの首都ビサウでは1度も見かけなかった。最貧国の1つに数えられる国々でも、内情はやはり違っている。

「これこそが旅の醍醐味だ!」

パウロが興奮していた。僕にとっても、今までなかなかこういうシーンがなかったので、かなりうれしかったことは間違いない。でも、のめり込み具合ではパウロのほうがはるかに勝っていた。

記念撮影が一通り終わり、さらに昼ご飯を探して回った。

すると、大きな病院の前にあった、建物が完全には仕切られていないレストランが開いていた。

オーナーの黒人男性によると、店名は「Restaurant Ignance Deen」というらしい。メニューを見せてもらうと、スパゲティが20,000ギニアフラン(240円)とかなりリーズナブルだった。そこで、この店で食べることにした。

時刻はすでに19時を回っていた。疲れが先に立っていて、どんな味だったか覚えていなかったものの、ようやく空腹を満たすことができた。宿に帰ると、疲れて寝入ってしまった。

クリスマスイブとナイジェリア大使館

翌24日はクリスマスイブ。宿には朝食がついていたが、食べ物はパンとマーガリン、飲み物はティーパックの紅茶かインスタントコーヒーのどちらかを選択という簡素なもの。この日、僕はナイジェリア大使館に行ってビザを申請することにしていた。隣の部屋のパウロは銀行で現金を下ろし、余裕があればシエラレオネやリベリアの大使館に行ってくるらしい。

ちなみに、これは別の日に撮ったものだが、朝ご飯は写真で紹介するとこんな感じ。

食事後はパウロと分かれて早速、街に出てみたが、クリスマスムードはまったくなし。ちなみに、ここギニアの宗教はイスラム教が85%で、残りはキリスト教と伝統的宗教という。

その代わり、コナクリにモスバーガーを発見!なぜこんなところに。

と思いきや、「Morgan Restaurant」らしい。モスバーガーだったら入っていたかもしれない。ロゴはモスバーガーとそっくりだが、それほど凝ったデザインでもないように思うので、たまたまうり二つになったといわれたらそうなのかもしれない。

さて、ナイジェリアの観光ビザは、日本で取る場合は個人でも割と取りやすいが、アフリカをはじめ外国で取ろうとするとかなり困難なことで知られている。このあたり、ガーナなども事情が似ている。ただ、コナクリにあるナイジェリア大使館は、他国のナイジェリア大使館と違って日本国籍なら観光ビザを取得できるらしい、という評判を聞いていた。

ナイジェリア大使館に行くと、50代に見える女性が英語で対応してくれて、ビザの申請に必要な書類を書いた紙を渡してくれた。

「ナイジェリアにはいつ訪れる予定なの?」

「来年の2月に訪れるつもりです」

「それなら1月の終わりに来て」

まさかの門前払い。1月末にコナクリにいるはずなんてないのに。これは手ごわい。作戦を練り直す必要がありそうだった。ひとまず、この日は申請を諦めて帰ることにした。

宿に帰る途中に、フランス資本の通信会社Orangeの店を見つけて、スマートフォン用にSIMカードを買った。そして、3GBのデータもつけてもらった。これでWi-Fiがなくとも、しばらくはネットで情報収集できるし日本にいる妻、ゆっきーなどへの連絡もつく。

通信の不安もなくなり、宿に帰ってから早速、必要書類の作成に取りかかった。1月中旬に空路でナイジェリアを訪れ、下旬には空路でエジプトに出る形で辻褄を合わせていくことにした。

英文での渡航の理由書(アプリケーション・フォーム)、旅程表、ダミーの航空券、ダミーのホテルの予約票を用意して、あとはパスポートのコピーなどとともに印刷するだけになった。自分自身の気が乗っているうちに、一気に仕上げた。

昼下がりには、出先から帰ってきたパウロとともに、前日も訪れたレストランへ。

この日、頼んだメニューがこちら。「パタヤ」と呼ばれる揚げ物料理と豆料理で、パタヤは大きなパイ生地の中に2センチほどの大きさに切られた牛肉が多く入っていて、なかなかおいしかった。

食事のあとは、1人でコピー屋を探しにいった。この国でも公用語となっているフランス語の壁に苦労しながらも、さっき仕上げた書類のほか、パスポートのギニアビザのページやクレジットカードの表裏もコピーしてもらった。

夕食もパウロとともに、昼間と同じレストランまで食べにいった。

その行き来の際、妙に気になったのがこのポスター。「AYA NAKAMURA」とまるっきり日本人のような名前のアーティストだが、見た目は完全にアフリカ系の女性。いったい何者なのか?

調べてみると、彼女はこの2018年にブレイクしたシンガーで、パウロや僕がのちに向かおうとしていたマリの出身らしい。フランス在住という。日系人ではなく、日本とのゆかりもないものの、Ayaは本名で、Nakamuraはアメリカのテレビドラマに出てくる日本人から取ったもの。このポスターを見た2日前、この地でアヤ・ナカムラのコンサートがあったらしいが、そんなことは知る由もなかった。

他に気になったものも紹介。

がれきにさらされた市街地が、無防備にさらされていた。

コナクリの特徴の1つとして、大きめの彫刻が立てられたラウンドアバウト(環状交差点)がいくつもあった。これはこのうちの1つ。

コナクリの実質1日目は、市街地を多少散歩した以外は、ナイジェリアのビザを巡る対応で終わった。

休暇に苦しめられて市内観光へ

クリスマスの25日は、僕にとって最優先となっていたナイジェリアのビザ取得には動けない日だった。というのも、大使館のビザの受付日は月曜、水曜、金曜だけで、この日は火曜だったのに加えて、25日はナイジェリアではクリスマスの日で祝日にあたっていて、二重の意味でどうしようもなかった。

そこでこの日は、パウロの提案でアクロバットの練習風景を見にいくことに。ロンリープラネットに「見どころ」として載っているという。

宿の前から乗り合いタクシーを拾って練習場の近くまで行った。

ここでちょっとした不愉快な出来事があった。タクシーに乗る前は1人3,000ギニアフラン(37円)だったのが、降りるときには30,000ギニアフラン(370円)になっていた。僕たちは、相手の吹っかけは無視して最初の言い値の3,000フランを支払って下車した。

「まあ、途上国あるあるだよね」と僕が話しかけたら、パウロは「こういう類のトラブルが本当に嫌いなんだ」と顔をしかめ、その後は何度もネタにしていた。

アクロバットの施設は、人に尋ねつつ向かっているうちに見つかった。この体育館のような施設がアクロバットの会場らしいが、薄汚れた倉庫のように見えた。練習開始の10時までまだ間があったので、しばらく時間をつぶしてから戻り、実際に入ってみると、広めの空間が広がっていた。

最初に始まったのは、アクロバットではなく太鼓の練習。鉢でドンドンとたたく音が心臓に響いてきた。1時間くらいするとアクロバットのメンバーによる練習も始まったが、どちらかといえば太鼓のほうが心に残った。あまり面白くならなさそうだったので、その場を去ることにした。

帰り際に見えたアーチェリーの練習場。周辺は複合的なスポーツコンプレックスのようだった。

少し休憩したあと、シオラレオネ大使館まで歩いていくことに。パウロは前日、銀行でお金を下ろすのに手間取って行けなかったため、この日、2人で訪れることにしたのだった。目的は当然、観光ビザを手に入れること。

シエラレオネ大使館に近づくと、カフェが併設されたガソリンスタンドを見かけた。日本では、ガソリンスタンドにある店舗といえば、大半がこなれていない印象もあるが、ここ西アフリカでは、僕のような旅人でも欧米の香りを味わえる、数少ない貴重なスポットというイメージが強い。

というのも、このとき立ち寄ったガソリンスタンド「TOTAL」(トタル)はフランス資本の企業だったからだ。TOTALのガソリンスタンドにはたいてい「Café Bonjour」というコンビニエンスストアが併設されていた。このとき訪れた店にはイートインコーナーまであった。

ただ、難点が1つあった。それは売っているものが高いということ。クロワッサンとコーヒーのセットを頼んだだけで20,000ギニアフラン(240円)と、僕たちが通う現地のレストランの1食と同じ価格だ。

僕と同じメニューを頼んだパウロは「この街にあるのは安くて不潔な屋台か、そこそこきれいだけど高いレストランだけ。その中間がない」と嘆いていた。

そしてシエラレオネ大使館前まで来た。しかし、残念ながら大使館と思われる建物はもぬけの殻のようで、門もぴしゃりと閉められていた。

「ここは大使館じゃないの?」

門の前にいた現地の人たちに尋ねると、「もうここには大使館はないよ。遠くに移転した。それに、大使館は来月7日まで閉まっているよ」と予期しなかった答えが返ってきた。

ホンマか?と思いながら、移転先まで行くかどうかパウロと相談。時刻はすでに正午を回っていて、これから行っても空振りになる可能性が高かったため、諦めて宿に戻ることになった。

その帰りに見かけたラウンドアバウトには、象の彫刻があった。

コナクリの街の道端には、家具を干しているのか売っているのかしている人たちがいた。ギニアの北大西洋沿岸は特に雨が多いのに、こんなに野ざらしで大丈夫なのだろうか。

この街に来て初めて路線バスにも乗ってみた。そして、いつもの店で昼を食べようとすると閉まっていて、近くの屋台でサンドウィッチを買った。パウロが言っていた通り、この街は食の選択肢に乏しかった。

そしてこの日は、パウロが前日、使ったというWi-Fiが通じる施設にも2人で訪れたが、この日は祝日か休日なのか閉まっていたため、宿に戻ってきた。

やたらと止まっている車が多い宿の中庭。それほど車の出入りがあるわけではなく、誰の車なのかよく分からない。

夜にいつもの店をもう一度訪れてみると、今度は開いていた。オーナーはクリスチャンらしく、教会に行っていたとのこと。というわけで、空振りの多いクリスマスだった。街は多少のイルミネーションはあったものの、相変わらずクリスマスムードとはほど遠かった。

パウロとのやりとり

翌26日は、コナクリに来て初めての曇り空の朝だった。僕はナイジェリア大使館に再び行き、パウロは移転先のシエラレオネ大使館を目指すことに。しかし、僕がナイジェリア大使館に行ってみると、25、26日はクリスマス休暇で休みという張り紙がしてあった。

文書が作られたのは12月24日……休みの前日やんか!仕方なく、もう1つのビザのゲットしどころ、マリ大使館に向かうことに。

途中の屋台で、タピオカのような粒の入ったペットボトルを買ってみた。すると、これが悲惨な結果をもたらすことに。ジュースと思っていたら、ミルク系のドロドロの食べ物を凍らせたようなものらしく、おなかの調子が悪くなってきた。

それでも歩いてマリ大使館に向かっていくと、幹線道路の途中で歩道橋を発見したので上ってみた。

コナクリの市街地に向かう道路が渋滞していた。

歩道橋のそばには池、グラウンド、やや離れたところには高層マンションもあった。富裕層が住むエリアのようだった。

大使館の前まで来たものの、ここも門が閉まっていた。しかも、特に張り紙もなし。やむなく引き返すことに。おなかもいよいよ不調となってきて、バスに乗って宿まで帰った。

この日はゆっきーの誕生日で、LINEでは東京の実家でバラエティーに富んだ料理を囲み、誕生日会が開かれている様子が伝わってきた。ここコナクリで相変わらず貧しい食事情を抱えていた僕にとっては、どれも一口でいいから食べたいものばかり。

叶わぬ思いを抱えながら、前日、閉まっていたWi-Fiの通じる施設へ。「BLUEZONE」と名付けられたこの施設では、サッカーやバスケットボールもでき、月の会費が10,000ギニアフラン(120円)と格安だった。屋根はあるものの吹きさらしのスペースに、パソコン作業ができる机やいすがあった。

Wi-Fiは不安定だったものの使うことができた。シエラレオネ大使館に行ってきたパウロと合流して話を聞くと、大使館は12月21日から1月7日まで長期休業しているということらしい。しかも、最寄りのバス停から歩いて片道45分もかかったとか。

「コナクリでシエラレオネのビザを取るのは難しそうだね」

「ところで、ビザ代はいくらするのか分かるか?」と尋ねるパウロ。

「ネットで調べた情報では、大使館ではだいたい100ドルくらいかかるらしい」

「そんなに高いの?行く気をなくしてしまったよ」

それでも僕は行くつもりだった。ビザ代よりも前に、ビザが取れるかどうかが問題で、国境でアライバルビザが取れるかどうか確認するしかなくなった。

話しているうちにまたWi-Fiの調子が悪くなり、パウロがパソコンに入れている、これまでの人生での旅の全データを見せてもらった。パッと見ただけでも膨大な量だった。

しかし、なぜそこまで旅をするのだろうか、という疑問は解けなかった。本人が「旅は趣味だ」と言っているのだから、それ以上、付け加えることはないのだが、どこか僕にはしっくりこなかった。

情報収集は途中までにして、この日の晩ご飯もパウロとともにいつもの店へ。この日はおなかが不調で変なものは食べたくなく、パスタを注文。ビザをめぐっては徒労ばかりで進展がなく、パウロも僕も疲れを隠せなかった。

ビザを得て、旅人との別れ

年の瀬も迫ってきた27日、朝ご飯をパウロとともに食べていると、イタリア人の男性がやってきた。前日、僕たちはフランス人の老年の女性とも話をしたし、この宿にはいろんなタイプの外国人が泊まっているようだ。男性はどうやら学校を建てにこの国まで来ているらしい。結局、純粋な旅行者としてこの国を訪れているのはパウロと僕だけ。まあ、開発途上国で著名な観光資源もなく、政治的に安定しておらず、公衆衛生も不安で公共交通も不便とあれば、そんなものなのかもしれない。

早めに宿を出て、パウロと2人で前日にも行ったBLUEZONEへ。僕は少しインターネットにつないでから、僕1人で前日に続いてナイジェリア大使館へと行った。そろそろビザ取得のめどを立てなければ、越年するか諦めて次の国や街に向かうかの選択をするか決断しなければならない時期に差しかかっていた。

コナクリに来て5日目、この街での行動範囲もほぼ定まってきた。

この日、ナイジェリア大使館は開いていたものの、受付は次の日(金曜)の10時以降ということだったので、出直すことに。BLUEZONEに戻るとパウロがマリ大使館に向けて出発しようとしていて、2人でバスに乗って向かった。

大使館では、前日と同じく門が閉まっていたものの、チャイムを押すと守衛が出てきて中に通してくれた。

きちんとしたスーツを着た、大使のような風情をした人が、机を挟んで6か月、3か月、1か月の順にビザを案内してくれて、パウロも僕も1か月の観光ビザを申請した。1か月のビザは86,000ギニアフラン(約1,000円)とアフリカでは最安で、しかも即日発行。14時に来ればビザがついたパスポートが戻ってくるという。パウロはご機嫌だった。

マリのビザは申請時に入国日を記入することになっていて、僕は1月9日からとした。パウロは特に考えもなく1月10日としたらしい。ビザは、実際に入国した日から1か月間ではなく、ビザに書かれた入国日から1か月間有効となる。僕はこの先、シエラレオネ、リベリア、ギニアと抜けてマリに向かう予定で、日程的には1月9日だとまず間に合わなさそうだが、ビザの残り20日間くらいの余裕を持ってマリに入国できれば十分だと思っていた。

バスで市街地まで戻り、2人でいつもの店で昼ご飯。この日は鶏肉と豆、フライドポテトのセット。

またバスでマリ大使館へと戻り、無事にビザを手に入れた。大使館から宿まで今度は歩いて戻ることに。途中で新たな彫刻を見かけた。

海岸沿いではごみを焼いているところにも出くわした。僕から見たら、衛生観念のなさが目についたが、現地の人たちは何とも思っていないのかもしれない。

朝に引き続いてBLUEZONEへ。昼過ぎのWi-Fi回線は遅かったものの、夕方になるにつれてどんどん速度が上がっていった。

そして、夜もパウロとともにいつもの店で晩ご飯。店に行くときは、昼は豆類と決めていたが、夜は特に決めておらず、この日はパスタにした。

パウロはマリのビザが取れたため、翌朝にはコナクリを離れて、ギニア中部のダラバという高原の町に移動することにしたようだ。もうコナクリに思い残すことはないという。僕はナイジェリアビザのため、もう少しコナクリで粘るつもりだったので、パウロとはここでお別れすることになった。

そのようなわけで、この夜は、ギニアビサウから1週間近く行動を共にしてきたパウロとともに食べる最後の食事になった。食事している間のパウロは、ギニアという国に対して辛辣だった。

「誰がこのような国に旅したいと思う?世界中の国で196番目に旅したいところだよ。金をくれという人に1日1,000人は声をかけられる。ひどい国だよ」

もちろん、大げさな表現だし、インドならまだしも、僕自身はこの国でそんなに金を無心された記憶はない。しかし、パウロには、白人だからこそ受けたアプローチもあったのかもしれない。彼は続けた。

「いま泊まっているところだってそうさ。建物はまだいいとしても設備はひどい。トイレの便座や洗面の蛇口なんて、多少の金ですぐに交換できるのに、ずっと壊れたままだろう?みんなやる気がないんだよ」

パウロは「この国でお金を稼ぐのは簡単だ」とも話した。

「確かに、需要がありそうなサービスを外国から持ってくるだけでバカ売れするかもね。ただ、街中で『金をくれ』と言っている人たちは開業資金もないし、商売になりそうなものの情報もない。何も持ち合わせていないから結局、『金をくれ』と言うしかなく、負の世界から抜け出せない」と、僕は同調しつつも自分の意見を付け加えた。

この夜は、他にもいろんな話をした。僕は大した英語も話せないので、聞き役に回ることが多かったが。

翌朝6時過ぎ。パウロが旅立っていくのを僕は見送った。出会ってからまだ10日ほどしか経っていなかったが、もはや戦友のような存在になっていて、寂しさと不安がじわじわと募ってくるのが感じられた。

まだ部屋の外は真っ暗。去り際、パウロは「きっとまた会うだろう」と話していたが、実際はどうだか分からない。もしマリに入るタイミングが1日違いくらいになったら会えるかもしれない。でも、ここ西アフリカの地では、旅人にとって物事が予定調和で進んでくれる可能性はほぼない。それはこれまでの経験で分かっていた。

ただ、このままパウロと離れ離れになったままになるのも残念だった。また再会できる可能性を高めるためにも、まずはナイジェリアのビザを得られるのかどうか、僕自身めどをつけなければ――。しばらく停滞気味だった僕の西アフリカの旅、そして僕の心も、どうにか推進力がつけられようとしていた。

旅の情報

今回の宿

Maison d’Accueil
シングル 5泊(2018年12月28日朝時点) 650,000ギニアフラン(約7,900円) 朝食付き
設備:専用バスルーム、専用トイレ、Wi-Fiなし
予約方法:なし
行き方:ギニアのプロサッカークラブ「AS Kaloum Star」のメインスタジアム「Stade de la Mission」から幹線道路を西に歩いて2分。
その他:コナクリでは最安値圏の宿泊施設。エアコンなしで1泊130,000ギニアフランだったが、エアコン付きの部屋は宿泊料が上がる。道案内の際には「ミッション・カトリック」と言うと通じるときと通じないときがあるよう。

訪れた食事処

Restaurant Ignance Deen
注文品:スパゲッティ(初回訪問時) 20,000ギニアフラン(240円)
行き方:海に面した大きな病院「Hôpital Ignace Deen」の敷地の北東角にある。
その他:オーナーの男性はカメルーン出身で、そのおかげかこの国で接客に携わる人にしては珍しく、きちんとした英語を話していて、パウロや僕ともコミュニケーションが取れた。その気楽さもあって、毎日のように通っていた。オーナーは敬虔なクリスチャンのようで、日曜やクリスマスには礼拝に行っていて、昼間は開いていなかった。