コートジボワール その1 西アフリカ随一の大都会アビジャンにおののく

最初に断っておくと、今回は紹介できる写真がほとんどない。コートジボワールの最大都市・アビジャンでこの旅最大の、予期していなかった波乱が起きたことが原因となった。それはおいおい語っていくとして、この国に着いてすぐに驚かされたのは、僕の想像のはるか上をいくアビジャンの大都会ぶりだった。

林立するビル群をやや離れたところから眺めていると、ここが西アフリカというよりは、東南アジアの大都市にでもいるような気分になった。ヨーロッパの洗練され、整然とした大都市とはまた違う、猥雑さと粗さを多分に含んだ街の姿は、どこかで見たような懐かしさを感じさせてくれるようでもあった。

ただ、街を歩いたり移動したりしていると、ここはやはり西アフリカであり、東南アジアとは全く違うのだ、という思いを実感することになった。

なんとか目的地へ

10日ほど滞在したマリの首都・バマコを2019年1月19日夕、長距離バスで出発して、この国を出国したのが翌日の未明。続いて、コートジボワール側の国境には午前3時30分前に到着した。バスの乗客のうち、僕1人だけ個別に呼ばれて入国審査を受け、イエローカード(黄熱の予防接種証明書)を提示して入国スタンプをもらった。他の乗客は全員現地の人たちのようで、その人たちの審査を待って4時20分ごろバスが動き出し、再び眠りについた。

コートジボワールに入ってからは、アビジャンを目指してずっと南に向かった。軍、警察、憲兵隊のいずれか分からないもののチェックポイントが多く、なかなか先に進まない。昼の12時30分ごろになってようやく、中継地点のブアケに着き、結構長めの休憩を取った。この日の目的地、アビジャンにはまだ日が明るいうちに着くと当初は思っていたが、この調子では怪しそうだと思うようになった。

それから約2時間後、ヤムスクロに到着。この街は1983年から首都になっている。ただ、車窓から見る限りでは、数万人から数十万人規模の地方都市のようだった。当時の大統領が自分の出身地に利益を誘導しようとして首都を移転したものの、うまくいっていないのが実情のようだ。

それ以降、バスは移動のスピードを速めたのか、アビジャンのバスターミナルには17時30分ごろに到着。何とか日暮れ前に間に合った。

この日、泊まろうとしていたのはアビジャン南部のトレッシュビル(Treichville)と呼ばれる地区で、バスが到着したのは真逆の北ターミナル(Gare Nord)。目的地までかなり距離があった。長距離移動でかなり疲れていたこともあり、タクシーに乗ってトレッシュビルへ向かうことにした。

しかし、タクシーの運転手に渡したメモを勘違いされて、まったく別のホテルがある地区に連れていかれてしまった。

「ここじゃない。トレッシュビルのこのホテルに連れていってくれって言ったでしょ?そこに行ってください」

そう話して、何とかトレッシュビルまでいって運んでもらった。降りるときには、「あなたのミスだから余分なお金は払わない」と言って運賃を渡すと、運転手は腹を立てていた。しかし、そもそもバスターミナルで声をかけられた時点で相場より高いお金をぼられているのは承知の上で払う約束をしているので、さらに上乗せして払う理由もなかった。

運転手を背に、荷物を転がしながらホテルを探した。最初に目指したのは、バックパッカーに知れた安宿「Hotel Madani」。現地の人に聞きつつたどり着いたら、見るからにボロボロなのが分かる建物だった。

そこで、ここに泊まるのは止めて、別に目をつけていた宿に向かうことに。トレッシュビルはアビジャンの中では下町という位置づけで、そんなこともあってか人出が多かった。大荷物を抱えた東洋人はどうしても目立ってしまって、ジロジロと視線を浴びながら移動した。そして、ようやくこの日の目的の宿「HOTEL LE SUCCES」に着いた。

部屋を見せてもらうと、1階は暗く汚かったものの、次に見た2階はまあまあきれいそうだったので、この宿にひとまず2泊することに。散歩がてらトレッシュビルの街を歩いた。外は夕暮れ時になってきていて、電気は通じているものの、明かりが少なく街並みはかなり暗かった。マリに滞在していたときにネットで調べていたベトナム料理店まで楽しみにして向かったが、残念ながら閉まっていたので、宿の近くの食堂でカレーのようなおかずとご飯のセットを食べて宿に戻った。丸1日続いた移動の疲れもあったのか、電気をつけたまま眠ってしまった。

大都会のボートクルーズ

アビジャンに着いて2日目から、本格的に動き始めた。まずは、コートジボワールの西隣の国、リベリアを次に行く国に決め、リベリア大使館に向かってビザを手に入れることに。

アビジャンは港湾都市で、中心部のプラトー(Plateau)と呼ばれる地区と他の地区を結ぶ渡船が充実している。リベリア大使館はプラトーから東側の湾を挟んだココディ(Cocody)という地区にあり、僕は徒歩と渡船で大使館を目指すことにした。

プラトーまで橋で歩いていき、そこから渡船を使った。写真は、トレッシュビルから橋を渡っていくときに見たプラトーのビル群の景色。アフリカ大陸に入ってから訪れたどの街よりも高層ビルの集積が進んでいそうな感もあり、あまりの都会さにちょっと面食らった。バンコクやクアラルンプールなど、東南アジアの大都会にでも来ているような、そんな錯覚を覚えた。

プラトーの渡船乗り場に着くと、思っていた以上に海上の路線があるようでさらに面食らった。さらには、黒人の男性が仏教のお経を読んできて、「池田大作先生はすごいのか?」と僕に聞いてきた。どうやら、熱心な創価学会の信者のようだ。日本発祥の宗教がこんなところに、ということでまた驚いた。

タイミングよくココディの方面に向かう渡船がやってきて、それに乗って移動した。10分ほどしてココディ地区の最南端、ブロックオース(Blockhauss)というエリアで船を降りた。そこからの街並みは、プラトーやトレッシュビルとはまた違った泥臭さを残していて、キューバの首都ハバナの郊外で見かけた2、3階建ての古めかしいコンクリート住宅がひしめく姿を思い起こさせた。

少しの間、といっても20分ほど歩いて大使館にたどり着き、建物の中に入ってスーツ姿の男性にビザの申請用紙をもらい、別の私服の男性に申請料を支払い、パスポートを預けた。翌日の14時に来ればパスポートを受け取れるらしい。

この私服の男性が「外で話をしよう」と言い出して、先に建物を出て待っていると、「追加でお金をくれたら、今日中にビザを用意できるぞ」と勧められた。もし応じれば、追加分のお金はおそらく、この男性の懐に入っていくのだろう。

「無料じゃないのか?追加料金がいるのか?」
「そうだ」
「それなら明日でいいよ」

僕はそう言って大使館を辞して、その足でさらに30分ほど歩いて携帯電話会社のOrangeに足を運んだ。目的はもちろんスマートフォンのSIMカードを買うため。しかし、パスポートがないと手続きできないらしく、残念ながら翌日に持ち越しに。どうやら訪れる順番を間違えたようだ。大使館に向かう前にSIMカードを求めていればよかった。宿にはWi-Fiが通じておらず、どうにかして早く通信手段を確保したかったのだが。残念だった。

おなかが減っていたこともあり、歩いていて目に付いたバーガーキングに入った。ハンバーガーとナゲットで3,500セーファ(670円)と、前日の夕食の2倍以上もしたが、その分、2時間ほどWi-Fiを使わせてもらった。しかも、バーガーキングにいる間に通り雨が降ってきて、雨宿りまでできた。

雨を見たのは、いつぶりだろうか。気になって思い返してみると、モロッコを旅していたときのエッサウィラ以来、約2か月ぶりだった。日本ではありえない間隔だと思うと、今さらながら長旅をしている実感がわいた。

14時の船でプラトーまで戻り、中心部をしばらく散歩した。ビル群の中でもひときわ目立つ、アフリカ開発銀行の本部を見つけた。東京にもありそうな、巨大で古さを感じさせない建物は、中年バックパッカーの僕にはまぶしすぎる存在に感じた。ビザを申請するための証明写真を撮ってくれる店を見つけて、8枚入りの写真を作ってもらって、この日の用事はすべて終わった。

さらに歩いてトレッシュビルに戻り、前日も訪れたベトナム料理店を再び訪れると、張り紙が見えた。フランス語で書かれていた。しばらく休業していて2月4日から営業を再開するとのこと。これではおそらく、滞在中に寄れる機会はないだろう。ベトナム料理が食べられるのを楽しみにしていただけに、かなり落胆した。

残念が続いたこの日、いったん宿に帰り、宿からさらに南に行ったところにショッピングモールがあったので出かけた。だいぶ歩き疲れていたが、気力を振り絞っていくと、そこには大型スーパーのカルフールが入っていた。これも、先の雨と同じくモロッコ以来だろうか。フランス資本の大手チェーンが出店していることに、アビジャンの都市としての実力を垣間見た気がした。残念と驚きが繰り返される1日だった。

多少の買い物をして、再び宿に帰りつつ、ご飯屋を探した。前日の食堂がよかったものの、いくら探しても見つからず、少し離れたセネガル料理屋のような店に行って、ヤッサ・プレを頼んだ。相変わらず日本人に受け入れられやすい、辛くなく食べやすい料理だったものの、この店のものは、セネガルで食べた味には遠く及ばなかった。

ここでもビザ取りを果たす

翌日、午前中は宿でのんびりしてからリベリア大使館へと向かった。歩いて30分ほどで前日と同じプラトーの船乗り場に着き、12時出発の渡船に乗ると、これが逆方向、西にあるヨプゴン(Yopougon)という地区に行く便だった。途中の船着き場で降り、切符を買い直してココディを目指した。

船に乗っていると港にガントリークレーンが見えて、以前に住んでいた神戸の港を思い出した。神戸の中心部、三宮から南に突き出た人工島のポートアイランドには、多数のガントリークレーンがあり、それらを黄色と茶色で塗ったらキリンのように見えるのでは、とかつて同僚と話したこともあった。それが今さらながらに思いだされた。

プラトーに戻ってきた時点で13時。すでに1時間をロスしていた。そこからさらに1時間近く船を待った。これでは14時には間に合わなさそうで、この日がダメだったら翌日取りにいけばいいだけの話だったが、ビザは翌日回しにするにしても、せめてSIMカードはこの日のうちに買いたかった。焦りが出てきた。

タクシーを拾おうかと思いはじめた矢先、船がやってきた。そこからはあっという間にココディに着き、急ぎ足で大使館に向かうと、まだ開いていた。そして、リベリアのビザのシールが貼られたパスポートを手にした。新たなビザを得ても、思いのほかうれしさが湧き起こらなかった。西アフリカの各国を回る際にビザを得ることも習慣づいてきていて、最初のころに感じた情動はなくなってきたのかもしれない。

そこからは、前日のルートをたどるかのように携帯電話会社へ行き、SIMカードと2.6ギガバイト分のデータ量を買った。なぜこんな中途半端なデータ量になるのかよく分からなかったが、とにかく携帯電話が使えるようになったことは大きかった。

続いて、アジャメ(Adjamé)と呼ばれるエリアまでいくことに。そこにはアビジャンで最大の長距離バスターミナルがあり、アビジャンに長距離バスが着いたときに降ろされた北ターミナルからも、歩いて10分程度の距離だった。バスで行こうとしたものの、数十分待ってようやくやってきたバスが停留所を素通りした。乗客が満員だったので通過したようだ。バスを待っていた他の人たちも諦めて三々五々、その場から離れていき、僕も同じようにバスを諦めて、アジャメまで40~50分ほどの道のりを歩いた。

アジャメの長距離バスターミナル付近に着くと、道路は舗装されておらず、土色ではなく、赤土の色合いでもなく、なぜか灰色をしていて、ごみは散乱し放題。すえたにおいが漂っていて臭かった。さらには人が多くて、その場でただ1人、黒人ではない僕に浴びせられる視線が厳しかった。アビジャンのスラムと見まがうようなこのエリアは、生理的に受け付けないような雑多で汚らしい雰囲気に満ち満ちていた。

それでも、次の目的地と心の中で定めたコートジボワール西部の街、サン・ペドロ行きのバスを確保したかった。バスターミナルの近くにいた人に、バス会社のオフィスまで連れていってもらった。

「サン・ペドロに行くバスはある?」
「あるよ」
「何時に便がある?」
「朝6時の1本だ」
「集合場所はどこ?」
「このオフィスに来てくれ」

夜明け前にここまで来るのは嫌だな、という思いが頭をよぎった。しかし、ここでチケットを買わなければ向かう手段がなかった。チケットには、朱色の油性ペンで書き込みがされた。これで逃れられない。そんな思いがした。

宿のあるトレッシュビルに戻るため、北ターミナルへ。すると、急いでいた人が僕に「切符代をちょうだい」と言い出して、そして僕の分も含めて切符を買ってくれた。その人は運賃ぴったりの小銭がなかったらしい。

このころから分かりはじめていくことになるのだが、アビジャンではお釣りの扱いで困ることがよくあった。小銭の流通量が限られていて、市中に不足しているのだろう。「釣りは出ない」と言われたり、ちょうどの額で支払うよう求められたりすることが多かった。お釣りが足りないときには、飴玉などに代えて渡されることもあった。僕はそのことに気づいてからは、できるだけ小銭を持っておくことにした。

宿まで戻っている途中、バスからひな壇に座っている女性たちがいるエリアが見えた。かなり昔、大阪の飛田新地を冷やかしで見にいったときに目撃したような光景だった。あれは間違いなく売春スポットだ。このアビジャンにもそんなところがあること自体、信じがたかったが、見たものは見たもので疑いようはなかった。先のアジャメのバスターミナル付近といい、今回と言い、立て続けにアビジャンの暗い部分を見たようだ。

宿に戻ってきて、翌日の準備を気が乗らないままにやっていると、寝るのが遅くなった。

翌23日の水曜日、朝6時の長距離バスに間に合うよう宿をチェックアウトして、アジャメのバスターミナルに向かった。この日は起きた瞬間から嫌な予感がしていて、でも出かけるしかないなという気にもなっていた。なぜこんな直感がやってきたのか、僕自身にも分からなかった。事件の発生がすぐそこまで迫っていた。

旅の情報

今回の宿

HOTEL LE SUCCES
シングルルーム 2泊 16,000セーファーフラン(約3,000円)
設備:専用バスルーム(水シャワー)、専用トイレ、扇風機
予約方法:なし
行き方:トレッシュビルのAvenue14、Rue25が交わる場所の南西角の建物。Hotel Madaniから東西方向の道(Avenue)を南に7本進んだところにある。
その他:部屋は汚くはなかったが、空気がこもって暑かった。また、部屋の電気が暗かった。地図に登録されていないため、道路を挟んで東側にあるモスクを示している。

訪れた食事処

Burger King Cocody Abidjan
注文品:ハンバーガー、チキンナゲット 3,500セーファー(670円)
行き方:Boulevard de Franceを東に進み、Boulevard des Martyrsと交わる道から歩いて3分、右手にある。
その他:大通りに面した2階建ての店で、日本のファストフードの路面店と同じレベルで快適だった。この店舗はココディ地区にあり、バーガーキングはアビジャンでは他にココディ地区やプラトー地区などに数軒、店がある。