コートジボワール その3 新たなトラブルが続出!試練の国境越え

アビジャンで強盗に遭い、一時は旅の続行が不可能になるダメージを受けつつも、幸運が重なってパスポートを取り戻した僕は、当初向かう予定だったリベリアへと進むことにした。

その一方で、日本に一旦、帰国することを決め、帰国便のチケットを手配した。その結果として、僕に残された時間はわずか25日間のみ。日本に帰るまでに、すでにビザを取っていた近隣2カ国を旅してまわり、西アフリカの1人旅と、それ以前に妻のゆっきーと回ってきた旅を総括したいと思っていた。

ただ、一度歯車が狂ってしまった旅は、その後もなかなか元には戻らず、いくつものトラブルに見舞われることに。人や自然が僕の前に立ちはだかった。

バスターミナルに着けない

アビジャン滞在の最後の日となった2019年1月26日の朝、洋風のモーニングを頼んだ。心なしか前回より量が減っているように見えるものの、やはり食欲をそそった。

この日は、久しぶりの出発に向けた準備に費やした。水着や使わない食材など、旅に不要となったものをいくつか捨ていると、1月上旬、シエラレオネのティワイアイランドを旅していたときに、日本から旅行で来ていた女性からもらったドリップコーヒーが出てきた。

袋の表には「LIMENAS COFFEE」(リメナスコーヒー)と書かれてあり、裏面を見ると埼玉県所沢市の会社ということらしい。お湯を沸かしてあっさりした味わいのコーヒーをいただきながら、改めて自分のこの先のことを考えた。

来月にいったん日本に帰国するにして、どうして生きていこうか、と。東京に戻るのか、生まれ育った関西に帰るのか、それともまた別の地方に行くのか。

いずれにしても、「生きる」という言葉が1つのキーワードだった。そのときに書いた文章がこちら。

生きるってことに人がこれほど単純化されているところは他にないんじゃないか。西アフリカにいるとそう思う。
常識とされているような善悪の価値観、「良いこと」「悪いこと」、「プラスのこと」、「マイナスのこと」、全部含めて、とにかく今を生きることに皆、正直だ。
日本にいると生身の生からどんどん遠ざかる。それをどういう価値観で捉えるかは個人の自由。ただ、生きることは前提になりすぎていて、そこからの何かになっている。
自分を充実させるとか、世にある何かを便利にするとか、社会問題の解決を図るとか、そういった一切合切はこのあたりにいる多くの人にとってはお構いなし。まず目の前のこと。
これが人里離れたところに行くと、より動物的なものになっていくんだろう。残念ながら、そこにはたどり着けていない。確認できていない。
自分が帰るところはどこにあるんだろうか。

アフリカで様々な人たちを見てきて、強盗に遭って、僕はやはり「生きる」ことにこだわりたい、と考えるようになってきた。それは自分のライフワークにもなりえるのではないか、と。

「生かされている」と「生きる」の違いを見据えていた。そして、ふと浮かんできたものと頭の中で考えたことがごっちゃになっているだろうから、しばらくは自分の心の中を様子見したほうがよいのかもしれないとも思った。

翌日は、早朝に起きて宿をチェックアウトして出発。4日前、アビジャンを出発しようとして強盗に襲われた朝のような嫌な予感はしなかったものの、バスターミナルに着いてバスに乗り込むまでは安心できなかった。

アビジャンのタクシーにはこれまで、乗るたびにひどい目に遭わされていたので、宿の門番の男性の助けを借りながらタクシーに乗った。しかし、行きついた先はバスターミナルとは違う方向にあった、消防署のような施設。アビジャンのタクシー運転手たちは本当に適当な人たちばかりだ。

腹を立てながらもできるかぎり冷静になるよう心を落ち着けつつ、消防署のような施設の前にいた男の人の手を借りて次のタクシーに乗った。そしてようやく、バスターミナルらしき方向に進んでくれた。しかし、2台目のタクシー運転手も正確な場所を把握していないらしく、バスターミナル付近の交差点で客引きに何か聞いたかと思いきや、そこで降ろされてしまった。

僕は、その場にいた客引きたちの餌食になりかけたものの、「もうチケットを持っている」と声を張り上げて伝えると、商売っ気たっぷりだった彼らも諦めてくれた。客引きではない人たちが「バスはあっちだ」と指し示してくれて、今度は強盗に遭わないよう周囲に気を配りつつ向かうと、何とか発着場までやってこれた。前回と同じくバスが出発する間際のギリギリのタイミングになってしまってしまい、反省を生かせていない自分が情けなかった。

僕はチケットの購入順でもっとも早かったらしく、バスの先頭に乗った。バスには、希望しながら乗れない人もいたようだ。キャンセル待ちをしている人が、出発を待っているバスのドアの前に何人か立っていたが、その誰からも覇気が感じられなかったのが不思議だった。

車内は満席で座席前の階段にまで人が座っていてやや窮屈だったが、珍しく冷房が効いていた。音楽の動画や正月番組と思しきお笑いコントみたいな動画もあり、普段は笑顔をあまり表にしないコートジボワールの人たちも、みんなよく笑っていた。

途中で下車や休憩を何度もはさみ、16時ごろになってサン・ペドロに到着。そこからこの日の宿探しが始まった。公の情報では、サン・ペドロは人口約26万人の地方都市だが、ネットで事前予約できそうな手ごろな安宿は、当然のようになかった。アビジャンでさえ見当たらなかったのだから、当然のことなのかもしれない。僕はアビジャンのホテルを出て通信手段を失っていて、現地で歩いて調達するしかなかった。オフラインで使える地図アプリ「MAPS.ME」で、歩いていける近場の宿の見当はつけてあった。

釣り銭が返ってこない

1軒目を訪ねると、そんなに不潔でもなく、料金も高くなかったので、その宿に決めた。宿泊料を支払うと、ぴったりの釣り銭がなく、残った1,000セーファー(190円)は後でもらうことになったが、結局、それは僕の手元に帰ってくることはなかった。小金に汚いコートジボワールの人の姿を見せつけられたような思いだった。

ただ、ここの宿の主人にリベリアまでの行き方を聞くと、「バスでタブーまで行って、そこから国境に向かえばいい」と教えてくれて、バイクで近場のバス会社のターミナルまで案内してくれた。タブーはサン・ペドロから西に約100キロの街で、「この日のうちに行きたいのかどうか」とも聞かれたが、僕は「翌日の朝に行きたい」と返した。仮にタブーに向かったとしても、街に着くころには日も暮れていて、初めて訪れる街で夜がどれだけ明るいのかも分からないまま、大荷物を抱えて宿探しをしなければならなくなる。それは避けたかった。

いったん宿に戻ってきたものの、バスターミナルに安い食事処があったので、そこまで再び歩いていった。スパゲッティを注文したら「売り切れだ」と返ってきた。トマトソースがなくなってしまったらしい。そこで、隣の人が注文していたアボカドサラダを頼んだ。久しぶりに食べるサラダで、量はやや少なかったが、おいしかった。最後にお金を支払うと、ここでも釣り銭がなく、もらうまでに結構な時間がかかった。それほどまでに小銭が流通していないのだろうか。

いつのまにか寝てしまい、気づいたら夜中だった。そしてまた寝に入り、今度、起きると翌28日の朝7時前だった。しばらくゆっくりしていると、9時過ぎに宿の主人が部屋まで来て「時間だ」と話す。男性は前日、10時に出発したらいいと話してくれていた。

宿を出る前に「前日の釣り銭を返してくれ」と伝えたものの、「昨日の話は昨日」などと訳の分からない理由で返してくれなかった。昨日はバスターミナルまで案内してくれたし、今日も再び同行してくれるならチップ替わりでいいか、と思いながらも「バスターミナルまで一緒に行ってくれ」と言うと了承してくれた。

「タブーへの認識」が甘かった

ついてきてくれたのはいいものの、道中の荷物はすべて僕が持ったままで、それなら一緒に来てもらう意味が半減するな、と思いつつバスターミナルまで一緒に行った。そして、宿の主人は「また後で来る」と言って去っていった。チケット自体はその後、すぐに買えたものの、1日3便のうち、最も早いのは13時発という。宿の主人が言っていた「10時」という時間は何だったのだろう。かなり拍子抜けした。

このバスターミナルにはWi-Fiが通っていることを前日、突き止めていて、チケット売り場の人にパスワードを聞くと、iPhoneでネットにつないでくれた。そこで、バスターミナルにとどまって、これから向かおうとしているリベリアの情報を集めた。

バスは13時過ぎに出発した。2時間も経たないうちにタブーに着くだろうと思っていたら、道路が思いのほか悪路で、到着時には16時前になっていた。

朝には、運がよければこの日のうちにリベリアまで到着できるかもしれないと思っていたが、甘かった。この日は無理をせずタブーに泊まることに決めたものの、何の情報も持ち合わせていなかった。

「タブーへの認識が甘かった!」とダジャレを独りごちて、気持ちを少し軽くしたあとで、まずは歩いていけるホテルを目指した。念のためサン・ペドロを発つ前に地図を見ていて、泊まれそうな宿が2軒あることは確認していた。

そのうちの1軒に行くと、若い男の子が対応してくれた。意外なことに、英語も少し話せた。英語圏の国、リベリアの国境に近いだけあったのかもしれない。おかげでコミュニケーションがスムーズだった。

男の子が英語を話せたことに加えて、1泊が安く、シャワーやトイレもついた個室だったのもあって、この宿に決めた。

チェックインしてから街を散策しつつレストランを探してみた。市場のような建物は目に付いたものの、開いている飲食店は1軒もなく、さらには飲食店の屋台も見当たらなかった。

街の中心部が海に近かったこともあり、海岸沿いにも寄ってみた。

漁港のような施設があったのが特徴的だった。しかし、周囲には人の気配がなく閑散としていて、ゆっくりとくつろぎたいような雰囲気ではなかった。

結局、この日は外食を諦め、スーパーに行ってビールとクッキーを仕入れて、宿に帰ってから食べた。この日は、シエラレオネで日本人女性にもらった恩田陸の「木漏れ日に泳ぐ魚」を読み始めて、すぐに100ページ以上読み進んだ。もとは、荷物を減らす一環のつもりだったものの、つい面白くてはまってしまった。翌日にはいよいよ次の国・リベリアだというのに、気が緩んでいたのかもしれない。

何だかんだで強盗の後遺症もあまり引きずらずに、旅を進められているようだった。しかし、次の危機は間近に迫っていた。

大ピンチ!税関を通過できない

翌日の朝8時前にチェックアウトして、宿の人にリベリアとの国境までの行き方を確認すると、バスターミナルから乗り合いタクシーで行くしかないらしい。バスターミナルまで歩き、チケットはすぐに買えた。ただ、ここでも釣り銭がなく、2,500セーファー(480円)の釣り銭が未返却ということがチケットに書きこまれた。前日の続きで本を読みながら待っているうちに、読み終えてしまった。

定員までの乗客がそろい、10時になって出発。未舗装ながら、車が走りやすいように整備はされている道を進んでいくと、途中、川にかかる橋の部分で多くの車がストップしているポイントに行きあたった。何かが起きていることは間違いないが、一体何事だろう。答えはすぐに分かった。

皆、タクシーを降りて荷物を持って進んでいたので、僕も確認しにいくと、橋が崩れ落ちて、川底にトラックが横転している姿が見えた。しかも、憲兵隊の風貌をした男性2人が現場を確認していて、まだ生々しい現場のようだ。少し時間がずれて、タイミングが悪かったら、僕の乗っていた車両が落ちていたかもしれない。そう思うと空恐ろしい。

僕が事故現場付近の写真を撮っていると、少年がやってきて、僕の荷物を勝手に持っていかれ、対岸で待っていた別のタクシーに積み込まれた。そして小銭を要求され、僕はしかたなく、言われた通り100セーファー(20円)を支払った。

その後の道のりは順調だったものの、天気は途中から崩れ、雨が降ってきた。正午まであと40、50分だろうかという頃、国境に着き、税関とみられる建物の前で降ろされた。そして、税関では強盗にも引けを取らない、思いがけないピンチが待っていた。

僕は男性の役人に荷物をひとつずつチェックさせられ、ユーロやドルの現金が入った財布袋を見とがめられてしまった。役人から「オフィスに来い」と言われ、別室に連れていかれて現金のチェックを受けることになった。

小柄で中肉のこの役人は、見るからに粘着質そうに眼を光らせていた。本音では賄賂をもらいたいだけなんだろう。僕はそう思いつつも、法を盾に取られている以上、きちんと対応しなければならなかった。対応を誤ればトラブルが大きくなりそうだった。

それぞれの通貨に対して1つずつ、現金をいくら持っているか確認作業が始まった。役人は「大金を持っているから申告しないといけないのにしていない」と話しつつ、僕が持つ現金の写真を撮っていた。

これは面倒なことになった、と僕は思った。実は、許可されている以上の現金を持っていることをすでに知っていた。コートジボワールで在留資格がない人は、50万フラン(約10万円)以上を所持している場合は申告が必要だった。日本円だけで10万円近く所持していて、ユーロとドルも含めると手元に20~30万円はありそうだった。

役人のチェックにスキが出たタイミングで、僕は最も金額の大きい塊だった780ドル入りの現金袋を、すでにチェックを受けていたボストンバッグに隠した。そして僕は、「日本大使館の人と話をさせてほしい」とお願いした。

アビジャンでもらっていた領事の名刺をここで出したら効き目があるだろうと思って探したものの、なかなか出てこない。そのうちに、領事に印刷してもらったコートジボワールの安全対策基礎データが見つかったので、それを持ちだして交渉することにした。

そこには、所持金がいくら以上なら税関申告が必要なのか、日本語で書かれていた。在留資格がない人の場合は先に書いたとおりだが、在留資格がある人の場合はそれが200万フラン(約40万円)に跳ね上がる。大使館からもらった紙の在留資格のある人の部分を指し示し、「こんなには現金を持っていないので、申告する必要はないはずだ。日本大使館からもそう聞いた」と伝えた。

この役人はもちろん日本語が読めない。そして、「申告が必要なのは200万フラン以上」という僕の話を、どうやら信じてくれたようだ。僕は、これで突破口が開けそうだと感じた。

別の職員もやってきたので、もう一度、現金を計算してもらった。僕はさすがに、日本円で約40万円もの現金は持っていなかった。そして、改めて「日本大使館に連絡してくれ」とお願いした。この2つの主張が効いたようで、後から来た職員は「もういいよ。ただしコーヒーをおごってね」と言ってきた。

しかし、役人は諦めが悪く、論法を変えてきて「もともと多額の現金を所持していることを申告しなかったお前が悪い」と言いだした。

「申告する必要がないんだから、そのまま通り過ぎてもいいだろう!」と僕が反論すると、役人は判で押したように「いや、申告する必要があった」と何度もリピートして、水掛け論になりそうだった。

「僕は間違っていないから、ここを通してくれ。どうしても僕の間違いだというなら、まずは日本大使館に連絡してくれ!そこから聞いたんだから。そうしてくれないなら、僕はここから動かない」

僕はそう伝えた。この時点で勝った、と思った。後から来た職員は、これ以上の追及を諦めて僕は無罪放免に。もともと取り締まろうとしていた役人は最後まで「まだ終わっていないぞ」と言って抵抗し、去り際には「約束が果たされていないぞ。コーヒー代をよこせ」と言ってきた。コーヒーをおごることはこの役人が言い出したことではなく、僕は無視した。こうして、後味の悪さは残ったものの、今回の危機を無事に乗り切ることができた。

税関を出ると、先ほどまで降っていた雨は止んでいた。続いての国境審査はあっという間に終了し、出国スタンプを無事にもらった。

コートジボワールは途中から最後まで嫌なこと続きだった。これだけ国と僕自身の波長が合わなかったのは、ヨーロッパを旅していたときのウクライナ以来だったかもしれない。

今回の国境は川で隔たれており、船で対岸へと渡った。シエラレオネからギニアまで渡し船で国境を越えたときと似た感覚だったが、そのときとは違って、船はモーターで動き、運賃も3000セーファー(570円)をきっちり取られた。

いよいよ次の国、リベリアへと渡ってきた。リベリア側の国境審査は簡単で、少し質問を受けただけで賄賂要求もなし。税関の検査も口頭による確認だけだった。

すべての手続きを終えると、すぐにバイクタクシーの運転手に声をかけられたが、僕は生返事をした。というのも、天気がいまいち良くなく、再び雨が降って濡れるのを避けたかった。僕のあとに審査を通った黒人の男女グループは、バイクタクシーに分乗して去っていった。

続けざまに三輪タクシーの人が来た。税関の職員からは「あれに乗っていきなさい」と勧められた。運賃を確認したら800リベリアドル(540円)という。特に高いとも思わず、このタクシーで行くことに決めたものの、乗客が3人集まらないと出発しないという。

車内に乗り込み、うたたねをしつつ気長に待っていると、程なくしてやはり雨が降ってきた。先の男女グループはずぶ濡れだろうなと思いながら、さらに待っていると、雨はさらに激しくなり、茶色く濁った水流が地面に流れていた。

ほかの客はなかなか現れず、もう1人乗ってきたところで運転手が根負けして出発した。リベリア側の道路は予想外にも舗装されていて快適だった。これから向かう先は、人口2万人弱の港町ハーパー。僕にとって鬼門となったコートジボワールをようやく抜けて、どんな街が待っているのか、少し心が浮き立っていた。

旅の情報

今回の宿

Hotel la Tolerance
シングル 1泊 7,000セーファーフラン(約1,300円)
設備:専用バスルーム(バケツシャワー)、専用トイレ
予約方法:なし
行き方:サン・ペドロのSBTAのバスターミナルから南東に歩いて7、8分。
その他:サン・ペドロではギニア湾沿いにリゾートホテルが林立しているが、バスターミナルからは7、8キロ離れているためタクシーでの移動が必要。僕は1泊のトランジットの予定で、翌朝は早めに出発することにしていたのに加えて、リベリアで海沿いの街に向かおうと考えていたので、サン・ペドロの海岸は訪れなかった。

Hotel Doufoulougou
シングル 1泊 5,000セーファーフラン(950円)
設備:専用バスルーム(バケツシャワー)、専用トイレ
予約方法:なし
行き方:タブーの市街地を南北に貫くメイン道路のガソリンスタンド「TOTAL」から北に歩いて7、8分、道路沿いの右側。
その他:2019年1月には、Googleマップに載っている宿泊施設がこの街にはほとんどなかったが、近年は掲載も増えているよう。

訪れた食事処

Kiosque SBTA
注文品:アボカドサラダ、パン 500セーファー(95円)
行き方:SBTAのバスターミナルに併設されている。
その他:場所は広いものの、それほど清潔感があったわけではなく、客を選ぶ店だと感じた。