アフリカを縦断すること それぞれのフロンティア

アフリカを陸続きで回りたい、と思いはじめたのはいつだったか、いまとなっては思い出せない。

学生時代に、アフリカのケニアと縁をつくって活動していた友達や知人がいた。しかし、そのころの僕の最大の関心事といえば、火の車となっていた我が家の家計の金策で、友達らの活動は横目で見ているだけだった。はなから勝負できる土壌にないと諦めていた。

いま思うと、あのころはいろんな意味で若かったのだろうし、経験を積んだ今の自分の判断力があったなら、もっといろんな策を練っただろう。しかし、これもこの年齢だから言えることだが、「たられば」は語ったところでどうしようもないものだ。

アフリカに対する思いを強める1つのきっかけとなったのは、2010年春のエジプトへの一人旅だったと思う。それまで勤めていた新聞社を辞め、地元に戻って一から人生を見直していこうと思った矢先、1か月ほど休暇ができた。そのうち半分を使ってエジプトを旅した。

学生時代と同じく、ルートも宿も何も決めていない旅だった。エジプトに向かう航空券でさえも、出発の数日前に手配して、旅行会社から緊急発券してもらったほどギリギリまで、何の用意もしていなかった。

なぜ、そのときにエジプトを選んだのか。それも学生時代にさかのぼる。卒業旅行として中東に行くと決めて、1か月あまりの時間でトルコ、シリア、レバノン、ヨルダン、イスラエルを旅した。時間が許せばエジプトも訪れようと思っていたが、もう少しのところで及ばなかった。そして、いつか必ず足を伸ばしたいという希望だけが長い期間、僕の周辺をつかず離れずさまよっていた。その希望を叶える時がきたのが、そのタイミングだった。

「南アフリカで1日に2回も強盗現場を目撃して、もうこの国にはいられないと思った。マジで怖かった」
エジプトの首都・カイロでは、同じ宿に泊まっていたカップルや旅人からアフリカを東回りで縦断してきたという話をいくつか聞いた。その多くが刺激的だった。自分の足でもアスワンやアブ・シンベルなど、南の隣国スーダンにも近い地方に行くと、以前の旅でも出会っていたアラブ系とはまた異なった、アフリカ系の黒い肌を持つ人々が多くなった。僕にとって未知の世界だった、サブサハラ・アフリカがもうそこまで見えていた。

一方で、旅の技術も格段に進歩していた。当時、日本に就航したばかりのエティハド航空は、今でこそ当たり前のeチケットで、航空券を手元に持っておく必要はなかったし、旅に持っていったブラックベリーのスマートフォンは、エジプトで何度かWi-Fiをつかんで多少は使うこともできた。外国でも、インターネットで宿泊予約をはじめとする旅の手配を完結できる時代が到来しようとしていた。

その後、日本にいながら外国の知識を得ていった。そして目指そうと思ったのが、西回りでのアフリカ縦断だった。

幾多の旅人が足を運んでいた東回りよりもビザや移動、治安に問題があって、はるかに難易度が高そうだったし、誰もが憧れるような観光地に恵まれておらず、情報量が圧倒的に少なかった。西アフリカの国々を網羅した日本語の本は、僕の知る限りでは1999年に発行された「旅行人ノート2 アフリカ 改訂版」(旅行人編集部著)が最後で、日本語ではインターネットでも、ごく限られた情報しか集められなかった。それが逆に、西回りのルートへの興味をそそる要因になっていった。

アフリカへの思い入れを抱いて日本を出たのが2018年6月。かつてアメリカの西部開拓時代にあったフロンティアは、太平洋岸に向けた開発が進むごとに減っていって最終的にはなくなってしまったように、僕の西回りアフリカ縦断も、先に進むにつれてどんどんフロンティアはなくなっていくはずだった。実際に、僕の「旅の版図」は次第に広がっていた。

その後、いくつかの要因が重なって1度、日本に帰ることになった。僕のフロンティアはまだ十分に残っていた。

「近いうちに必ず西アフリカに戻ってくる」
強い気持ちでチャンスを待ち、再びアフリカにやってきたのは2020年の初頭。それから2か月余り、3月も半分が過ぎたころには、新たに出現した感染症によって、旅を強制的にストップせざるを得ない状況に陥っていた。しかし、僕への影響は小さいものにとどまった。旅に出る前から、3月末までには日本に戻らなくてはならない事情があったからだ。そしてそのころには、旅の版図としてのフロンティアは、僕にはもうなくなってしまっていた。流れに身を任せているうちに、帰国への流れができていった。

2022年に入り、最後にアフリカへ足を踏み入れてからも2年近く経った。日本に戻ってきて、仕事をしていると、あのアフリカでの日々は何だったのか、ふと考え込んでしまうことがある。もう思い残すことはないはずなのに、あのアフリカに何かを渇望している。

そんな自分自身に嫌気がさすことも度々あった。過ぎ去った日々に思いをはせるより、目の前のことにもっと目を向けたほうがよいのでは――そう思ったことも数知れない。

そして気づいた。物理的なフロンティアはなくなってしまったとしても、心のフロンティアは今もずっと生きていると。そのフロンティアは、ウキウキしたり、けだるかったり、楽しかったり、面白くなかったり、そして何も感じなかったりする日常とはまた別物だということも。

訪れたところがアジアやヨーロッパのどこかであったとしても、目的がビジネスやボランティアであったとしても、決してこういう思いにはならなかったと思う。語弊を恐れずいえば、日本では到底考えられないほど不便で、不衛生で、不条理で、見るべきものが少なく、世界的には見捨てられているとしか言いようのないところも多い、西回りのアフリカを放浪する旅だったからこそ、僕の中で存在し続けているのだ。

しかしそれは、僕にとってのフロンティアがあのアフリカにあった、というだけに過ぎない。フロンティアはアフリカに行かなければ見つからないものではないし、どこかを旅しなければ見つけられないわけでもない。何かの制約を受けたり規制されたりもしない。それぞれの内面に広がっているものだ。

僕は人生の旅を続ける。すでに見えているフロンティアと、まだ気づけていないフロンティアを求め続けて。アフリカは遠くにあって、今も近くにいる。僕の心に住んでいる。