はじめに ― これは1年と1週間前の物語

気づけば出発まであと1週間……というのは昨年の話。今いるのはまた東京。元いたところに戻ってきている。

ウキウキと不安、そしてなぜか少し心のだるさを抱えた1年前の今日、出発前だった。世界一周、しかもどれだけかかるか分からない、そしてまだ数回目の夫婦海外旅行だということ。出発前はやることが多くて、しかも旅とは関係ない、妻が主体となった別の作業を抱えていて、妻のゆっきーとは言い争いになることもしょっちゅう、険悪な雰囲気になることが多かった。ちなみに、出発の8日前に初の投稿(「旅立ちは目の前「である」?」)をしていて、その文面からも余裕のなさがあふれていた。

そんな日本での日々も、出発したら遠い話になり、いつ果てるともしれない旅に没頭していくことになった。しかし、それをストップさせて、日本に帰ってくるきっかけは突然やってきた。しかも、2度も。抗いようもなく帰国し、そこからも怒涛の日々が待っていた。

そして、1年前と同じ家で住んでいる。こんなにすぐ戻ってくるとは思っていなかった。1年前の自分が365日後、そういうふうになっているとは想像したこともなかった。

いま振り返ると、この旅が自分にもたらしたものは何だったのか、つかみきれない。目に見えて残るものがほとんど何もないことだけは明らかだ。

20数年前の大学生のとき、沢木耕太郎の「深夜特急」をバイブルのように持っていた。あの作品に描かれているような初々しく、力感あふれる世界は、ネット全盛のいまの時代的にも、すでに40代に入っている私の年齢的にも、ありえないことだと思っていた。実際その通りだった。だからといって、中年の中年による中年のための旅がしたかったわけでもない。私は長年やりたかったことをやろうとしていただけだった。

ようやく実現した旅のなかで、何か得られたもの、そして失ったものはあったのだろうか。20代、30代ならみられなかった、見逃していた、いまの自分だからこそ感じ取れたものはどれだけあっただろうか。

そのような思いの一方で、ゆっきーと一緒に旅をできたことは大きかった。一人でなければ感じえないものがあることも事実だが、特にヨーロッパにいるときには、夫婦でいたからこそ経験でき、気づけた、あるいは感じられたことも多かった。もし彼女がいなかったら、旅は相当、味気なく、心に残らないものになっていたに違いない。

遅ればせながら、世界旅行の足跡を1年遅れで追っていくことにした。2018年から2019年に旅していた間、少しだけ書き残した投稿もあり、それらはタイトルの最初に「【旧作】」とつけた。

満足にホームページに足跡を残さず、書き残したことはいっぱいある。こまめにメモを取ったり毎日欠かさず日記を書いたりしなかったために、覚えていないことも多くある。それでも、覚えている限り、思いだせる限りのことを、ここで書き記していけたらと思っている。