ギニア その3 この年の終着点・コナクリで久しぶりの達成感を味わう

西アフリカの国ギニアの首都・コナクリまでやってきた僕は、近隣の国のビザを得るため滞在を続けていた。数日してようやく、北東に隣接する国マリのビザを得たものの、この国以外では申請が難しそうだったナイジェリアのビザをどうしても手に入れたかったため、さらに滞在期間を延ばすことに。いつの間にか暮れも押し詰まり、大みそかまであと3日に迫っていた。

ギニアビサウから行動を共にしていたブラジル人の旅人、パウロは先に、マリに向かう途中にあるギニア中部の高原の町・ダラバへと旅立ち、僕は見どころのない首都にひとり取り残された。

ナイジェリア大使館でようやくビザを申請

28日の朝早くにパウロと別れた僕は、しばらく経ってから、毎日の習慣となっていた朝ご飯の会場に行った。前日までにも見かけたフランス人、イタリア人と一緒になったものの、パウロがいなくなると、途端にコミュニケーションを取る気がなくなってしまっていた。

いったん部屋に戻り、準備をして出かける前に、部屋で洗濯して干していた服が目についた。赤土の汚れが取れずに残っていた。現地の大人でも、こんな服を着ている人は見かけない。ぱっと見で外国人と分かる僕がこの薄汚れた服を着ていると、もしかしたら現地の人から「金をくれ」とは絡まれない利点があるかもしれなかった。

8時半の少し前に宿を出て、この日もまずWi-Fiを使うため、スポーツをメインにした複合施設のBLUEZONEに行った。朝はネット回線も早く、いろいろ情報収集ができた。

そして、いよいよナイジェリア大使館へ。館内で15分くらい待たされ、4日前と同じ女性が対応してくれた。

持ってきた書類を確認してもらっていて、僕が日本人だと分かると、この女性は「ナイジェリアに来る日本人は皆いい人ばかり」と笑顔を見せた。そこからは、申請用紙の書き方をマンツーマンで指導してくれて、1枚書き損じをしても辛抱強く待ってくれた。

手続きが終わり、「いつビザができるのか」と聞くと「月曜の午後2時に来なさい」。31日に来るようにという指示で、つまり大使館は大みそかでも営業しているらしい。このあたりは日本の感覚とだいぶ違う。

パスポートは大使館に預けたままになり、これでギニアでの年越しがほぼ決定してしまった。その一方で、申請費用の30万ギニアフラン(約3,700円)を支払ったので、ビザが取れることはほぼ確実になった。時間をかけた、ここコナクリで最大のミッションをやっと達成できる!僕は胸をなでおろした。

だが、不安はまだあった。今回の観光ビザは空路で出入りする行程で書類を作っていた。ひょっとしたら、ビザも空路限定と指定されるのではないか。そうなれば僕が計画している、陸路で西アフリカを回る計画はおじゃんになってしまう。

ただ、それはこの段階までくると案じても仕方なかった。ビザを受け取ってみればはっきりすることだ。

大使館を出てからは、再びBLUEZONEへ。

Wi-Fiは朝に比べると遅くなっていたが、動画を撮影して、ビデオメッセージとしてネット経由で日本に送ってみた。上の画像は、動画をキャプチャーとして切り取ったもの。どうやらうまいこといったようだった。それにしても、服の汚れがやはりうさん臭さを感じさせた。

レストランのオーナーとの会話

夕方、宿に戻って、モロッコの首都ラバトで買って以来、旅のお供となっているコイルヒーターでスープを作って飲み、そこからいつものレストランへと出かけた。

この日、頼んだのはパタヤと豆とポテトフライという組み合わせ。この日のパタヤにはチーズが入っていて、「今まで食べた中でいちばんおいしかった」と伝えると、オーナーと給仕の少年が、僕の目の前で売れ残っていたパタヤを食べていたのが印象に残った。客に見えるところでのそのような行為は日本ならまずありえないが、やはりここはアフリカ。むしろ、日本人は他人の目を気にしすぎる特性があるのかもしれないとさえ思う。

この日は、オーナーがウキウキしているのがこちらにまで伝わってきた。

「店に食べにきた中で気になる女の人ができたんだ。今夜、仕事が終わった後に会う予定にしているんだよ」

「へえ、どこの人なの?」

「この店の隣の病院に勤めている人だよ」

「じゃあ明日、結果を聞かせてね」

そう伝えて宿へと戻っていった。

翌日は土曜日。各国の大使館は閉まっていて、そもそも僕はパスポートをナイジェリア大使館に預けたままなので、ビザ関係では何も身動きが取れなかった。

BLUEZONEまでパソコンを持っていき、Wi-Fiを使おうとした。手持ちの本や動画のストックがなくなってきて、補充したかったことに加えて、近く向かう予定のシエラレオネなどに関係する動画も探したかった。スマートフォンに現地のSIMカードはさしていたものの、3GBのデータ量では動画のダウンロードなどできない。日本にいると、必要なときに情報にアクセスできる環境があるため、こんな渇望感を感じることはなかった。

それにしても、ギニアビサウ以降のWi-Fi事情は劣悪だ。この日、BLUEZONEのWi-Fiは絶不調だった。使用制限の4時間がくる30分前になっていきなりWi-Fiが流れだし、西アフリカ発の国際問題となった「紛争ダイヤモンド」のドキュメンタリー動画をダウンロードできた。この紛争ダイヤモンドについては、またどこかで言及したい。

夕方、少し街を散歩してからいつものレストランへ。昨日の続きが気になっていた。

この日の注文はパスタ。チーズがたっぷりかかっていたのがうれしかった。毎日通っているので、サービスしてくれているのかもしれなかった。

「昨夜はどうだったの?」

「それがさ、女の人のほうに急患が入って会えなかったんだよ」と、オーナーはかなりがっかりした様子。その女性の話が本当だったのかどうかは定かではないが、オーナーの心中は僕には想像がつかなかった。

というのも、そもそもオーナーは妻子持ち。そこは国などによって価値観が大きく違うので、僕はあえて突っ込もうとは思わなかったが、不穏さも感じられた。このオーナーは、ギニアの中ではいわゆる「甲斐性のある男」なのは間違いなく、女性も寄ってくるのかもしれない。

「ギニアを出たら次はどこにいくの?」とオーナー。

「シエラレオネに行きたいと思っているよ。ただ、まだビザがなくて、ギニアとの国境で取りたいんだけど、取れるかどうか分からなくてね」

「近所に住んでいるイタリア人がギニアとシエラレオネを行き来しているから、現状がどうなっているのか聞いておくよ」

「ありがとう」

さらにオーナーと話し込んでいると、「ビールは飲まないのか?」と聞かれた。

「パウロがアルコールを飲まなかったように、僕も飲まないよ」

僕は思わずウソを言ってしまった。

「そうなのか。今夜は仕事上がりにビールを飲みに行くんだけど、飲めるなら一緒に行きたいと思っていたんだ」

妻のゆっきーが日本に一時帰国して以来、僕はほとんど飲んでいなかった。久しぶりに飲みたい気分にもなっていたが、僕は酒に弱く、この国で酔っ払って面倒が起こすと後がしんどそうだったので、断って正解だったと思う。オーナーには、31日の昼にはコナクリから去りたいという話もしたものの、先はまだ読めなかった。

宿への帰り、僕の頭の中で、パウロと何回かしたやり取りを振り返っていた。

いつものレストランを行き来するとき、宿に近い道を歩いていると独特のにおいがする一角があった。そのそばには、窓ではなく、すだれのような格子で区切りられたカフェがあり、パウロはそこを通り過ぎると「におったか?またマリファナを吸っているヤツがいるよな」などと話しかけてくるのだった。

僕はマリファナ、つまり大麻を吸ったことがなく、そのにおいが果たして大麻だったのかどうかは分からない。ただ、その店は煙でくすぶっていて、道路にまで漂ってくるにおいは、たばこの臭いとは明らかに違っていた。

そのカフェはBLUEZONEからも近かった。参考までに、前回の地図をもう1度載せておこう。

この日の帰り道、上の写真の左側に見える建物群を通り過ぎたところを右に曲がると、その通りがあった。パウロや僕は、完全に暗くなってからはその店の前を通らないように気をつけていた。

年末の街を動画で撮ってみた

翌30日、いつも通りの朝ご飯。いよいよここコナクリでやることがなくなってきて、朝、BLUEZONEに向かうまでの様子を動画で撮ってみた。いずれも僕の解説付き。

まずは宿の部屋があるフロアから。

次に、宿の建物がある駐車場。撮影中にちょうど教会の鐘の音が鳴っていた。出入り口には一応、門番のような人がいた。そして、この西アフリカでもジョギングにいそしんでいる宿泊者がいた。

宿の目の前の道。コナクリはタクシーが黄色の車体をしていて分かりやすかった。最後、僕が右に曲がったところを左に曲がると、先に触れた例の怪しいカフェがあった。

道路で練習するサッカー少年たち。コナクリの初日に見かけた子どもたちより年齢層は上。街中に廃車が転がっているのは西アフリカならではの光景で、僕はこの程度では動じなくなっていた。

BLUEZONEの出入り口前。毎日、気温は25度以上になって暑かった。

BLUEZONEの中に入ると、道路沿いとは違って落ち着いた環境が広がっていた。まさしく都会のオアシスのようだった。

しかし、この日はいつものようにWi-Fiを使った作業をしていると、サッカーのユニフォームを着た小学生くらいの子どもたち10人くらいがやってきて、「金をくれよ!」と僕の周りにまとまりついた。どうやら、僕が薄汚れた服を着ていても彼らにはあまり関係ないらしい。

適当に相手をしていると、子どもたちは何度も僕の方にやってきて、僕は次第にうっとうしさを感じるようになってきたが、子どもたちは最後には握手して去っていった。何だかかわいらしさもあって、ただ単に僕がからかわれていただけなのかもしれない。

BLUEZONEを出たあとは、スーパーまでビールを買い出しに行ってきた。その成果がこちら。

ギニアの国旗と地図をモチーフにしたラベルのビールはとてもまずく、もう1つのビールはおいしかった。

それがこの「33 EXPORT」。ラベルはベトナムのビール「333」(バーバーバー)を思い起こさせるが、実際にはこの「33」のほうが起源は古い。フランス発祥の33はアフリカ各国でも広く展開されているブランドで、かつてフランスの植民地だったベトナムでも飲まれていた。ベトナム戦争後に共産主義政権が樹立され、政権にとって33は過去の資本主義の忌々しい記憶として映ったため、新たに「3」を1つ付け加えて売られたのが現在の333なのだとか。

ベトナムの話に飛んでしまったが、この日はビールを飲んで昼寝して、ゆるく過ごす1日になった。

夜はまたいつもの店。シエラレオネのビザが国境で撮れるのかどうか確認したかったが、結局、それは分からずじまい。

「明日、ナイジェリアのビザが取れたら、元日に次の国へと向かうことにしたよ」

そう伝えると、「ここでの年越しはすごくいいぞ」と返ってきた。クリスマスムードも全然なかったこの街で、年越しだけ盛り上がることなどあるのだろうか。

ちなみに、この日、頼んだメニューはポテト、豆料理、牛肉だった。豆料理はできたてで、とてもおいしかった。

新年、ようやくコナクリを脱出?

旅をしている半年あまりの間だけでもいろいろあった2018年の大みそか、おなかの調子を崩した状態で目が覚めた。前日のビールがこたえていただろうことが予測できた。

この日は昼からナイジェリア大使館に行くことになっていて、ひとまずBLUEZONEへ。しかし、この日はWi-Fiを使うためのコードが発行できないらしく、しかたなくのんびり過ごすことに。月末ということもあり、発行できる回数の上限に達していたのかもしれない。

14時を目指してナイジェリア大使館に行った。無事にビザが下りていて、少し緊張して受け取ったパスポートには、しっかり3か月間有効のビザが貼られていた。空路などの制限もなかった。

「やった!完全勝利!」うれしくなって、大使館を出ると日本にいるゆっきーへ真っ先にLINEで報告。前日も行ったスーパーでビールとつまみの菓子を買い、宿に戻って、時差で先に日付が変わろうとしていた日本の新年とともに、ナイジェリアビザの取得を祝った。

夕方は、この日もいつものレストラン。楽しみがWi-Fiとレストランとなってしまったここ数日のルーティンも、この日が最後ということで、チキン入りのスパゲッティを注文し、食べ終わったあとにはオーナーと一緒に記念撮影した。1週間以上この店に毎日通っていたにもかかわらず、オーナーの写真を撮ったのはこの日が初めてだった。ただ、その写真はここでは紹介できない。いまはその理由を明かすタイミングではなく、いずれ紹介できるときがくるだろう。

コナクリでの滞在は結局、9日間に及んでいた。そして、ナイジェリアのビザを得るという久しぶりの達成感を最後に味わった。これだけやりきった思いになったのは、ポルトガルのサン・ビセンテ岬にたどり着いたとき以来だろうか。あの岬も、いま思えば1つの終着点だった。そのときにはまだ2018年の終着点がどこになるのか見えていなかったが、それは結局、この西アフリカの、日本人にとってはマイナーな国の首都になった。

そういえば、北海道を旅しているときに好きなものの1つに、JR北海道の車内自動放送がある。男性の声の響きが落ち着くのと、終点のことを「終着」と言うところが気に入っていた。

コナクリで過ごす最後となるだろう夜は、宿で荷造りをしながら過ごした。オーナーの話とは裏腹に、キリスト教の施設の大みそかは静かで、僕にとって普段と何も変わりのない夜だった。

明日こそはシオラレオネに向けて出発だ――。国境でビザを取れるのかどうか、まだ定かではなかったが、これ以上、この街にいる理由はなくなった。

翌朝は早朝の出発となる。新年を前に、外はにぎやかになっていくのかもしれなかったが、それを見にいく余裕もなく、2018年の1年間をじっくりと振り返る心の余裕もなく、翌日に控える移動のことを考えながら、早めの眠りについた。