西アフリカの内陸国、マリは西アフリカにしては珍しく、観光の見どころが満載の国だ。かつて「黄金の都」と呼ばれた古都のトンブクトゥ、泥のモスクと遠方からも人が集う月曜市が有名なジェンネ、ドゴン族の居住地域となっているバンディアガラの断崖、サハラ交易で栄えたソンガイ帝国の首都があったガオなど。
ただ、僕が訪れた2019年、マリ国内の治安情勢はよくなく、どこまでたどり着けるのかは現地で確認するまで分からなかった。
ひとまず、ギニアの東部の都市・カンカンで改めて合流したブラジル人のパウロとマリの首都・バマコに向かい、そこに滞在しながらどこまで行くかを判断することにした。
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マリの首都は意外と平穏
パウロとともに、ギニアに最初にやってきたのが2018年の12月23日。1週間ほど首都のコナクリで過ごし、2人ともマリのビザを手に入れていた。
年末年始を挟んで、パウロはギニア国内の北のほうへ向かい、僕は南下してシエラレオネに入った。そして僕のほうは1月7日にギニアに再入国して北上し、カンカンで図らずも、同じ宿に泊まったパウロと再会していた。
そして10日には、2泊したカンカンに別れを告げて、マリへと向かった。
マリは残念ながら国内の治安情勢がよくなく、日本をはじめ各国政府から渡航を危険視されていた。特にトンブクトゥがある北部は政府の実効支配が及んでいないこともあってか、どの国の政府も退避を呼びかけていた。
日本・外務省の安全情報
イギリス政府の安全情報
オーストラリア政府の安全情報
2019年1月現在のそれぞれの国の政府が出していた安全情報の渡航マップ。赤で示された地域からは退避するよう呼びかけられていた。それでも、ネットで調べていると2年前の2017年にはモプティやジェンネを訪れていた旅行者がいた。
マリに向けて出発した9日朝、7時前にはバスターミナルに着いた。巡り合わせがよかったのか、客がすぐにそろって30分後には出発した。
ここギニアでは、乗り合いバンは「セットプラス」(定員7人の乗り物の意味)とはいうものの、どの地方でも9~10人が乗って車内は窮屈。僕は運転手の隣に座り、右隣にはかなり背の高い男性が座った。内陸の朝はかなり寒く、このあたりでは珍しく窓を閉めていて、さらには車内暖房がついたりした。
11時30分にはギニア側の国境を通過。マリ側の国境では、やる気のなさそうな女性の係官とパウロが入国スタンプを押す場所を巡ってやり取りして、係官は僕に対しては何もリクエストを聞かずにポンとスタンプを押し、こちらにパスポートを返す段になって「金をくれ」とあからさまに求めてきた。なかなか食えない人たちだ。
カンカンからバマコまでの道路の路面状態は悪いのではないかと心配していたものの、出発から到着までアスファルトの舗装路で快適だった。うたたねも挟みつつ、首都バマコのターミナルには14時20分に到着した。
そこからは、パウロとともにタクシーで目星をつけていた宿「The Sleeping Camel」(スリーピングキャメル)へ。この宿はバマコ市内でもダウンタウンではなく、どちらかといえば外れのほうにあるものの、アメリカ人が経営していてしっかりしているという評判だった。ドイツ大使館のすぐ隣にあり、場所が分かりやすく、タクシーの運転手も迷わずに向かってくれた。
運よくドミトリーが空いていたので、そこに泊まることに。ドミトリーは、セネガルの首都・ダカールの日本人宿「シェ山田」で妻のゆっきーと別れたあとに利用して以来で、この旅ではまだ2回目。チームシマでの2人旅が長かったせいかまだ少なかった。
ドミトリーでは、パウロがギニアで知り合っていた、イギリス人のクリスが先客として滞在していた。しかもクリスは、コナクリで僕が「Maison d’Accueil」に9連泊したあと、そこに滑り込んで同じ部屋に泊まっていたらしい。偶然もここまでくると必然のように思えてくる。
ドミトリーで一息ついて麻の白いシャツを確認すると、相変わらず赤土でドロドロに汚れていた。
こちらは、スリーピングキャメルを外から見た様子。右に見える建物が本館で、左奥のレストランのエリアを通り抜けるとドミトリーのある平屋の建物があった。
こちらは出入り口の方向にある光景で、ポップなラクダの絵などが色鮮やかに描かれていた。
「僕たちはジェンネやモプティに行きたいけど、治安情勢はどうかな?交通手段はある?」
たまたま居合わせた宿のオーナーに尋ねてみた。
「現地住民は普通に移動しているし、アクセスしようと思えばできる。旅行をアレンジしてくれる会社もあるけど、個人的にはお勧めしない。安全を保障できない。リスクを取る必要があるよ。もっと北のトンブクトゥは危険で、残念ながら行けない。逆に、バマコから日帰りで行ける街なら大丈夫だ」
そういえば、宿に向かったときのタクシーの運転手も「モプティにもジェンネにも、危険だから行くな」と言われていた。迷いどころだった。
宿に併設されたレストランで遅い昼ご飯にパスタを食べたあと、パウロ、クリスと3人で宿の周りを散歩しに出かけた。
バマコは街をニジェール川が2分していて、スリーピングキャメルは川の右岸、つまり南側にある。本流だけで5か国にまたがるなど、広大な流域を誇るニジェール川については別の機会に触れたい。
ニジェール川に架かる橋を途中まで歩いた。先にこの街に到着していたクリスの話を聞くと、ダウンタウンは川の北側にあり、宿の周りよりも発展しているようだ。バマコはバイクや車が多く、活気という点ではどことなく東南アジアの大都市を連想させた。
さらにクリスの話は続いたが、僕は橋の上から眺められる雄大な夕日にしばらく心を奪われていた。
散歩のあとは、宿に戻ってゆっくりした。日本円にして1泊1,000円かかるかどうかというのに、この宿ではホットシャワーが出るのがありがたかった。電気も水道も24時間、途切れることがない。セネガルのダカールを出て以来、同価格帯かそれより高くても、ここまで設備の整った宿はなかった。
「ネットもそこそこ速いし、部屋も清潔だし、さすがはアメリカ人が経営しているだけある」
パウロはこの宿を激賞する一方で、「もう西アフリカはたくさんだ」と胸の内を語った。マリを出てモロッコ経由でスペインに向かい、その後は故郷に近い南米のエクアドルに向かうという。
僕は、この国でジェンネやドゴン族が住むエリアに行くかどうか、まだ考えあぐねていた。
バマコで立ち往生
翌11日から、朝は毎日、宿のレストランでオムレツを食べるのがパウロと僕の日課になった。
こちらがそのオムレツ。この日、朝ご飯を終えると僕はパウロと2人でニジェール川の対岸へ。前日は途中まで行った橋を歩いて渡ってダウンタウンを訪れてみると、確かに宿の周りとは違って中高層の建物が集まっていて、さすがは首都の中心部と思わせた。
そしてこの日、僕はコートジボワール大使館に面会の予約を入れていた。カンカンにいるときに電子ビザ(e-VISA)の申請をしていて、バマコの大使館をビザの受け取り場所に指定していた。
大使館職員の女性――僕は勝手にマダムと呼んでいた――が応対してくれた。予約した時間帯より15分ほど遅れたが、何の問題もなかった。このあたりの緩さはやはりアフリカだ。
これからの行程を考えると、どうしてもマルチプル(複数回入国可能)の3か月有効なビザがほしかったので、スマホでグーグル翻訳を使いながら抜かりなく確認した。
一方のマダムは、滞在期間や滞在予定都市を聞いてきた。しまいには、僕には妻がいながら子どもを1人も授かっていないことを追及された。しかし、それはビザの取得には何の関係もない質問で、セクハラまがいだなと思いながら適当に受け答えした。このマダムは、年齢でいえば僕と同年代くらいで、英語が不自由なことを詫びてくるような、謙虚そうな人だっただけに、家族に関する質問の厳しさは解せなかった。すべての質問が終わり、ビザが発給されることになった。
「ビザができるのは5日後の16日15時になる」
「それじゃあ遅すぎる。1日早めてくれ」
「分かったわ」。こちらの要求を伝えると、マダムにあっさりと受け入れてもらえた。
大使館を出てからは、宿まで歩いて帰った。もう一度ダウンタウンに立ち寄り、にぎわいと都会さと街の落ち着きのバランスがよく感じた。スーパーマーケットを探したけれど、1軒もなかった。
イスラム教の寺院も見かけた。この日は金曜で、礼拝の時間になると寺院には入りきれないほどの男性たちがわらわらとやってきて、周辺道路にまで広がって祈りをささげていた。その数は1,000人を超えていただろうか、空気感に圧倒されて写真を撮るのはためらわれたため、上にアップした写真はその翌日に撮ったもの。
宿に戻って休憩したあとは、前日と同じくパウロ、クリスと3人で徒歩30分ほどのスーパーにおでかけ。
途中でロバの行軍を見かけた。ゆっきーとともに日本に帰国したチームシマのチームメイト、ロバ太郎は元気にしているだろうか。在りし日のロバ太郎の姿を懐かしんでいた。
――すると、日本では「ロバ太郎失踪事件簿」なるものが繰り広げられていたらしい。ゆっきーが近畿地方から東京の実家に飛行機で戻った際、機内にロバ太郎を忘れてしまい、真っ青になりながら行方を捜したとか。スカイマークに問い合わせて存在を確認でき、自宅まで送ってもらったそうだ。
一方の僕は平穏そのものの日々。翌12日は、宿のレストランでパソコン作業をしつつゆっくりと1日を過ごした。
こちらは、毎日のように食べていたパスタ。チーズがたっぷりかかっていておいしかった。
宿では夜、コンサートが開かれた。2部構成で、1部は民俗音楽でどんなものか興味があったので、途中から少しのぞくと、太鼓とダンスの叙情的な舞台が繰り広げられていた。
背の高い人形を使ったパフォーマンスも。これがいったいどういう芸術なのか、知識のなかったことが残念だった。
客は100~200人ほど。パウロやクリスは「これじゃあテロリストの標的になるな」と冗談交じりに話していた。これだけ多くの人がいても、白人が多めで黒人連れの人が多く、見渡す限りアジア人は僕1人だけだったのが妙に印象に残った。
2部のほうはエレクトリックギターのバンド演奏で、あまり関心がなかったこともあり、部屋に戻った。
ビザ取りに専念
翌13日になると、いよいよマリ国内で遠出するかどうかの決断を迫られてきた。というのも、パウロは19日にはもうこの国を発つことに決めていて、旅仲間とともに観光地を訪れるタイミングはなくなろうとしていたからだった。
この日は夕方まで宿でインターネットの作業をして、そこからパウロの買い物に付きあう形で、彼とともに橋を歩いて渡ってダウンタウンへ。
イスラム教国では金曜が休日の国も多いはずだが、ここマリはそうではないらしい。日曜は多くの店が閉まっていて、彼の目的は果たせなかった。
橋を再び渡って、宿から南に10分余りのところで見つけていたスーパーに行ったものの、やはり休み。そこで、西アフリカでは半ば定番となったガソリンスタンドに行くと開いていて、食料品などを買い求めた。
帰りにこの日もロバを見かけた。バマコではロバとの遭遇率が高かった。
幹線道路のわきには廃自動車の姿も。このあたり、国は変わっても同じ部分もある。モーリタニアで初めて目にしたときにはぎょっとした光景も、今や当たり前になった。西アフリカで出くわす物事に新鮮さが失われてしまっていることを、ひしひしと実感した。
夜は旅仲間と宿でゆっくりした。ここより北に行くのはやめにしよう、とは誰も言わずとも、暗黙の了解のような空気感になってきた。どうやら皆それぞれ、この国では観光地に行くのを諦めて、ここバマコから別の国へと発つ準備を進めているようだった。
僕は翌14日から、ビザ取りに専念する方針に切り替えた。コートジボワールのほか、この国ではもう1つ、マリと長い距離で国境を接するブルキナファソのビザを取りたかった。
特に観光するものもない首都で、気になるのはビザの進み具合。コートジボワール大使館にビザを取りにいくのは15日の約束になっていたが、朝ご飯をパウロとともに食べていると、大使館のマダムから宿まで電話がかかってきた。
どうやら、僕が何かを忘れているので大使館まで来てほしい、ということらしいが、相手の英語が不自由なためよく分からない。ビザの申請用紙を書いた記憶がなかったので、おそらく記入を忘れたんだろうな、と思いながら、15時に行くと告げた。
少し宿を出るのが遅れて、急ぎ足で大通りに入った。いつも中央分離帯で見かけるモニュメントには、ウルトラマンシリーズにでも出てきそうな怪獣がサッカーをやっているようにしか見えない、底知れない不気味さがあった。そして、そのモニュメントを目印にするかのように、日中は物売りの姿が絶えなかった。
結局、途中まで歩いてそこからはタクシーで大使館へ。ひょっとしたら、この日のうちにビザを発給してくれるかも……という僕の淡い期待は見事に裏切られ、この日はただ単に申請用紙を書かされただけで、ビザの受け取りは翌日に変わりはなかった。
ただ、この大使館のマダムはまったく横柄さがなく、人柄が良さそうなのが垣間見えて救われた思いになった。
帰りは宿まで歩くことに。ダウンタウンの大通りに面した長い建物。
ラウンドアバウトには象の像がまつられていた。
やや古めかしい建物と特大の広告。この国には珍しく、着飾った女性たちが歩く姿もあった。
ニジェール川の橋へと向かう道は、夕方ということもあって非常に混んでいた。車の横を縫ってバイクが飛ばしていく構図はアジアでもよく見かける光景で、掘割の雰囲気を持った道路に橋が架かる光景は日本でよく目にする。いずれもどことなく既視感があった。
バマコは車やバイクが多くて空気が悪いのは残念だが、僕のようなアジア系の外国人観光客でも入りやすそうな店もぽつぽつあり、街の活気もまあまあある。商売っ気なしに純粋に声をかけてくる人もいたりして、この街がさらに気に入った。
宿に帰ってからは、遅めの昼ご飯。これまではパスタばかりだったので、趣向を変えて牛肉とご飯の郷土料理を注文した。食べやすい味だったものの、ボリュームは圧倒的に不足していて、ドミトリーの部屋に戻ってから熟しきったバナナを食べてしのいだ。
こちらは、スリーピングキャメルに放し飼いされていたウサギ。レストランのゾーンにもちょくちょく顔を出していた。
もう1つ、この日の特筆は、現地の洗浄力が強い洗剤を買ってきて使ってみると、泥だらけだったシャツが元に近い白さを取り戻したこと。西アフリカでは泥汚れを落とす洗剤が必須かもしれない。
この日、ドミトリーでは、30歳くらいの白人男性が新たに来た。スイス人のラファエルで、到着初日から上半身裸で横になりつつネットをしてくつろいでいるような、個性的な人物がまた1人加わった。
コートジボワールのビザがようやく手に入る15日は、昼下がりからまた大使館まで歩いて出かけた。片道1時間半を歩きとおし、約束の15時より少し前に着いた。
そしてようやく、3か月有効なマルチビザの貼られたパスポートを手にした。
ビザの申請時には、セネガルで撮った写真を渡していたが、ビザに使われたのはパスポートに貼られた写真と同じもの。「添付してあった写真は痩せて鋭い目をしていて、どこか犯罪者みたい。パスポートの写真のほうがよほどいいから、こちらを使わせてもらったわよ」とマダム。最後までいい人だった。
コートジボワール大使館への行き来の際には、ロードサイドで家具や生活用品を売っていた。しかし、暑さもあってかほとんど人通りがなく、これでどれだけの売り上げがあるのかは謎だ。
こちらは3階以上に窓が入っておらず、建てかけとみられる建物。コートジボワール大使館のあるあたりは区画整理されて、富裕層が多く住むエリアのようで、瀟洒な雰囲気もあった。大使館が入る建物の隣には高級ホテル「ラディソン・ブル」があり、2015年11月にはこのホテルでテロ事件が発生して、約20人が犠牲者になっていた。しかし、僕が訪れたときにはそんな危険はみじんも感じさせなかった。
こちらは、ダウンタウンに入ってから見かけたお店。やはり大使館のあるエリアとは雰囲気が大きく違っていた。この日も宿へと無事に帰った。
もともとこの15日は宿泊予約で満杯ということで、オーナーからは「泊まれないかもしれない」と言われていたが、イギリス人のクリスと前日、来たばかりの男性がこの日、ベッドごと本館へと移っていって、何とかしのいだようだ。ドミトリーの部屋に戻るとガランとしていて、新たな客は誰も来なかった。そして、翌日にはこの部屋に客が戻ってきた。あの移動はいったい何だったんだろうと思わせた。
結局、マリでは首都バマコに留まり、どこも観光せず、これから滞在する予定の国のビザを取るだけになってしまった。しかし、この宿ではドミトリーに泊まり、パウロをはじめ旅慣れた人たちと交遊したりして、少しばかり学生時代の1人旅に戻ったような、懐かしい気分になった。それとともに、旅人にとっても過酷な西アフリカの環境をものともしない、力強い旅仲間たちに囲まれて居心地の良さを感じたりもしていた。
もちろん、この環境は束の間のことだということはよく知っている。だからこそ、この貴重な時間を惜しみながら、じっくりと味わっていた。
旅の情報
今回の宿
The Sleeping Camel
ドミトリー 1泊 5,000セーファーフラン(950円)
設備:共用バスルーム、共用トイレ
予約方法:なし
行き方:以前はドイツ大使館の隣にあったが、2019年夏に場所を南に400メートルほど移転している。真贋は定かではないが、夜によくパーティーをしていたため、ドイツ大使館からクレームが入っていたという話を聞いた。
その他:宿のオーナーはフレンドリーな人で、現地での交友関係も広く、よくパーティーなどを開いていた。ここバマコでは蚊が多く、レストラン・カフェなどのオープンスペースでは、「蚊取りラケット」のバチっという音がよく響いていた。これは、通電ボタンを押しながらラケットを振り回すと電気によって殺虫できるという代物。ここ数年は日本でもよく見かけるようになったが、性能としては、バマコで使われていたもののほうが強力だった気がしている。
訪れた食事処
The Sleeping Camel(レストラン・カフェ)
注文品:(ほぼ毎朝)オムレツセット、フレンチプレスのコーヒー 2,500セーファー(480円)
行き方:上と同じ。
その他:宿に併設されたレストランで、朝はオムレツセット、昼か夜にもう1食というパターンで食事していた。価格は現地の水準からすれば高い。最初はスパゲティ(3,000セーファー、570円)が多かったが、最後にはハンバーガーとコーラ(4,000セーファー、760円)へと移っていった。