旅するなら今のうち?いまだ旧ソ連の色が濃いベラルーシ

ベラルーシはルカシェンコ大統領が25年間も君臨し、「ヨーロッパ最後の独裁国家」といわれて恐ろしいイメージが付きまとう。観光情報が充実しておらず、ネットでは「日本人の99%が行かずに一生を終える国」といった紹介を目にする。チームシマも当初は渡航先の候補に上げていなかったものの、ロシアから先をどのように回るか調べているうちに、外国人観光客を排除していたベラルーシが近年、門戸を開いていることに気づいた。

ベラルーシを訪れる際、以前は最長48時間まで滞在可能なトランジット(通過)ビザしか取れなかったのが、2017年2月には大統領令により、日本を含む80か国・地域の国籍を持つ観光目的の人が、いくつかの条件付きではあるもののビザなしで5日間、滞在できるようになった。その条件の1つが、ロシア以外からミンスク国際空港で空路、入国、出国することだった。

チームシマで、大統領のこの「気まぐれ」が続いているうちにベラルーシを訪れようということになり、リトアニアのヴィリニュスから空路でわずか35分の距離を行くことに。僕にとっては過去最短の国際線で、チケット代はLCCでもないのに燃料サーチャージ・諸税込みで6,000円(約46.2ユーロ)を下回る安さ。何かワナがあるんじゃないかと逆に不安になるほどだった。

ちなみに、大統領の「気まぐれ」は観光客を歓迎する方向に進み、僕たちが滞在中の7月24日、大統領はビザなし滞在期間を30日間に延長する法令に署名、同月から実施されている。

そんなベラルーシ、実際に行ってみると、首都ミンスクは道路が広く、街路の1ブロックが広く、建物の規模が大きくて、住宅はマンションばかり。あまりにも人工的で無機質な街並みに、数日間いるだけで息苦しさが募ってきた。車もそれなりに走っているのだが、官公庁のあたりに行くと昼間でも車や人影がほとんどなくなり、活気がなく不自然さが際立った。大統領は旧ソ連を強く意識しているというレベルを超えていて、懐古主義と思えるほど。

このベラルーシが持つ独特の雰囲気も、しばらく観光客歓迎の流れが続くうちに変わっていく可能性がある。もしこの国に関心があるなら、無機質な空間が色濃く残る間に訪れた方がいいのかもしれない。ひとつ付け加えておくと、同じ国でも田舎に行くと風情は違っていて、ヨーロッパの情緒があった。

べラヴィア航空のフライトに乗ってミンスク国際空港に到着。歓迎の言葉には現地語、英語に交じって中国語もあったのが印象的で、中国の影響力が強くなっているのかもしれない。

入国審査前に海外旅行保険のカウンターがあり、ここで加入しなければ審査時に難癖をつけられる可能性があったため加入。効力があるのはベラルーシ国内だけで、保険料は5日間で1人4ユーロ(約520円)と、さほど高くはなかった。フィンランド以来、続いていたユーロ圏ともしばらくお別れで、両替してから路線バスでミンスク駅まで向かった。

ここで面白い出会いが待っていた。今回の宿はブッキングドットコムで予約していた民泊の家。駅前にそびえるスターリン建築の「ミンスクゲート」の一角にあり、宿で待っていてくれたのは17歳の少年の通称・マイクと、英語が話せない母親だった。なぜ通称がマイクなのかというと、この宿泊施設が「Mike Apartments」(マイクのアパート)という名称だったからで、彼の本名は違っている。

そのようなわけで、言葉の理解できるマイクとやり取りして、その後、通信用のSIMカードの購入に付き合ってくれて、一緒に昼ご飯を食べにもいってくれた。マイクは軍関係の学校に通っているそうで、パルチザン闘争の話にやたら詳しかった。この国では間違いなくエリート層だろう。

マイクは散髪についても学んでいたことがあるらしく、僕の髪が長くなってきたので散髪したい、というと「10ドルで散髪してあげる」と言ってくれたので、面白がってオーケーした。宿に帰ると、リビングルームが床屋に早変わり。

僕の頭がいきなり変な形に切り刻まれた。僕には少しも分かっておらず、そばで見ていたゆっきーは、この先どうなるのかと不安がるよりは、面白がっていたようだ。

北の指導者並みのさらに変な頭に。しかし、マイクの顔は真剣そのもの。

終わってみると、予想外に素晴らしい腕前で、手際よく刈ってくれていた。

多少、金にうるさい部分はあるものの、チェックインからしばらくの間、付き合ってくれた優しさもあり、器用に何でもこなすマイクと別れ、チームシマも外に出て駅前を散歩し、スーパーで買い物。

怪しい日本語が書かれた麺や米が売っていた。

これは後日、異なる店で発見した変なフォントの焼きのり。こんな国でも、日本の食材のニーズはあるのだろうか。

さて、夕食のあと、散歩に出かけた。すると、別のスーパーで日本語を話す数人の若者グループと遭遇。ベラルーシ初日にして、日本国民の1%にも満たない奇特な人たちを発見してしまったのか。いや、きっと日本から観光客なり留学生なりがもっと多く来ているのだろう。どちらにしても、ベラルーシに来る時点でかなり奇特な人には違いない。

宿まで帰ってくると、ライトアップされたミンスクゲートが鮮やかに浮かび上がっていた。

翌日は僕1人でミンスクを散歩。街並みはとにかく無機質だった。

これは首相府。

建物の前にはレーニン像。旧共産圏でも目にする機会はほぼなくなっていて、希少な存在といえる。

これは、カトリックの教会の前にあるモニュメント。長崎の浦上天主堂の鐘をモチーフにしていて、広島、長崎、福島の土を入れたカプセルが埋められているとのこと。日本国旗も建てられていた。

ベラルーシで放射線や原発といえば、真っ先に上ってくるのが1986年に旧ソ連、現在のウクライナで発生したチェルノブイリ原発事故だ。当時の風向きが南から北だったため、風下だったベラルーシでも南東部を中心におびただしい被害が発生、隣国のウクライナやロシアとともに長年、後遺症に苦しんでいる。

アカデミー賞短編ドキュメンタリー賞を受賞した「チェルノブイリ・ハート」という映画がある。その中に、ベラルーシ放射線学研究所の科学者らが高校生たちの体内にあるセシウム137のレベルを計測する場面が出てくる。高い数値を示した生徒が食べていた食品のうち、イチゴジャムを調べてみると、多量のセシウムが検出され、科学者は「このジャムを食べてはいけないよ。ジャムを食べるたびにキミはセシウムを摂取している」と生徒を諭す。この映画では2002年のベラルーシを取材していて、事故から16年が経っても大きな爪痕が残っていることが明らかにされていた。

そこからさらに16年後の2018年、表向きはこの国には事故の影響が何も残っていないようにみえた。でも、実際にはどうなのか分からない。放射線は目に見えないものだけに、健康被害を受けていても分かりづらい。しかも、ここは旧ソ連に郷愁を覚える独裁者が君臨する、情報が統制された国。この国に生まれ育ち、この映画を見ていたとしたら、きっと漠然とした不安に駆られていただろう。ベラルーシに滞在中、YouTubeにアップされているこの映画を見ていて、そんなことを思った。

市庁舎がある辺りを通った後、今度は大統領府に向かうと、いかにも旧共産圏という風情の、数万人は入りそうなだだっ広い広場に出くわした。

大統領府の前。かろうじて写っている老婆の小ささが逆に印象深い。他にもいろいろ見て回ったものの、紹介したいのはこのあたりまで。最後の方は、こうした街並みにお腹が満杯、げっぷが出そうだった。エジプトの古代遺跡群やカンボジアのアンコールワット周辺など、著名な観光地を詰め込んで回っているとなってしまいがちな「遺跡疲れ」のような症状だった、といえば分かりやすいだろうか。

食材の買い物をして宿に戻り、宿で夕食を食べて、夜はチームシマの2人でライトアップと地下鉄の駅を巡った。

東側を思わせる彫刻と西側資本(ケンタッキー・フライド・チキン)のコラボとして絵になる建物。

昼間も遠まきに眺めた巨大マンション群。夜はライトアップされていると聞いていたものの、この時はあまり明るくなかった。

こちらはミンスクの地下鉄めぐり。ゆっきーのリクエストによりポーズをとってみたら、こんな出来栄え。地下鉄は各駅でキリル文字のフォントが違っていて、それを見るのが面白かった。

今度はゆっきーが映ったシーン。

共産主義のシンボル、鎌と槌がデザインされているホームもあった。

翌日は天気が悪く、地下鉄めぐりをしただけで1日が終わった。さらにその翌日は、僕1人でミンスク郊外まで2つの世界遺産を訪ねることに。郊外1人旅は、いろいろあったラトビアのリガ以来。今回、チームシマは仲違いしたわけではなくて、ゆっきーはミンスク郊外にはあまり関心がなく、宿で静養することにしていた。

ミンスク駅のバスターミナルから、都市間を結ぶマイクロバスに乗って約100キロ離れた目的地へ。

最初に向かったのは、16世紀に建てられたネスヴィジ城。停留所から降りてしばらく歩いていると、道先案内には現地語、英語に交じってここでも中国語が。ちなみにベラルーシに滞在中、中国語を話す観光客はほとんど見かけなかった。

続いて道端に現れたのは、毛糸ばかりを集めたキオスクのようなお店。旅でこのようなスタンドを見たのは1度きり、後にも先にもなかった。

城に続く架け橋。


お堀に写る城。曇り空だったが、先ほどの橋とともに雰囲気があった。

城に入ってから見える中庭。展示室も15部屋あり、暮らしぶりをよく理解できて、ミンスクの無機質な街にウンザリ気味だった身には見ごたえがあった。ガイドに率いられた観光客が多かった。

ネスヴィジの街でバス待ちの間、歩いていて見かけた青空マーケットは、さすがにどこにでもありそうな田舎風情。次は、約30キロ離れたミール城へ。

城内はネスヴィジ城よりも狭くて見どころも少なく、外観の方が美しくてよかった。旗を手に写真撮影している人もいたが、後で調べてもどこかの国旗ではないようで、何の旗だったのか謎のまま。この城は地元住民の行楽地になっていて、子どもの姿が多かったように思う。

ミールからミンスクに戻るときには、バスが定刻を過ぎても来る気配がなく、しかもバス停の正しい位置さえ分からないという状態。焦りを覚え始めたところでマイクロバスが来て、無事に乗り込めた。

運転手が「SHIBUYA TOKYO」と書かれたTシャツを着ていることに気づき、思わず凝視。オレンジに黒というジャイアンツカラーと渋谷の取り合わせがマッチしておらず、これが「YOMIURI TOKYO」なら巨人ファン垂涎だろうなあ、という話は置いておくとして、背もたれで全体のデザインが見えなかった。

ミンスク駅前に着き、運転手が降りたところで再度確認。「東京都」の文字とともに、魚をくわえた犬のような絵も描いてあった。どこかに売っていたら欲しいと思ったものの、これ以降、1度も見かけることはなかった。

想像ほど謎めいていなかったベラルーシも5日目の最終日。あまりに宿の居心地がよく、引きこもり状態に近かったゆっきーともども宿に別れを告げた。

空港に向かう前に昼食。ベラルーシでは自炊が多く、久しぶりの外食だった。ラトビアでお世話になった食堂「Lido」がミンスクにもあり、冷製ボルシチを注文。味はリトアニアで食べたボルシチよりだいぶ落ちる印象だった。

バスに乗って空港へ。行きは雨が降っていてしっかり見られなかった建物も目に焼き付けた。

この奇をてらったようにしか思えない建物は国立図書館。この調子だから、この国がよく分からなくなってくる。

空港のトイレのドアは壁画の一部になっていて、トイレに入りたい者をあざむく迷彩をまとっているよう。

「ダーシャ愛」と書かれたTシャツを着た青年とすれ違った。写真を撮っていいか尋ねるとあっさりオーケー。日本語が好きなようで、ダーシャは彼女の名前だと教えてくれた。何ともなしに原辰徳の「ジャイアンツ愛」を思い出してしまったが、個人的にはこの「ダーシャ愛」の方が断然好きだ。

最後まで面白い小ネタが尽きなかったベラルーシから、次はウクライナへ。旧ソ連をめぐる旅はまだ続く。