エストニア ここは一国の首都?と思うほどの中世ヨーロッパ感

エストニアの首都タリンは、フィンランド湾を挟んでヘルシンキの向かいにある。アフリカのコンゴ川を挟んですぐに対面するブラザビルとキンキャサほど首都間の距離は近くないものの、フェリーでも2時間ほどで着き、日帰りも可能だ。だが、両国間の首都の様相は大きく異なっていた。

その大きな要因は、エストニアに旧ソ連の爪痕が残っているところにあった。タリンは中世の街並みを今に残す点でもヘルシンキと大きく異なっていた。ラトビア、リトアニアを併せたバルト三国の首都は、いずれも中世ヨーロッパの雰囲気が残っていたものの、最も情緒を感じられたのはタリンだった。それらの国々を訪れるなら、個人的にはタリンに多くの時間を割くことをおすすめする。

バルト三国は、第二次世界大戦期に旧ソ連に占領、併合され、東西冷戦の終結を経て1990年代初頭に独立した。旧ソ連による併合を認めていない国も多かったようだ。現在は3か国ともEU加盟国になっている。

これは、タリンの旧市街にある小さな公共スペースの地面に描かれていた年表で、50年間にわたり旧ソ連に占領されていたことも載っていた。旧ソ連に併合されたとは書かれておらず、歴史認識を巡る複雑な事情があることを窺わせる。

この年表は未来に続いていて、西暦2418年、ロシア帝国の崩壊を機に独立してから500年を祝う記述で終わっていた。

ヘルシンキからタリンへのフェリーは3社が運航していて、チームシマと友達の計3人が選んだのは、この時の運賃が最も安かったエケロライン(Eckerö Line)。船は、ちょっとしたクルーズ船くらいの規模はあった。

船の中。ヨーロッパのシェンゲン協定の加盟国間での移動だったため、国境審査もなく、Lay’sの袋で遊ぶほどの余裕も。袋のキリル文字からも分かるとおり、ロシアで買っていたポテトチップスがフィンランドを経てまだ残っていた。フェリーでは生バンドによる歌もあり、豪華だった。

港に到着、トラムでホテルに向かった。線路と人の距離が近く、踏切もなくて都電荒川線の大塚駅前のような雰囲気。日本の踏切監視員にあたる人は当然のようにいなかった。

荷物を置いて、街へ。旧市街は、城壁も含めて旧ソ連に占領されていたことを感じさせないほど、そして一国の首都の一角にあるとは思えないほど、昔のまま残されていた。このあと訪ねたラトビアの首都リガ、リトアニアの首都ヴィルニュスにも旧市街はあったものの、城壁はここまで現存していなかった。

あちこち散策しつつ、観光名所の聖霊教会(聖オラフ教会)へ。

入場料を払って地上60メートルの展望台へと上がった。かなり急な階段で、足腰がしっかりしていなければ上るのは難しそう。

展望台からの眺め。これぞ中世ヨーロッパという印象。

広場に面したレストランの出入り口近くに、店の紹介パンフレットが数か国語で置いてあった。日本語はGoogleか何かの自動翻訳を使っているようで、「私たちの豊かな商人の家の限界を越えると」といった具合。変な日本語が好きな僕でも、これは?と首をかしげるほどの、店の信用を落としそうなくらいひどい内容だった。これなら作らない方がいいかもしれない。

旅の間、自動翻訳を数え切れないほど使う機会があり、英語と他のヨーロッパの言語の翻訳は完成度が高かったのに対して、日本語は変な言い回しになることが多かった。まだまだ発展途上のようで、これだけ技術が発展した以上、さらに改善が進むのだろうか、という気もする。

夕方、今度は旧市街の高台から。ここからの景色は、遠方に新しい建物が交じっていて500年くらいの時代が同居しているような、不思議な感覚だった。

翌朝は、宿から歩いていける芸術地区のようなところへ。

工場跡地を利用した風のパン屋「MUHU PAGARID」でシナモンロールを求めて食べてみたら、これまでで最上のおいしさ。ゆっきーによると、小ぶりの大きさで、巻きの数が多めなのも日本人好みだったとか。1時間後に追加で買いに行ったものの、早くも売り切れ。タリン市内に何店か展開していたので、別の店も当たってみることに。この店の看板商品・黒パンも買って食べてみたら、重さもボリュームもあり、薄味ながら濃さを感じて、クセになりそうな味だった。

別の店で朝ご飯を食べて、ヘルシンキから一緒に旅していた友達は帰国するためここでお別れ。一緒に行動したのは1週間ほどで、長いとみるか短いとみるか、どちらにしてもさびしい気持ちになった。

宿にいったん戻る途中、フリーマーケットで新たな服を手に入れて喜ぶゆっきー。

今度は1人でまち歩き。生鮮から日用品まで何でも揃いそうな、観光化されていない市場で、ヘルシンキに続いて「SIMA」を発見。思わず心の中でガッツポーズをした。

今度の「SIMA」は、微妙な色使いとデザインの女物の服。他の服の雰囲気から察するに、おばさん用か。札には「SIMA FASHION」と書かれていたが、僕にはちょっと残念なファッションブランドだった。

新市街を歩いた。ここにも昔の建物が所々に残っていて、国か市あたりが文化財認定をして、建物にプレートが貼ってある。旧型のトラムともよく合っていた。

このホテルは、エストニアが旧ソ連に占領されていた時代、外国人が唯一泊まることのできた宿泊施設で、秘密警察KGBの活動拠点になっていたという。現在は「ソコスホテルヴィル」になっている。建物の23階はKGB博物館として公開されていて、僕は訪れなかったものの、往時のホテル内での盗聴やその他の活動を実際に確認できるそう。

宿に帰る途中、別の「MUHU PAGARID」でシナモンロールを手に入れた。僕の姿とともに、うれしさ交じりに撮影。ただ、同じ系列でも店によってかなり味が違っていて、最初の店で体験したようなシナモンロールの感動は味わえなかった。別のパン屋でも買って食べてみたものの、同じ結果だった。

むしろ、この街での食の特筆はパンではなかった。それは何かと言えば。

ラーメン。夕方、タリンで展開している「Tokumaru」までチームシマの2人でラーメンを食べにいくと、思っていたよりレベルが高く、外国でもこんな味が出せるのかと2人で感心。この先しばらく、シナモンロールに代わってラーメン熱が盛り上がることになった。

タリン最後の日の夜、丘へ上がってみると、緑の映える街並みが広がっていた。この明るさで23時前になろうとしていた。