セネガル その2 ダカールの日本人宿を拠点に、残り少ない2人の時間を過ごす

ゆっきーの一時帰国があと5日後に迫っていたチームシマは、セネガル北部のサン・ルイから、ゆっきーが日本に旅立つ地となっている首都のダカールに向かおうとしていた。

ダカールといえば、西アフリカの拠点都市の1つ。旧フランス植民地だった西アフリカ8か国に共通する通貨・セーファーフランを発行する西アフリカ諸国中央銀行は、ダカールに本部がある。

そして、さすがは大都市ということもあって、ここ首都ダカールには、日本人が経営するゲストハウスが2軒あるらしい、ということをネットで確かめていた。今回はそのうちの1軒「シェ山田」に連絡して、予約を取りつけていた。

ゆっきーは旅の最後、日本人宿に泊まれることを楽しみにしていたようだ。そして僕には、ひさしぶりの都市らしい街を訪れることになると思い、ちょっとしたワクワク感があった。しかし、その期待は少し外れることになった。

順調にいった長距離移動

僕たちはサン・ルイを12月7日の午後に出発した。サン・ルイとダカール間は乗り合いのセットプラスで約6時間と踏んでいて、午前中にサン・ルイを観光してからでもダカールにはその日のうちに到着できると計算していた。

ただし、ここは西アフリカ。日本の高速バスでの長距離移動のように、ある程度時間が読める保証はなく、トラブルがいつどこに潜んでいるか、知る由がなかった。

まずは来た道と逆、サン・ルイ島から本土まで、フェデルブ橋を渡ってダカール行きの乗り合いバンのターミナルへと向かった。

セットプラスはさほど待たずに満員となり、僕たちチームシマは最後列に乗って出発。道中はアスファルト舗装された道の移動でかなり快適で、車窓からの景色を楽しむ余裕もあった。

ここセネガルでは、12月がスイカのシーズン真っ盛りらしい。前回、モーリタニアとセネガルの国境ではバケツリレーのようにして運ばれているのを見かけたが、サン・ルイからダカールに向かう道中でもよく売られていた。中には、暑さによる傷み防止のためか、タイヤの上に飾っているところもあった。

途中で休憩中に運転手から乗客に配られたビニールパック製の水。僕が見たのはこのときが初めてだった。のちに、これが西アフリカのスタンダードなのだと知った。

ビニールパックはだいたい400~500㏄入りで、ペットボトルのミネラルウォーターより格段に安く、国によっては1袋5円前後で手に入る。歯で袋を破って吸うスタイルになっていて、ペットボトル入りのミネラルウォーターに比べて現地の人たちにもよく飲まれているが、飲み終えたあとは道に捨てられたりして、ごみの原因にもなっている。しかも、物によっては変な味もしたりして、一定の品質が確保されているとは言いがたい。

休憩中には、しつこく寄ってくる物売りにも遭遇した。モーリタニアより南になると、車で移動中でも冷房はかからないので、どうしても窓を開けての移動になってしまっていた。そして、ここセネガルでは、車が止まっていると、開いた窓から物売りの人たちがにゅっと手を入れて、ミカンなどの商品を突き出してきた。

セネガルでは、この国独自のイスラム教団がある。代表的なのはムリッド教団で、その信徒たちは、こうした物売りに代表されるような、インフォーマルセクター(非公式経済)の重要な担い手になっているという。物売りの押しの強さは、それまでに旅してきたヨーロッパはもちろん、アフリカ大陸に入ってからも初めてで、かつて旅したことのあるインドあたりの強引で粘り強い客引きを思い起こさせた。

また、こうしたイスラム教団の教育施設で学ぶ子どもたちはタリベと呼ばれ、ダカールなど都市部では、物乞いをするタリベが社会問題になっているという。この話題はまた別の機会に触れたい。

さて、ダカールに近づき、郊外でゆっきーが車外の光景を撮っていると。

なぜかカメラ目線をくれていた。

こちらは、頭の上に載せたオレンジに合わせたかのような服装で、なかなか決まっていた。

この3枚は僕が撮った写真。サン・ルイに続いてダカールも海に面した街で、目的地が近づくと、この日の午後、出発したときと同じように海岸線が見えてきた。鉄道の線路や立派な高架橋もあり、いよいよ大都市圏に入ったことを思わせた。

街の活気もこれまでとは違っていた。闇市のような市場、道路に連なる車とクラクションの数々、立派な集合住宅。いよいよモロッコ以来の大都市にやってきた。

18時30分ごろ、ダカール郊外にあるターミナルに到着。ここから宿まではまだ離れていたので、乗り合いタクシーに乗って市街地方面へ。そして、特にトラブルもなく、この日の宿のシェ山田に着いた。

西アフリカにしては非常に順調な旅路だったが、空は真っ暗になっていた。

意外と土っぽい首都

シェ山田はアルファベットで書けば「Chez Yamada」、フランス語部分を直訳すれば「山田の家」ということで、オーナーはその名の通り山田さん。

まずはチェックインして、山田さんのおすすめを聞き、宿の近くにあるセネガル料理店「Chez Badji」へと向かった。

行ってみると、まるでラウンジかディスコと見まがうような暗い店内照明。少し戸惑ったものの、山田さんが推すなら間違いはないだろうということで、セネガル料理のヤッサプレと、モロッコでおなじみだったクスクスを注文。

これが噂にたがわず、とてもおいしく、しかもリーズナブルで、僕たちはリピートすることになった。

翌朝、僕は宿の周辺を散歩がてら、銀行を探して現地通貨をキャッシングすることに。

前日は暗くて雰囲気がよく分からなかったが、宿の前は舗装されていない道路が広がっていた。ダカールはモーリタニアの首都・ヌアクショットと違って道路も全面舗装されているのだろうと勝手に想像していたが、どうも違うようだった。

ここはインドなのだろうか……?道路に牛までいた。

それでも、宿のエリアを抜けるとアスファルトの道路が広がっていた。幹線道路には、この国のフラッグ・キャリア、エア・セネガルの特大の広告看板もあった。

この地図に刻まれていたのはガンビアの首都・バンジュール、ギニアビサウの首都・ビサウ、ギニアの首都・コナクリ、マリの首都・バマコ、ブルキナファソの首都・ワガドゥグ、コートジボワールの最大都市・アビジャン、ベナンの最大都市・コトヌーなど。

僕が1人旅でこれから向かおうとしている都市が、地図に映し出されていた。飛行機で行けば数時間に過ぎないものの、これを陸路で旅をしながらたどろうとすれば、どれほどの時間がかかるのだろう。想像がつかなかった。そして、上の方にポツンと記されたフランスの首都・パリに滞在していた日々が、はるか昔のように思いだされていた。

無事に銀行を探し当て、セーファーフランを引き出して、宿へと戻っていった。

宿のある通りまで戻ってきて、よく眺めると、未舗装路に面しておしゃれな住宅が立ち並んでいた。その中にあるのがシェ山田の建物。宿に戻って一息ついた。

ちなみに、シェ山田には宿の周辺の情報が詰まった地図があり、とても役に立った。上の写真で紹介しているのは近距離の地図で、他に中距離とダカール全体の地図も用意されていて、オーナーの山田さんの苦労がしのばれた。

思い返すと、モロッコのトドラ渓谷で泊まった日本人宿「ゲストハウス アーモンド」にも、ここまでの情報量はなかったものの、日本語の情報が入った地図があった。こういった細やかな配慮が日本人宿の良いところだと思う。

この日の昼過ぎから、ゆっきーとともに宿の近所を散歩しつつ、昼ご飯を食べにいった。

今日の目的地は、日本人バックパッカーがブログでほめ称えていたローカル食堂風のセネガル料理店「Restaurant Amina Frerres」。今日3度目の宿の前の通りは、まだ未舗装路に心がなじまず、道路に思いのほか凹凸があるのも気になった。

目的地は宿から歩いて15分ぐらいの道のりで、こみいった場所にあってなかなか発見できず。

すると、ゆっきーが通りがかりの散髪屋の看板に反応。これが後日の伏線になった。

セネガル料理店に着き、2人ともチェブジェンを注文した。

チェブは米、ジェンは魚を意味していて、魚の炊き込みご飯のようなもの。

期待を胸に料理をいただいたものの、思ったほどおいしいとは思わず。まあでも、チェブジェンはたまたまだったのかもと思って、後日、訪れて別の料理を注文してみることにした。

そして、この日はスーパーでちょっとした買い物をして、あとは宿でゆっきーも僕もそれぞれ先の準備をしながら、のんびり過ごすことにした。

こちらはシェ山田の共有スペースで、日本語の本がそろっていた。情報ノートもあり、ダカールやセネガルの情報のほか、西アフリカのいくつかの国のビザ取得や国境越えのことも書いてあった。日本語のこうした情報に飢えていた僕は、食い入るように読んだりしていた。

北朝鮮が造った巨大な像と、この国の闇

ダカールは、僕にとっては子どものころから「パリ・ダカールラリー」の名で知る地だった。

パリをスタートしてサハラ砂漠を縦断するこの過酷な耐久レースは、1980年代半ば以降、三菱自動車のパジェロが大活躍したため日本でも時々報道されていた。ただ、このレースは主に治安上の問題により、2009年から南米を舞台に、近年ではサウジアラビアで開催されている。レース名は「ダカールラリー」として受け継がれている。

ほかにダカールと聞いて思い当たる点といえば、西アフリカの拠点都市3つのうちの1つとして挙げられる、ということ。他の2都市はナイジェリアの最大都市・ラゴスと、先のエア・セネガルの地図にも出てきたコートジボワールのアビジャンだ。逆にいえば、僕がここにやってくるまでに、ダカールに対して持っていた先入観はその程度しかなかったともいえる。

あまりにも知識に乏しく、滞在前にダカールについてある程度、下調べしていた。そして、この街には世界最大級の銅像のモニュメントがあることをつかんでいた。

ダカール滞在3日目は、ゆっきーとともにこの街が誇る巨大モニュメントへと向かうことにした。

出発すると、ゆっきーがふと目に付いたのが、宿から近いキヨスクのような店。衛生面が気にかかり、遠目に見るだけで利用することはなかった。

巨大モニュメントはかなり遠くからでも姿を確認できた。上の写真の真ん中やや右寄りの奥に見えている男女と子どもの像がそれ。

しかし、僕たちチームシマのチームメイト、ロバ太郎が気になったのはセネガルの車のナンバープレートだったらしい。この国の地図がデザインされていて、かわいらしかった。

一方のゆっきーが気になったのは、この日も散髪屋の看板だったらしい。上の写真の店は、舗装された道路に入り、モニュメントも近づいてきたところで見かけた。

いよいよモニュメントが迫ってきて、全貌があらわに。

このモニュメントは「Monument de la Renaissance africaine」、日本語では「アフリカ・ルネサンスの像」で、高さ52メートル。アフリカの黒人の一家が、赤ん坊の指差す大西洋上の西の空を見上げるデザインで、北朝鮮により造られたものだという。以下、ウィキペディアから抜粋して引用。

セネガル大統領のアブドゥライェ・ワッドは、2006年に「西アフリカの国に観光客を惹きつけるような公共記念碑の設置が望ましい」と述べ、この構想に基づいて「アフリカ・ルネサンスの像」の建設が計画された。設計と施工は北朝鮮の国営企業、万寿台(マンスデ)海外開発会社に発注された。外観のデザインは、ルーマニア生まれでパリ在住のヴィルギル・マゲルサンという社会主義リアリズム彫刻を量産している作家。フランスからの独立50周年記念日となる2010年4月3日に築造記念セレモニーが催された。

公表された建設費は1,200万セーファーフラン(注:当時のレートで約25億円)で、政府所有地を北朝鮮に譲渡し、北朝鮮が土地を他者に転売することで建設費の支払いがなされたと言われている。

このような経緯があることから、このモニュメントを政治腐敗の象徴ととらえている国民も少なからずいるようだ。

日本のTBSの報道によれば、このモニュメントは大西洋を挟んだアメリカ・ニューヨークの「自由の女神」の方角を向いて建てられているという。アフリカでは、奴隷貿易と植民地支配からの脱却こそ「自由」と同義であり、それを表現するためなのだそう。

それにしても、北朝鮮の労働者たちがわざわざセネガルまで来て自由を表現するモニュメントを造るとは、何という皮肉だろうと思わずにはいられない。

ようやく、モニュメントを望む階段のところまできた。

ロバ太郎も見上げてみた。こうやってみるとロバ太郎もかなり大きな存在のように見えた。

だがしかし、遠近感のなせる業だった。ロバ太郎はバタリと倒れこんでしまった。

187段あるという階段を上がりきって、僕は360度カメラでモニュメントを撮影。

単純に下から覗くとこんな感じ。圧迫感があった。

ひさしぶりに、僕たちとロバ太郎のチームシマトリオで3ショット。

周りの景色もよく、灯台らしきところも見えた。さらにその奥には、アフリカ大陸最西端のアルマディ岬まで見通せた。ただ、この最西端はリゾートホテルの敷地内になっているらしく、今回の滞在中に訪れようという気にはならなかった。

これまでに僕が足跡を残したポルトガルのユーラシア大陸最西端最南西端は公共のものだったのに、アフリカ大陸では私有地になってしまっていた。果たしてこれでいいのだろうか。いや、むしろ、こうした重要な地がリゾートとして開発、民有化されているところに、つかみどころのないアフリカらしさが表れているのかもしれない。

僕たちがいる場所の近くには、アフリカ大陸を模したようなオブジェもあった。

アフリカ・ルネサンスの像の中は展望台になっていて、入場料を払うと中が見られるらしい。しかし、僕たちは台座部分から見た景色で十分満足したので、昼ご飯を食べに宿の方へと戻っていった。

ちなみに、展望台への入場料は6500セーファー(約1,300円)で、この入場料収入のうち35%が、開業当時の大統領の懐に入ることになっているという。これまで実体験としては感じていなかった、この国の闇の部分、政治の汚れ具合を示しているようだった。

ゆっきーが最後にはまったもの

時刻は12時過ぎで、ちょうどお昼時だった。しかし、前日も訪れたセネガル料理店は14時ごろの開店だという。日本の感覚からすると、かなりずれた店だった。やむなく、しばらく街中を散歩することに。

すると、ゆっきーが怒涛の散髪屋チェックを始めた。

この日、ゆっきーが撮りだめした写真はこんな感じ。散髪屋に描かれている絵はなぜ真横からなのか、答えはよく分からなかった。斜め上からのほうが髪型がさらに理解しやすいように思ったものの、これはこれで芸術的な気がする。

僕は僕で、各国の道路標識やトイレの案内サインを撮りだめしていた。ゆっきーはそうではなく、散髪屋の絵のような地域性あふれるものに関心がいっているようで、お互いの嗜好の違いが感じられた。

こうしてゆっきーと街歩きしたり、観光に行ったりできるのもあとわずか。この日は特に、しみじみと感じていた。過酷さを増すであろうこの先の西アフリカの旅で、不慮の事故や事件に巻き込まれたら、もう2度と会えないかもしれない、という思いも頭の片隅にあった。

前日に続いてのRestaurant Amina Frerresは、14時の少し前にオープンして、僕たちは一番乗り。

この日、注文したのはチェブヤップとヤッサプレ。今回、初登場のチェブヤップは「チェブ」が前回の投稿でも触れたように米を意味していて、ヤップは肉。いわば肉の炊き込みご飯のようなもの。サン・ルイでも食べたヤッサプレは、鶏のタマネギ煮込みソースがけといったところ。

写真はチェブヤップで、見た目にもおいしそうには映らなかったが、実際においしいとまでいえるものではなかった。この店に通うのはこれで最後にした。

この日はスーパーで買い物をして、宿でパソコンの作業をしながら晩ご飯。

ゆっきーと一緒にいられるのもあと3日となり、不安と悲しさが入り混じってきていた僕に対して、ゆっきーは着々と帰国準備を進めていた。半年ぶりの日本を前に、心が浮き立っているようにみえた。

ただ、僕も感傷に浸っている余裕もなく、これから向かう国のビザをどの国のどの場所でどのように取るのか、入念な計画を練る必要に迫られていた。

旅の情報

今回の宿

シェ山田
個室 2人宿泊 5泊 110,000セーファー(約21,000円)
設備:共用バスルーム Wi-Fiあり 蚊帳あり
予約方法:ホームページからメールで連絡
行き方:ワカム(Ouakam)地区の薬局「Pharmacie Atlantic Mamelles」を目印に、東に歩いて2分。
その他:2018年12月当時、ワカムにはシェ山田から東に約1.5キロ、歩いて20分ほど離れた距離に「和心」という日本人宿もあった。僕たちチームシマがシェ山田を選んだ理由としては、ホットシャワーが出ることと、洗濯が無料で、洗濯かごに入れておけばお手伝いさんがやってくれるサービスがあったことが決め手となった。オーナーの山田さんは気さくな人で、毎日、海まで出かけて趣味のサーフィンにいそしんでいる姿が特徴的だった。2022年7月現在、Googleマップには宿の情報が載っているが、長期化したコロナ禍に伴い閉業している。

訪れた食事処

Chez Badji
注文品:(初回)ヤッサプレ、クスクス、ジュース2つ 3,500セーファー(680円)
行き方:シェ山田から南東に歩いて7分。
その他:店の作りも照明もラウンジのような雰囲気の店内だが、味のほうは確かで、スタッフも気さくで飾るところはなかった。気分よく食事をとることができた。

Restaurant Amina Frerres
注文品:(2回目)チェブヤップ、ヤッサプレ、ジュース2つ 5,000セーファー(970円)
行き方:シェ山田から東に歩いて15分ほど、ワカムにある球技場「Stade Municipal de Ouakam」の南側の道沿いにある。
その他:店はシェ山田から和心まで向かう途中の3分の2ほど行ったところにあった。周辺は様々な店があり、シェ山田周辺の住宅街の雰囲気とは異なっていた。