コートジボワール その2 運命の分岐点 そこに強盗は待っていた

コートジボワールの最大都市・アビジャンに滞在中、この旅で最大の事件が発生した。あとほんの少しでこの街を出るというタイミングで僕は強盗に遭い、旅をし続けるために必要な物を失ってしまい、足止めを食らうことになった。

旅は暗転し、先を急ぐ必要もなくなり、そのためにできた時間で自分自身を考え直すきっかけにもなった。それはまた、7カ月間続けてきたこの旅をどうするのか、決断を迫られることも意味していた。

不意を突かれて

2019年1月23日朝、宿があった下町のトレッシュビル(Treichville)から路線バスに乗って、北ターミナル(Gare Nord)へと向かった。北ターミナルから、長距離バスターミナルがあるアジャメ(Adjamé)までは10分ぐらいの距離だった。

前日、バス会社に聞いた集合時刻は午前6時だったが、どうにも僕の移動時間の見込みの読みが甘かったらしい。北ターミナルに着いた時点ですでに集合時刻の10分前、5時50分になっていた。僕は焦った。この街に置いてけぼりになり、あの宿に戻るにしても、別の安宿に泊まるにしても、後戻りするのは嫌だという思いになっていた。あの宿で感じた気だるさと暗さを、さらに味わい続けたくなかったのかもしれない。

このとき僕は、肩からは茶色のかばんをたすき掛けして、ボストンバッグを下げて、リュックを背負い、車輪つきのバックパックを転がしていた。大通りの端を小走りになりながら、先を急いだ。

おそらくそのときは、写真のような姿で歩いていたと思う。写真自体は12月上旬、モーリタニアからセネガルに向かっていたときの様子。ただ、明らかに違っていたのは、モーリタニア国境の路面が赤土だったのに対して、今回の路面はアスファルト舗装だったこと。そのときにはあまり意識していなかったが、バックパックを引きずる車輪の音がゴロゴロと鳴って、僕の存在を周りに知らせていた。

まだ夜明け前だったが、道端では店の開店準備をしている人たちがちらほらいて、前日、ここを訪れた際に抱いたような不安は感じなかった。スマートフォンの地図を見て目的地を確認し、大通りから脇道に差しかかる分岐の近くまでやってきて、もうすぐだと思いながら歩いていた。

すると、左隣から「ヘイ!ヘイ!」と声をかけてくる人がいた。振り向くと、そこには大柄な黒人の男がいた。その男は間髪を入れず、僕の茶色のかばんを奪い取ろうとした。僕は意表を突かれて驚きながら、盗られまいと、かばんのひもをひっぱった。

最初こそかばんに抵抗力を感じたものの、次の瞬間には、かばんがするりと僕の手から抜け落ちて、男に盗られてしまった。

男はそこから、さっと小道に逃げていった。その茶色のかばんには、クレジットカード数枚と国際学生証、現金60,000~70,000セーファ(約11,400~13,300円)が入った財布に、パスポート、イエローカード(黄熱の予防接種証明書)、他の予防接種記録が記された紙、デジタルカメラ2台、それに、強盗に凶器を突き付けられた際の対策用に、現金で数十ドルと数ポンドを入れた財布などを持っていた。

まずい!

本能的に、反射的にそう思った。男は凶器を持っていないように見えた。そして、先に触れたとおり、周りには何人もの人がいた。そこで僕はバックパックとボストンバッグをその場に置き、自分の身を軽くして男を追いかけていった。しかし、男の逃げ足は速く、1分も経たないうちに行方を見失った。

僕はその場に立ち尽くしながら、必死に次の手を考えようとしていた。すると、いつの間にか僕の隣には横縞のシャツを来た男がやってきていて、その男は、警察に電話をするからスマホを寄こせというジェスチャーをしてきた。僕が手に握っていたスマホを渡すと、その男は電話をかけるふりをしてから、猛ダッシュして逃げていった。僕はこの男も追いかけようとしたが、逃げ足は先に強盗をした男以上に早く、到底追いつけそうになかったので諦めた。

やられた!しかも、何と情けないやられ方だ……!

スマホも盗られてしまった。今回は自分にもスキがあったことが明白で、精神的なダメージはかばんのときよりも、むしろこちらの方が大きかったかもしれない。

このとき、僕は背中にリュックを背負っていたが、男を追いかけた際に残してきた2つのかばんも気になっていた。あの2つのかばんを盗られていたら、旅は完全に詰んでしまう。緊張しながら元に来た道路に戻ると、2つのかばんは無事で、すぐ道路わきにある、乗り合いタクシー「ウォロウォロ」の乗り場のおじさんたちがしっかりと見張っていてくれた。

おじさんたちから「ひとまず座れ」とジェスチャーまじりで声をかけられ、僕はかばんを自分の身の近くに置きながら、ウォロウォロ乗り場に座った。ここでようやく少しだけ緊張を解き、これからのことに対して思いを巡らせた。

おじさんたちに、かばんの中に何が入っていたか書き出せと言われて、思いつくままに書いた。その後は、「しばらく待っていて」と言われたので、その場でかばんを見ながらボーっと待っていた。強盗に遭ったときには暗かった空は、いつの間にか太陽が出ていて、赤々とした朝日に照らされていた。

このときにはまだ気づいていなかったのだが、後で得た情報によると、最初に声をかけてきた強盗は集団で動いていて、刃物を持っており、肩かけかばんのひもを切って盗んでいったらしい。かばんを取られたときや追いかけたときに刃物で体を傷つけられなかったのは、不幸中の幸いだったと思わずにはいられない。

1時間ほど経った7時30分過ぎ、ウォロウォロ乗り場の人たちに呼ばれたとみられる若い男性とともに、被害届を出しにいくことになった。この男性は多少、英語を話すことができたのでその場に呼ばれたらしい。

後処理に奔走

ここから最初に行ったのは、憲兵隊の事務所。取調室のようなところで聞き取りをされた。僕が「盗難証明は出してくれないのか」と問うと、「警察に行ってからまた戻ってこい」と言われて、名刺とメモを託された。話を聞いてくれた憲兵は多少、英語が通じたのでやり取りがしやすかった。

続いて、強盗現場の管轄の警察署に行くと、受付の女性と、僕の付き添いをしてくれている男性との間でやり取りがあり、取調室に連れていかれた。禿げ頭の私服の警察官は英語が通じなかったため、男性を介して一通り強盗に遭ったときの状況について話をした。

僕にとっては男性が唯一の頼りだったが、どこまで話が伝わっているのかが分からず、もどかしかった。話を終えたあと、その警察官から「私の連絡先を渡すから、日本大使館に行き、それから連絡を取ってくれ。次はおそらく2日後、金曜日に来てもらうことになる」と伝えられた。

いったん外に出ようとすると、この警察官の上司とみられるスーツを着た男性がやってきて、取調室にいったん戻った。連絡先をくれるということだったのに、誰も渡す気配がなかったのでそれを男性に伝えると、「忘れていた、すまん」と書いてくれた。

その後、警察官と男性と3人で現場まで行って実況見分をした。このときには、強盗現場を目撃していたウォロウォロ乗り場のおじさんたちも証言を手伝ってくれて、心強かった。

一通り終わったあと、警察官はタクシーを捕まえてくれて、この先は僕1人でプラトーにある日本大使館に行くことになった。別れ際に「タクシーの運賃は大使館で建て替えてもらえ」と言われたが、その心配はいらなかった。バックパックにはドル、ユーロ、日本円のそれぞれの現金、クレジットカード数枚などを入れていて、それらは丸々無事だったからだ。

先に書いた「あの2つのかばんを盗られていたら、旅は完全に詰んでしまう」と思った理由は、それらのかばんを失うと、誰かから海外送金をしてもらう以外にお金のあてがなくなるからであり、それだけはできる限り避けたかった。

日本大使館は、入居するビルの前を2日前に歩いていて、すでに場所を知っていた。そこで、ひとまずプラトーに行ってからクレジットカードで現地通貨のセーファーフランをキャッシングして調達し、日本大使館の近くで降ろしてもらった。

大使館は高層ビルの3階にあった。セキュリティーチェックを受けたあと、オフィスに入った。最初は現地スタッフが対応してくれたが、すぐに領事に代わり、領事とその補助役の日本人の2人から聞き取りを受けた。ここでは日本語でのやり取りだったため、当然のことだが警察で話した内容よりも詳しく話ができた。

そして、数日レベルでは済まないほどここアビジャンで足止めを食らうことを確認した。パスポートを盗まれたことにより、しばらく身動きが取れなくなることは大使館に来る前から分かっていたが、思いのほか長くなりそうだった。

僕にはこの先、パスポートを再発行してもらう方法と、帰国のための渡航書を申請する方法の2つの選択肢があるらしい。どちらにしても警察の盗難証明書が必要で、署名写真や戸籍謄本のコピーなど、他に必要なものもあるということだった。コートジボワールはIC旅券作成機が設置されておらず、パスポートを再発行するなら3週間ほどはかかるという。それほどの間、アビジャンに留まってでもパスポートがほしいとは思わなかった。僕が取りうる選択肢は必然的に、渡航書の発行となった。費用は13,000セーファ(約2,500円)という。

領事に対して、僕はこれまでの旅の経緯も話した。そして話題は、旅行資金の管理方法にも及んだ。

「これまでずっと、お金やクレジットカードをいくつかに分けて管理していました」
「さすが旅慣れていらっしゃいますね」
「そうですね……まあ、そのおかげで、被害はある程度に抑えられていますし、いまも現地通貨を調達できています」

強盗に遭って憲兵隊、警察、それに大使館とあちこちで情けない姿をさらしているのに、「旅慣れている」という言葉をかけられるのは心苦しかったが、僕はまだ運があったのだ、と思うことにした。領事からは、このあとすぐ警察に連絡するので、ひとまずこの日の宿泊先が決まったら連絡をほしい、電話でもメールでも構わない、という話を最後に聞いた。

さらに善後策を講ずると

時刻は正午をとうに過ぎていた。大使館を出てから、プラトーにあるバーガーキングに行き、この日初めての食事をした。2日前に行ったココディ(Cocody)のバーガーキングと同じく、ここも無料でWi-Fiを提供してくれていた。

スマートフォンが盗まれたいま、連絡手段として使えるのはノートパソコンと、妻のゆっきーが残していってくれた、画面のタッチ感度がかなり悪くなっていたiPhoneのみ。ここでも幸いなことが1つあった。パソコンにLINEのアプリを入れていたので、スマホを失ってもパソコンで自分のアカウントにログインでき、ゆっきーや他の家族とのやり取りが簡単にできたのだ。パソコンのLINEアプリがピンチの際のセーフティネットの役割を果たすとは、思ってもみなかった。

ネットにつながっている間に、ヨプゴン(Yopougon)にあるホテル「Détente Hôtel」を3泊分予約した。強盗に遭う前からチェックしていた宿で、いわゆる安宿ではないもののリーズナブルで、清潔感があり、機能が整っている印象があった。心身とも疲れている状態のときに、泊まる宿くらいは気分が上がるところにしたかったというのが。

そして、大使館の領事あてにお礼と連絡のメールを送ると、早速、動いてくれていて警察に行ってくれたようだった。僕が把握している被害品を改めて詳細に伝えた。

インターネットを通じてできることも一旦区切りがついたので、プラトーからヨプゴンまでタクシーに乗って移動した。しかし、ここからもトラブルが相次いだ。最初に乗ったタクシーには、ホテル名と住所を示して連れていってもらおうとしたが、ヨプゴンのまったく違う地区に降ろされてしまった。SIMカードもWi-Fiもなく、iPhoneに入っているGoogleマップがほとんど使い物にならないので、頼りになるのは自分だけ。周りにいた人たちにある程度の場所を聞き、2台目に乗り込んだ。

ところが、この車でもよく分からないところに連れていかれた。しかも、最後には現地語で文句を言い出す始末。やむなく降りて、少し歩いてから、また現地の人の力を借りて3台目に乗せてもらった。日暮れが迫っていて、一刻も早く宿に着きたかった。その車も道に迷いかけたものの、通行人に聞いて何とかホテルまでたどり着いてくれた。

ネットで予約していたからか、スムーズにチェックインできた。部屋は、これまでアビジャンで泊まっていた宿と比べると比べ物にならないほど快適だった。

室内にエアコン、テレビ、Wi-Fi、トイレ、ホットシャワーがそろっていて、しかも清潔だった。アフリカではないことも多かったトイレの便座も、ここはしっかりとついていた。

この日は外に出る気力もなく、併設されたホテルのレストランで夕食にカルボナーラを食べると、とてもおいしかった。太麺パスタなどというオシャレな食べ物はいつぶりだっただろう。インターネットにつなぎ、改めて日本に連絡を取って、盗難に遭ったクレジットカードを止めてもらうよう手続きをお願いした。

朝早くから夜遅くまで、仮眠も取らずに過ごした。とても長い1日だった。この日の朝、出発前に嫌な予感がしたのも、強盗被害に遭ったのも、何かの思し召しだろうか。「ひとまず日本に帰れ」ということなのだろう。とにかく疲れた。

いきなり朗報が舞いこむ

新しい宿に移って迎えた最初の朝、日本大使館からメールで連絡があった。どうやら僕のパスポートが見つかったらしい。しかも、僕さえ良ければ、大使館の職員が僕の代理で警察署まで確認して回収しにいってくれるという。何という朗報だろうか。ありがたくお願いした。

これで、「渡航書を発行してもらい、日本に直行する」という選択肢以外の可能性が出てきた。どちらにしても、今回の強盗被害を受けて一旦、日本に帰らなければならなくなったことは自覚していたものの、これまでにビザを取ったリベリア、ブルキナファソあたりは旅したいという思いもあった。

今回のホテルには朝食がついていて、洋食を頼むとこの日のメニューはオムレツとパン、ジュース、コーヒーの組み合わせ。見た目にも充実していた。部屋で食べて、大使館からの連絡を待った。SIMカード入りのスマホが盗まれていなければ電話でも連絡が取ることができたが、いまは連絡手段がメールしかない。そうなれば、Wi-Fiが完備されている宿にいるのが最適だった。

大使館からは、午前中に見つかったものを回収したとメールがあり、僕はいてもたってもいられず、正午過ぎからウォロウォロに乗って大使館へと向かった。こうして考えると、強盗に遭ったこと自体は残念だったものの、日本大使館のある街にいただけでもつくづく幸運だったと思えてくる。

大使館に着くと、領事から戻ってきた品の確認と状況の報告を受けた。戻ってきたのはパスポート、クレジットカード、イエローカード、各種予防接種記録、国際学生証など。失ったものは、財布2つと現金、カメラ2つ、スマホ、その他もろもろ。警察からの盗難証明書も受け取った。本来は有料だが、無料で発行してもらえたようだった。盗難証明書には、フランス語で被害時の状況も書いてあった。それによると、5人組の犯行となっていて、領事の説明を聞いても、単独犯ではなく複数による犯行なのは間違いないとのこと。1人が声をかけ、1人がナイフでかばんのひもを切り、奪っていったらしい。

「死ににいくようなものです」

物品を受け取ったあと、今後の予定について話した。

「高い代金を払って取ったビザがあるので、コートジボワールからリベリアとブルキナファソに行ってから、コートジボワールに戻ってきて日本に帰国しようと考えています」
「リベリアはともかく、ブルキナファソは今、かなり治安が悪く、テロや凶悪犯罪でもマリ以上にホットなスポットになっています。だから、行くのをやめてほしい。死ににいくようなものです」

さすがに「死ににいくようなもの」というのは言い過ぎのような気もした。というのも、僕はリベリアやブルキナファソでは、外務省の海外安全情報ホームページでレベル1、2とされているところ、つまり退避勧告や渡航中止勧告が出ていないエリアにしか、訪れる予定はなかったからだ。

ただ、この領事の思いも分かった。前日にもらった名刺には、領事のほかに「警備対策官」という肩書も併記されていた。おそらく自衛隊か警察出身の外交官なのだろう。安全寄りになるのも無理はなかった。

「ブルキナファソでは、北の方から東に回り込む形で、国の南の方にまで武装勢力が力を伸ばしています」と領事。
「ブルキナファソに行くかどうかは、さらに考えようと思います」と僕は言葉を濁した。
「コートジボワールからリベリアまでの道のりも、コートジボワール国内では時に車両を狙った強盗が発生していますので、注意してください」

最後には、領事がコートジボワールとブルキナファソ、リベリアの3か国の安全情報が記された地図を印刷してくれ、僕はそれらをもらって大使館を後にした。この2日間、大使館にはお金に絡む迷惑はかけていなかったものの、そのほかのことは何から何までお世話になっていた。

帰りは、大使館から500メートルと離れていない南ターミナル(Gare Sud)まで行き、バスで宿まで戻った。バスは50分くらい待ったものの、この日、得たものが大きかっただけに何の苦にもならなかった。ただ、僕の中にはまだ、強盗に遭った残像が十分に残っていたのだろう。外で写真を撮るのは緊張して、この日は「近くに学校あり」の標識をメインに据えた1枚しか撮影できなかった。

宿に着いてインターネットにつながる環境になると、さっそくゆっきーに報告した。パスポートをしげしげと眺めていると、手元に戻ってきたことに、不思議な縁なようなものを感じざるを得なかった。

滞在中、最大の楽しみとなった夕食は、前日と同じくパスタにしようと考えていたものの、日替わりメニューだったらしくこの日はなかった。そこで、郷土料理のアチェケとともにケバブを頼んでみると、焼き鳥みたいな串焼きの形でやってきた。これはこれでよかったのだが、パスタが恋しかった。

この旅で最大の決断

次の目的地を改めてコートジボワール西部の街、サン・ペドロに定めて、翌25日は長距離バスを探しに出かけることにした。

その前に、毎朝のモーニングでこの日は現地料理を選択してみた。すると、前日に続いてアチェケが登場。これはこれでおいしかった。ただ、朝食としては洋風のほうがいいように感じた。

食事を終えてこの日最初に向かったのは、黄色いバスの車体が特徴のCTEという長距離バス会社のオフィス。宿から歩いていける距離にあった。

「サン・ペドロに行きたいんだが」

僕がそう伝えると、返ってきたのは予期していなかった言葉だった。

「あの黄色いバスに乗ってアジャメのバスターミナルに行き、チケットを買え!」

強盗に遭った記憶の新しいアジャメに行くのは、できたてのヒリヒリしている傷口に塩を塗りたくられるような思いがして、どうしても避けたかった。そこで、別のバス会社を探すことにした。

さらに歩いていると、バスが止まっていたので、その目の前のオフィスで尋ねると、親切な若い男性がメモを書いてくれ、タクシーを止めて交渉までしてくれた。

その足でヨプゴンの長距離バスターミナルへと行き、SBTAという会社で2日後の1月27日朝に出発するバスを予約した。その前の日、つまり26日朝も空いているということだったが、心身と荷物の準備を考えて2日後にした。朝早く6時30分出発なのが気になったものの、この時間なら夜も明けているだろう。SBTAはCTEと同じくコートジボワールでは大手の会社で、よくバスの車体を見かけていたのも安心材料だった。

この日は1つ、大きな決断もした。日本に帰る便のチケットを購入したのだ。2月19日未明にアビジャンの空港を出発、リスボン経由でパリに行く。そしてフランスに1日滞在し、中国経由で成田に22日、帰ってくる行程にした。

ゆっきーが帰国してから2カ月ほどで、僕も帰国の途に就くことを決めた。寂しい思いもあったが、ホッとしている自分もいた。思っていた以上に、西アフリカの1人旅で消耗していたらしい。

飛行機を調べている間、西アフリカのギニアビサウからマリまで、時々、別行動になりながらも一緒に旅していたブラジル人・パウロのことを思い出していた。

世界旅行をしている期間が僕よりはるかに長かった彼でさえも、マリ滞在の最後には「もう西アフリカはたくさんだ」と吐き捨てて、ヨーロッパへと去っていった。それほど、この地を旅し続けるのは肉体的、精神的に厳しいのかもしれない。

そのような思いとは別に、西アフリカの途中で旅を打ち切らざるを得ないことには、こみ上げてくる無念さもあった。今は帰るにしても、いずれ必ずこの地に戻ってくる。僕の頭にはすでに、そんな思いもよぎっていた。

旅の情報

今回の宿

Détente Hôtel
シングル 3泊(2019年1月25日朝の時点) 80,325セーファーフラン(約15,300円)
設備:専用バスルーム、専用トイレ、朝食付き、エアコン Wi-Fiあり
予約方法:Booking.com
行き方:ヨプゴンの「Bel Air」の交差点(Carrefour)から東に500メートルほど行ったところにある、数えて2つ目の交差点を右折して、そのまま南に500メートル進むと左手にある。
その他:これまでに西アフリカで泊まってきた宿と比べると申し分ない設備を備えている割に、それほど高くはない。外国人の利用者も多かった。