西アフリカでは、日本ではまず体験できないような過酷な体験が多い。その最たるものが移動にまつわる苦労だろう。定員になるまで何時間、何日でも待たされる乗り合いタクシー、パンクや故障が頻発してまったく読めない移動時間、満員の通勤電車の不快さに匹敵するような窮屈すぎる車内、日本なら確実に廃車となっているボロボロの車体に空調が効かない車内、閉まらない窓から入ってくる土ぼこりが舞う車内……。
バイクタクシーで移動するときは、窮屈さこそなかったものの、何よりも命の危険にさらされた。ヘルメットをかぶることはなく、一歩間違えれば頭から地面に激突するかもしれなかった。また、土煙をもろにかぶり、車以上に体や荷物が汚れることを覚悟しなければならなかった。
どこを取っても何かの修行としか思えない、そんな移動にも徐々になじんできていた。それでも、シエラレオネからギニアに至るまでは、それらの修行の集大成ともいえる厳しい道のりが控えていた。
そして、目指していたギニアの地方都市・カンカンでは、あの男が待っていた。
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まずはシエラレオへの国境へ
ティワイ島に1泊した翌日、首都・フリータウンからの移動の際にも立ち寄ったボーに泊まった。ボーはシエラレオネ第2の街で、人口は20~30万人というものの、のんびりとした風情だった。そして1月6日の朝6時半ごろに宿を出て、そこから東のギニアとの国境近くの町・カイラフンを目指した。
この日は日曜で、移動手段は乗り合いバンしかないらしい。途中、この国第3の街・ケネマで車を乗り継ぐ必要があった。定員になるまで2時間弱ほど待って出発した。
車内は、ときには運転席にまで子どもが入って9人乗りになるなど、相変わらずの窮屈さ。それでもケネマまでは順調に進み、車を乗り換えてカイラフンを目指した。ケネマでは、ボーと同じように行き先によってターミナルが違っていて、現地でいう「オカダ」、つまりバイクタクシーをつかまえて移動した。
このケネマを午前中の11時30分過ぎに出発できたのは、西アフリカの旅にしては幸運だったと思う。カイラフンに向かう道は最初、舗装路だったが、途中からは悪路となり、耐える時間が続いた。
ケネマで乗った車は、今までの乗り合いバンでは遭遇しなかった弱点を持ち合わせていた。いったんエンジンをストップさせると、押しがけをしなければ再始動できなかったのだ。バッテリーがへたっていたのか、別の原因があったのか。運転に直接影響するような公共交通の車はさすがに見たことはなく、不安と隣り合わせ。運転手は車を止めるときには、下り坂に車を置くよう器用に工夫していた。
カイラフンが近づくと道がまたよくなったものの、今度は車がエンジン不調でストップ。しかし、ここでもラッキーは続いていた。エンジンはすぐに治り、カイラフンにたどり着いた。
こちらは、車がストップした際、進行方向に撮ったもの。首都から遠く離れたところでも延々と続く舗装路は、アジアや欧米では常識だが、西アフリカのここ数か国では珍しく、感動を覚えていた。
カイラフンでは、前の日、ティワイ島で一緒になった白人カップルに見せてもらったBradt(ブラド)のガイドブックに載っていたゲストハウスに向かう。部屋が空いていてすぐに入れた。この日はすべてがうまいこといき、日が傾く前に目的地までたどり着けた。
このゲストハウスに勤めている男の子、パトマムサは、僕が入る部屋を掃除しながら「安い給料で毎日働いているんだよ」と、僕に笑顔を見せながらさらりと不満を漏らしていた。なかなかの好青年そうなのに、恵まれない環境がもったいない。
持っている現地通貨が尽きようとしていて、節約しつつ食事できそうな店を探すついでに銀行も探したものの、クレジットカードでのキャッシングはできなさそうだった。オカダの乗り場があったので、国境までの行き方と相場を聞くと、ここではオカダ以外にアクセス手段はなく、運賃は70,000レオン(880円)ということだった。
移動のほうは何とかなりそうだったものの、厳しかったのはこの日の食事。日曜なので開いている店がごく限られていた。地元のレストランを見つけて、煮た豆にパスタが入った料理を食べると、日本食のようでおいしかった。
翌7日は、シエラレオネを去る日。宿は少年に支払いを済ませて出発した。オカダ乗り場に行くと、前日にも話したボス格らしき運転手が来てくれて、その人に乗せてもらうことになった。
バックパックをぐるぐる巻きにして、9時ぐらいに出発。薄曇りであまりいい天気ではなかった。
こちらは出発後まもなくの道。このあたりはまだ道路の幅が太め。ここから国境までは、かなりハードで細いダート道が続いた。
運転手はとにかく飛ばす。これはこけたら死ぬかも、と思いながら、必死にバイクにしがみついた。土ぼこりにまみれるのはいつものことだったが、空気がおいしく、風も気持ちよくて、時々現れる集落の子どもたちに手を振ると、向こうも返してくれて、思っていたよりも楽しい道のりだった。
やはり僕は二輪が好きだな、と思った。日本の僕の実家に置いたベスパは、もう1年以上もメンテナンスができていない。どうなっているだろうか。
最新鋭の体温計と古式ゆかしき渡し船
シエラレオネ側の国境に着くと、めずらしくヘルスチェックがあった。紙に個人データを記入したあと、イエローカードの提出を迫られ、黄熱の予防接種をしているか確認された。
そして、顔に当てて瞬時に測定する体温計で、僕の体温を測られた。非接触の体温計に出合ったのはこのときが初めてで、2019年初頭には広く普及しているとはいえなかった。どこのド田舎かという周りの風景とのギャップに驚くばかりで、限られた人数しか来ることがなさそうなこの国境には、実に似つかわしくない代物だった。
最新鋭らしきこの体温計の存在は、ここシエラレオネで2014年にエボラ出血熱が大流行したこととも関係しているのかもしれない。当時は、ギニア、リベリアとの間で国境封鎖を含む検疫対策が行われたという。舗装が行き届きつつあるこの国の幹線道路と同じく、他国か国際機関の援助が入っているのだろう。
やや寒い中をバイクで移動してきたからか、体温計は35.7度と低めの数値を示した。係官は「もっと温かい上着を着たほうがいい」とアドバイスをくれて、何事もなくヘルスチェックを終えた。
出国審査では、目が不自由なおじいさんがノロノロと作業していて、その後、税関の荷物チェックもあったものの、警戒していた賄賂の要求はなかった。
再びオカダへと乗り込み、このあたりの国境となっているモア川まで送ってもらえた。運転手は国境越えの手続き中、待ってくれていたり、バイクに結んだ荷物を見ていてくれたり、最後まで紳士的だった。
国境越えは、オールで漕ぐ渡船で。運賃は2,000レオン(30円)と格安で、黒人以外の外国人は僕1人だけだった。そして、オカダに身を揺られたあとの僕のシャツは、すでに赤土で汚れていた。
小舟ながら、小型のスクーターまで載っていた。
この国境は西アフリカの国境越えとは思えないほどのんびりしていて、ちょっとした休憩にもなって、楽しい一時だった。
ギニア側では、荷物をチェックする税関職員に荷物を開けられたものの、特に何もなかったので行こうとしたら、「20,000フランを支払え!」と言ってきた。「何の理由で?ビザ代はもう支払っているよ」と突っぱねると、通してくれた。
入国審査は若い警察官で、てきぱきと書類に記入、スタンプを押してくれて、賄賂の要求もなし。西アフリカの果てにいても、仕事のできる人はすぐに分かるものなんだな、と思わずにはいられなかった。
ギニアでの手探りでの移動
問題はここからだった。目指すはギニア東部の中心都市・カンカンだったが、南からはどうアクセスしたらよいのか分からない。
国境管理の建物を出ると、バイクタクシーの運転手がいた。しかし、フランス語しか通じなかった。通りかかった英語を話せる人に話を聞くと、この国境からは乗り合いタクシーのセットプラスは朝早くにしか出ていないという。バイクタクシーを拾って先を急ぐことにした。
ひとまず次の目的地は、ギニア南東部の国境近くにあり、カンカンと同じくギニアでは大都市の部類に入るゲケドゥという街。ギニアでのこれまでの経験から、この国に入ったら道路事情が悪いのでは、と思っていたら、案の定、舗装されていない激しい悪路で、路面はでこぼこ。バイクタクシーのほうが早くて快適そうだった。セダンの車で走破するのは、かなりの忍耐が必要だろう。
バイクタクシーには、ゲケドゥのセットプラス乗り場で降ろしてもらい、この日最後の目的地、キシドゥグへ。1時間弱の客待ちの時間を利用して、現地の人しか使わなさそうな食堂でお昼を取り、スマートフォンのSIMカードを前にギニアにいたときから持っていたものに入れ替えた。
ゲケドゥ行きのセットプラスは、出発前からタイヤがちびっているのが目につき、荷物ががっつりと詰め込まれていて、途中でパンクしなけりゃいいけどなあ、と思いながら乗り込んだ。
ゲケドゥからキシドゥグまでは幹線道路のはずなのに、街を出るとすぐ悪路に入った。荷物も人も満載の車が、遊園地のアトラクションのように激しくバウンドしながら時速10キロから15キロぐらいでノロノロと進んでいった。そもそも、車の速度計は壊れていて、針がびくともしないので何キロで走っているのかも不明だ。
延々と続くかにみえた悪路をようやく抜けて、ギニアにしては珍しい舗装道路に入り、何の時間のロスもなく目的地まで到達できるか、と思いはじめたところでトラブルが発生。タイヤがパンクし、ボンネットから何かが液漏れしてきた。
これは長引きそうだと思いながら、のんびりと見守っていると、先にパンクの修理が終わり、続いてボンネットのほうも直って1時間ほどで再出発。そこからはトラブルなく進み、17時20分にキシドゥグの中心部に着いた。
出発からは約4時間。両都市間は約80キロの道のりだった。途中、1時間の停車があったことを考えれば、時速25キロ以上は出ていたことになるが、それも途中から道路が舗装されていたからこそ。未舗装路はあいかわらず苦行だった。
散々、土に見舞われて
キシドゥグでは、ロンリープラネットに載っていた宿を目指して歩いた。しかし、その場所にあったのはバスターミナルで、英語を話せるというおじさんに聞くと「そのホテルは、バイクタクシーを使わなければ行けないほど離れている」という。
近くに別の宿があるというので、おじさんに案内してもらうと、看板も出ておらず、外観ではそれと全く分からない宿を案内してくれて、そこに泊まることにした。
長い移動の疲れを癒すべく、レストランを探したものの、たった1軒しか見つけられなかった。しかも、パッとしない見た目。キシドゥグは人口が10万人前後で、国内でも10番目までには位置するそれなりの街だが、これといった特色はなく、観光客とも縁遠そうなので、こんなものなのかもしれない。
晩ご飯は結局、道路わきで見つけた屋台飯になった。キャッサバの料理とジョロフライスの組み合わせだった。
翌8日、カンカンへと向かった。宿はバスターミナルまで5分もかからないところにあった。いい宿に案内してもらえたと思う。
この日のセットプラスは、乗り継ぎなしのカンカンまでの直行便。日本人の感覚なら当然うれしいポイントだが、ここギニアではそうとも限らない。何人が乗ってどんな道を走ることになるのかにより、快適さは異なっていて、ギニアでは不快極まりない移動となってしまうのが常のため、小刻みに休憩を挟めるほうが心身とも楽だった。
宿から朝7時30分ごろ出発したものの、タイミングが悪く、カンカン行きのセットプラスは全員そろって出発間際で、僕は次の車に回されてしまった。
出発まで1時間半ほど待っているうちに、屋根の上に荷物を載せていた人が足を踏み外して、右後方の窓ガラスを粉々に割ってしまった。
どうするのかなと思いながら見ていると、ごみ袋のような青い袋とビニールテープで手当てをしていて、応急処置なのか、恒久処置なのか、どちらともいえないようなものだった。おそらく、ひとたび直してしまえば、顧みられることはないのだろう。ここ数日で、最もアフリカらしさを感じた瞬間だった。
車は押しがけでしかエンジンがかからないという、2日前にも体験したような仕様。しかも、積み込んだスペアタイヤが、へたりにへたって新品と交換した後のタイヤのようにすり減っていて、それも不安材料になった。
この日は座席でいえば8人乗りの車に11人を車内に詰め込み、うち赤ちゃん1人。屋根上の荷台に3人の計14人という大所帯に加えて大荷物を積み込み、未舗装の悪路を延々と進むという厳しい行軍だった。
出発してから1分も経たないうちにエンジンが停止し、運転手がボンネットを開いて直す。それでも調子は上がらず、2回目の修理でようやく回復した。しかも運転手は街を出る前に道を間違えたりして、本当に大丈夫か、という状態からスタートした。
車内の窓という窓はすべて閉まらず、土煙が容赦なく車内にまで舞ってくる。しかも僕は2列目の3人がけシートに4人が詰めて座る席の一番右側をあてがわれ、窓側だったので、まともに土煙を浴び続けた。
乗り始めて数十分で服が赤土まみれになった。それでも、雨期ではなく雨が入り込んでこないだけ、まだマシだったのかもしれない。狭すぎて無理な体勢を続けていると、すぐにお尻が痛くなった。
運転手は車を途中で何度も止めては、ボンネットを開けて何かを確認している。悪路もあって遅々として進まず、日が明るいうちにカンカンまで着くことはなさそうだと、途中で諦めてしまった。その一方で、ローカルな景色をたくさん見ることもできて、少しばかり心が洗われる思いがした。
結局、カンカンのバスターミナルに着いたのは19時くらい。空はすっかり暗くなっていた。200キロもないような距離なのに、故障の修理で立ち往生した1時間弱も含めて出発から10時間もかかってしまっていた。
カンカンでは、事前に調べていた宿泊先の候補2つのうち、最初に行った方はレセプションに英語が通じず、料金も僕が調べていたものより大幅に値上げしていた。そのため、疲れた体を押して、もう一方の「Residence Universitaire De Kankan」へ。ここも値上がりしていたが、案内された部屋はホットシャワーが出たのでこの宿に泊まることに決めた。
この宿は、その名のとおりカンカン大学の学生を対象にした施設のようで、別名を「Hotel Uni」というらしい。
部屋には鏡があり、自分の顔を見ると泥だらけだった。この赤土は本当にイヤな存在で、何がイヤかというと、この赤土は洗濯してもなかなか取れない。強い洗浄力のある洗剤が必要だったが、僕はなるべくケミカルな洗剤は使いたくなかった。
キツい1日だったものの、移動にまつわるすべてが何かのイベントのようでもあった。これがギニアという国の醍醐味なのだろう。鏡の前で、思う存分遊んで泥だらけになった子どものような自分の顔を見ながら、この日の思い出に浸った。
願い通りに再会
久しぶりの温かいお湯に感動しながらシャワーを浴び、疲れた体を休めつつ、次に向かうマリの情報収集をしていると、ブラジル人のパウロから「明後日、マリのバマコに向かう」と連絡が入った。
「タイミングが合いそうだね」と返信した。パウロは西アフリカを1人旅していた男性で、僕はギニアビサウで出会い、ギニアの首都・コナクリまでを一緒に旅していた。マリの最新の治安情勢を測りかねていた僕にとって、旅仲間の存在は何よりの吉報だった。
翌9日はようやく移動のない日。落ち着いた1日を過ごせそうだった。この宿は1泊分しか取っていなかったが、快適だったのでもう1日延泊することに決めて、部屋のあった2階から1階に降りていくと、聞きなじんだ声がした。
声の主は、前日の夜、やり取りをしたばかりのパウロだった。
「ここに泊まっていたの?」
「ああ、そうだよ」
「いつから?」
「少し前から」
パウロは僕と別れたあと、ギニア中部の高原の町ダラバに滞在したが、居心地はそれほどよくなかったらしい。そこで、マリに入国するため、早めにカンカンまで移動してきたという。
再会にわきつつ、宿に用意されていた簡素な朝ご飯を食べた。その後しばらくは別々に用事を済ませて、宿に戻ってきてから昼ご飯を求めて一緒に出かけた。
この日の食事は、自分の食器を持っていったのが特徴で、屋台飯を自分の食器に入れてもらうというスタイルだった。そして、2人で宿の食堂で食べた。このあと少し街を歩き、パウロが「疲れた」というので宿に戻った。
そこからは部屋で休んだり、夕方には1人で出かけたり。宿から見えるカンカンの街は赤茶けていて、国内人口は4番目くらいに位置するらしいが、とてもそうとは思えなかった。
昼間は止まっている宿の電気も18時にはつき、快適な時間を過ごした。翌朝はパウロとともに6時30分に出発することを決めたので、適当な時間に寝ようとした。
しかし、マリがどんな国なのか、そして緊迫の度を増すマリの国内情勢の中で、どの範囲まで旅することができるのかが分からず、なかなか眠りに就けなかった。
旅の情報
今回の宿
Mopama Guest House
シングルルーム 1泊 80,000レオン(約1,000円)
設備:専用バスルーム(バケツシャワー)、専用トイレ
予約方法:なし
行き方:カイラフンのセントラルモスクから北東に歩いて3分。
その他:開放的な平屋のゲストハウスで、この宿に勤める少年が印象に残った。電気は自家発電があるものの、ほとんどの時間で使えなかった。
L’hotel doussou CONDE
シングルルーム 1泊 80,000ギニアフラン(970円)
設備:専用バスルーム(バケツシャワー)、専用トイレ
予約方法:なし
行き方:キシドゥグのセットプラスのターミナルから幹線道路を北に歩いて7分。
その他:バスターミナルにいたおじさんに案内してもらった宿。目印、看板は何もなく、Googleマップはもちろん、西アフリカを旅行する人の助けとなるMaps.meやiOverlanderなどの地図アプリにも載っていないので、現地の人に場所を聞く必要がありそう。電気は23時まで動いていて、消灯時間が決まっている寮のようだった。
Residence Universitaire De Kankan(Hotel Uni)
シングルルーム 200,000ギニアフラン(約2,400円)
設備:専用バスルーム、専用トイレ エアコン付きの部屋もあり、1泊250,000ギニアフラン(約3,000円)
行き方:カンカン大学の北東を走る道路沿いにある。
その他:エアコン付きの部屋はホットシャワーが出て、扇風機の部屋はホットシャワーが出る部屋と出ない部屋がある。電気は18時から翌朝6時までの夜間のみ。このレベルの宿でもGoogleマップには載っておらず、Maps.meでかろうじて確認できる。
旅する40代男の視点からみたシエラレオネ
入国する前までは紛争ダイヤモンドのイメージが強かった国で、内戦後の20年弱で経済がどこまで回復しているのか案じていた。実際に訪れてみると、ギニアよりも道路整備は進んでいて、電力事情の悪さも、フリータウンではさほど気にならなかった。
この国の前に訪れた西隣のギニアや、さらにその隣のギニアビサウと違って、この国には経済の、というよりそこに住む人たちの勢いやエネルギーを感じた。
しかし、長距離移動が厳しい状況なのは相変わらずだった。思い通りに着けることの方が珍しい時間感覚、満足に身じろぎできない狭い車内、頻発する車両トラブル、賄賂を求めてチェックポイントで待ち構えている官憲と、三重苦、いや、もっと多くの労苦があった。
ビジネスで訪れるなら事情はまた違うだろうが、単に観光の旅行先として考えるなら、40代前半の僕でも十分に苦しかったので、年配の人にはまったくお勧めできない。かといって、現地ツアーが簡単に手配できたり自分で組めたりするわけでもない。ピンポイントに首都だけ行くのであれば、1人旅でも可能だろうが、僕が訪れたような自然を目指していくなら、日本からのツアーに参加するのが最も簡単で楽しいのではないかと思う。
それか、自前で調達した自転車やオートバイでこの国を颯爽と駆け抜けるくらい、突きぬけているならば、また話は違うのだろう。
ここシエラレオネでは、西アフリカではめずらしく、個人の日本人旅行者に出会ったが、その人もある意味で突きぬけた人だった。定職を持ちながら短い休みを利用して外国を貧乏旅行する、いわゆるリーマンパッカーが訪れるには難易度が高い国のド田舎を、1人で旅していたくらいだから、うかがい知れる。その一方で、旅のために仕事を辞するわけではなく、その人なりの限界点も感じられた。
話が若干それた。そんなわけで、シエラレオネは、セネガルを除く他の西アフリカ諸国に負けず劣らず、旅しにくい国だと思う。物価に関してもそれはいえて、まともな宿泊先やレストランだと日本と同じレベルでお金がかかりそう。
ただ、英語が通じやすいところは、他の言語圏の国々と比べて優位なところ。フランス語のギニア、ポルトガル語のギニアビサウよりは、まだこの国を旅するモチベーションは湧いてくるという印象だった。
旅する40代男の視点からみたギニア
ギニアは結局、首都のコナクリに滞在しただけで、それ以外は長距離移動しか経験していない。
その前提で話をすると、ギニアはとにかく貧しさを感じた。都市間を結ぶ道路でさえガタガタという状況、これという観光地がない国情、鉱業以外に特筆する産業はなく年10%を超える高いインフレ率など。
僕がギニアを旅しているときに様々な場面で感じたような貧しさを、外国からこの国に来た人間として、これも1つの経験といった形であるがままに捉えられるならば、この国を旅する意義は大きいかもしれない。
老若男女を問わず、ただ観光客として楽しみたいのであれば、この国には来るべきではないと僕は思う。かろうじて西のコートジボワールとの国境付近に世界遺産が1つあるものの、見どころが多いとはいえない。
ギニアで不便だったのは通貨で、旧フランス植民地だった他の西アフリカ諸国で共通通貨として使われているセーファーフランではなく、ギニア・フランが採用されていた。これには、ギニアが独立に至った経緯が色濃く反映されているようで、ギニアがフランスと激しく対立しつつ、独立を果たしたことが、かなり前の1958年のことながら、今でも影響しているようにも思われる。
欧州のユーロのように、国が違っても通用する共通通貨はとても使い勝手がよく、僕のような諸国放浪の旅人にはちょうどよかった。
ただ、一国の経済という視点からは、共通通貨の良し悪しは分かれるかもしれない。特に経済が弱い国にとっては、経済の強い国からの影響をもろに受けて、ますます経済格差が広がるかもしれないことは、ユーロの例からも分かる。
セーファーフランには、ユーロとは異なる点もある。細かい説明は省くものの、セーファーフランを採用すると、経済的にはフランスの影響を受け入れ続け、ある意味で隷属下に置かれるのに等しくなる。西アフリカの15か国が加盟する西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)が新たな単一通貨を作る動きがあり、2020年にも新通貨「ECO」(エコ)が導入される予定だった。しかし、新型コロナウイルス感染症の影響もあり、2027年まで延期となった。
ギニアでは、僕が旅してから3年後の2021年9月に、当時の大統領が拘束されて軍事政権が樹立されるクーデターが発生した。その結果、2022年にはECOWASから様々な経済制裁が科された。ギニアでは政情が安定せず、国民がますます貧するという悪循環が続いているように思える。はたして新通貨がお目見えする予定の2027年までに、ギニアの経済状況は好転しているのだろうか。