マリ その2 行き場を失った旅仲間たちとの楽しいひととき

西アフリカのマリの首都・バマコに滞在していた僕は、観光の見どころがたくさんありながらも、目下の治安情勢からそれらを見にいくのを諦めて、他国へと移動することに決めた。そして、隣国、ブルキナファソのビザを得るため首都に留まっていた。

僕が泊まっていた宿には、西アフリカで1人旅をしているバックパッカーが集っていた。誰もが僕と同じようにこの国での行き場を失っていて、束の間の休息を取りつつ、それぞれ次の目的地に向けて発とうとしていた。それは、見方を変えれば学生寮に集う下宿生たちのようでもあり、僕自身は経験したことがなかった寮生活をしているような、どこか懐かしく、貴重な時間だった。

そして、しばらく宿にとどまっていたバックパッカーたちに対して、宿のオーナーからとびきりのプレゼントが待っていた。

引き続き首都でビザ取り

バマコでの滞在を始めてから6日目となった1月15日、ようやくコートジボワールをビザを得ることができた。陸続きで旅しようとするとギニアかセネガルに戻るしか選択肢のなかった僕の旅のルートに、新たな選択肢が生まれた。そして、僕はブルキナファソのビザも取ってから、次の国へ移動しようと考えていた。

16日は朝7時に起きてから早速、ブルキナファソ大使館へと向かった。

宿の周りはとても静かだったものの。

いつも通っていたニジェール川に架かる橋の1本西にある橋を通ってみると、状況は一変。道路はこれまでに見たことのない混雑ぶりで、ここは台湾かベトナムか?と感じるくらい、バイクの大群が車道の一角を占めていた。ここバマコにも通勤ラッシュというものがあるのだろうか。ただ、中央分離帯を挟んだ反対車線はかなり空いていた。

こちらは、橋を渡ってからしばらく直進したときの様子。橋を渡り終えると車やバイクの流れは分散するようだった。

コートジボワール大使館に通っていたときにも思っていたが、幹線道路にはバイクレーンまであり、道路もフリータウン、コナクリ、ビサウなど近隣国の首都よりも整っていることに改めて気づいた。主立った交差点には機関銃を持った警察官が配置されていて、ピリッとしたムードも若干ながら感じた。

上の写真の奥に見えているモニュメントは平和祈念碑(Monument de la Paix)。平和を象徴する鳩の姿もあった。ただ、皮肉にもマリでは2010年代に北部でイスラム武装勢力が伸長し、徐々に国内の平和が侵されてきていて、混乱の波は南下を続けている。

宿からブルキナファソ大使館までは、歩いて片道50分ほどの道のりだった。大使館のビザの部門は朝8時30分から開いていて、僕が一番乗り。ここではコートジボワール大使館以上にフランス語しか通じなかったが、90日間有効のシングルビザを申請できて、パスポートを預けた。翌日にはビザが受け取れるという。

その帰り、ニジェール川を渡る前に「Hanako」と書かれたオフィスを発見。こういう日本にも通じる名称を見かけるのが、西アフリカでのささやかな楽しみになっていた。

川に架かる橋を渡って南側に入ると、そこには庶民的な街並みが広がっていた。この日もやはりロバを見かけて、ほっこりした。とはいっても、たいていは現地の人に使役されていたのだが。

ここ数日でマリから先の国に陸続きで進めることが確定したため、他国へ向かう手はずを整えることにした。向かったのは、長距離バスを運行している会社「Africa Tour Trans」のオフィス。

オフィスに着き、実際に確認してみると、コートジボワールの最大都市アビジャン行きが出ていたので、そこに向かうことにした。18日出発の便のチケットを取ろうとしたら、月、水、土曜しか運行していないらしく、19日夕方に出発するチケットを手に入れた。

こちらは、バス会社のオフィスの近くで見かけた建物。観光ツアー会社のオフィスらしい。大阪・舞洲やオーストリア・ウィーンで見かけた変な形をしたごみ処理場を思い出した。

宿に戻ると、イギリス人のクリスがこの日、宿を発ったということを同じドミトリーのブラジル人、パウロから聞いた。次の行き先は確認しなかったらしい。

ところで、近隣諸国の旅に関する情報でいえば、僕がギニアにいた2018年の年末に取得したナイジェリアの観光ビザは、2019年1月からはどこの国にある大使館でであろうが、発給が停止されたという。その理由は、2月下旬から大統領選や州知事・州議会選など大型の選挙が控えているから、ということだそうで、6月までの暫定措置のようだったが、正直なところ、どのような事情があったのかはよく分からない。

何の告知もなく、あるいは直前の告知でいきなりその国のルールが変わるのは、モロッコの冬時間の廃止をはじめアフリカではすでに経験してきたが、日本ではなかなか考えられず、文化の違いとともに、恐ろしさを感じた。

ただ、そんなわけで、僕は結果的にはタイミングよくビザを取ったということのようだ。

壮観のニジェール川クルーズ

この日は夕方から、宿のオーナーがニジェール川のクルーズに連れていってくれるという話があり、実際に連れていってもらった。パウロやスイス人のラファエルらが一緒だった。

16時30分過ぎに宿を出発して、皆で川へ。ギニア側の上流、南西の方角へと向かった。

船はモーターで動くようになっていて、2階建て。まずは1階でのんびりした。動画の中でずっと話しているのは宿のオーナー。

2階に上がって360度カメラで撮ってみた光景。

この巨大な建物はバマコでもひと際浮いた存在で、オーナーの説明では政府機関が入っているとのことだったが、実際には西アフリカ諸国中央銀行(BCEAO)のビルで20階建てらしい。川から見ると、昔の子供向けアニメにでも出てきそうな、悪役の居城のように浮き上がっていた。

僕が何より心を奪われたのは、この川で仕事をしている現地の人たちの姿だった。

みんなそれぞれにいい表情をしていた。そして、その仕事の厳しさを感じ取れる瞬間もあった。こうして皆、その日その瞬間の営みをしていてこの世界は紡がれている、ということが頭の中にすっと入ってきた。これこそが大事なことだったように思う。

日が陰ってきて、船は折り返して宿の方面へと戻っていった。

夕日に映える現地の人たちの姿。

帰り、船の上から橋を見上げると、とめどなく行き交う車やバイクが見えた。ずっと見ていても飽きなそうだった。みんな今を生きている。そして僕も。

ところで、パウロは「水面に反射したものを写真で撮影するのが嫌いだ」と盛んに主張していた。「ネットがあれば一言も話さずに旅ができるけど、そんなことは求めていない。触れ合いがしたいんだ」とも。僕は、彼が主張することに対してこだわりはなかった。感じ方は人それぞれだ。

2つの橋を戻って、陸に上がってからは宿で落ち着いた。この日の晩ご飯にはハンバーガーを食べると、肉っぽさが気に入って、以後の定番となった。

誰もがこの地を去るとき

翌17日は、前日のクルーズでも一緒したラファエルがギニアに向けて旅立つということで、レストランで見送った。ギニアの後はリベリアに向かうらしく、僕に対して「モンロビアでまた会おう!」と言って去っていった。

仮にコートジボワールのあと、観光ビザを取ってリベリアに向かったとしても、首都のモンロビアまで行くことになれば、それはつい年明けに通り過ぎたばかりのシエラレオネのすぐ近くにまで戻ることを意味する。さすがに行く気にはなれないと思ったものの、その場に水を差すようで口には出せなかった。

この日はブルキナファソ大使館でビザの受け取りも無事終えて、もうバマコでやることはなくなった。帰る途中に立ち寄ったスーパーで、セネガル産のヨーグルトが大量に置いてあるのを見つけて、宿に戻ってからパウロに報告すると、「一緒に買いにいこう」という話になり、2人でまた出かけることに。

旅は出会いと別れの繰り返しとはいうものの、パウロと知り合って1か月近く、ギニアビサウから旅路を共にしたり離れたりしてきたなか、こうして連れ立って行動するのもこれが最後かもしれないと思うと、しみじみするものがあった。

翌18日は、パウロとお別れの日。深夜の便でスペインに向かうということで、出発準備を整えるパウロとは対照的に、僕は宿でのんびりパソコン作業をして過ごしていた。

夜はパウロとともに宿のレストランでハンバーガーセットを頼み、一緒に食べた。その後、宿のオーナーが雇ったドライバーに連れられて宿の外に出て、肩を抱き合ってお礼を言った。

「また会おう!」

パウロは力強くそう言って去っていった。その言葉が、僕にはうれしかった。

この日、ドミトリーでは1人になるかと思いきや、セネガルの首都ダカールから着いたばかりというスロバキア人の男性がやってきた。バスが途中でトラブルを起こし、5時間くらい立ち往生したという。そのため疲れていたらしく、早めに電気を消して寝たいという。

他の人につられて消灯時間が早まるのも、ドミトリーならでは。この男性は、次にはブルキナファソのボボ・ディウラッソに向かい、最後は首都ワガドゥグから母国に帰る予定という。西アフリカには、短期の旅行で来ているとのことだった。

そして翌18日朝、6時ごろに誰かが出ていく気配を感じた。その後、起きてみると、やはり男性はもういなかった。嵐のように来て嵐のように去っていくのもなかなか大変だ。特に、移動にかかる時間が読めない、ここ西アフリカのようなところでは。

さらに翌日、今度はいよいよ僕がここマリを去る日を迎えた。10日間を過ごしたこの宿は快適だったので離れづらくなっていたものの、出るタイミングがあるとしたらそれはこの日だ。

朝ご飯を食べてから荷物をまとめて、遅めの昼にハンバーガーを食べてから、15時30分くらいに宿を出た。

タクシーでバスターミナルへと行き、乗客らの荷物を載せていると時間はすぐにすぎて、定刻の18時に出発。日本でもよく見かけるような観光バスに乗り込んで、今回は快適な移動になりそうだった。バスは中国製で、座席のシートは購入時のままと思われるビニールシートに覆われていた。そういったバス会社の意識もあってか、車内はきれいに保たれていた。

クーラーが寒いくらいにきいていたものの、乗って早々、眠りにつく。出発から3時間30分ほど経ったところで警察による検問があり、女性警察官に起こされてパスポートを渡した。マリのスタンプをなかなか見つけられなかったようで、僕の方から該当のページを指し示す必要があった。日本を出てからここまで、ずいぶん長旅になっていた。

20日に日付が変わって間もなく、国境付近の街のシカソで大量に乗客が乗ってきた。それまでは2座席分を占めることができていたものの、ここからは1人分のスペースに。それでも、ギニアやシエラレオネでの長距離移動を思い返すと、よほど快適だった。

そして未明の2時30分ごろ、マリ側の国境に到着した。ここでの出国審査はパスポートを預けて1人ずつ呼ばれるやり方で、僕の順番は最後の方だったが、何の問題もなく通過できた。バマコでの出発時間をもっと早めてくれたら、もっと体が楽になるのに。眠気まじりにそう思いながら、次なる国、僕にとって運命の地となるコートジボワールに入ろうとしていた。

旅の情報

旅する40代男の視点からみたマリ

この国で滞在したのは南部のバマコのみだった。首都はよく整備されていて、幹線道路にはアスファルトがしっかりと敷かれていた。車やバイクも多く、活気にあふれていた。だが、広い国土の中で、首都がこの国の姿を象徴していたとは、とても言えないように思う。

かつてはニジェール川の交易で栄え、トゥアレグ族が往来する砂漠の街トンブクトゥ、同じく古くから交易で栄えたジェンネ、ソンガイ帝国の首都だったガオ、独特の風習を持つモプティ州のドゴン族の集落はいずれも、マリの北部か中部にある。

気候も、トンブクトゥやガオなどがある北部と、バマコなどの南部では全く違う。首都にいると、現地の食事情も残念ながらよく伝わってこなかった。

首都バマコの街中を歩いていて、ロバの多さにこの国の現状を若干は感じることができたとは思う。これまでに訪れたアフリカの国々で、ロバが活躍している街はモロッコの一部の都市を除いて経済的にはそれほど豊かではなかった。バマコでさえそうなのだから、地方に行けばもっと状況は悪く、イスラム武装勢力が台頭しているなかでの窮状もしのばれた。

近年のマリをめぐる状況に対して、恨めしい思いも多少はある。本音を言えば、2010年代にこの国でイスラム武装勢力が台頭して混乱する前、この国がもっと安定していた時期にこそ旅をしたかった。

しかし、時期によってその国の旅のしやすさは変わるのが常だ。多くの国で政情が安定していないアフリカではなおさら、そう言える。例えば、マリが僕のような外国人旅行者でも訪れやすかった1990年代から2000年代前半にかけて、シエラレオネやリベリアなどでは内戦状態が長く、安全に旅をすることは難しかった。

スリーピングキャメルに泊まっているとき、よく目に付いたのが、壁に描かれたブルキナファソの英雄、トーマス・サンカラの肖像画だ。

サンカラは1980年代に大統領として女性の社会進出や汚職撲滅といった政策を進め、当時、オートボルタだった国名を「高潔な人の祖国」という意味の現国名に変えた人物。「アフリカのチェ・ゲバラ」とも称され、今でもカリスマ的な人気を誇っている。いずれまた、紹介する機会があるかもしれない。

サンカラは残念ながら1987年に暗殺されてしまい、ブルキナファソでは後任の大統領が独裁政権を27年間続けた。そして2010年代半ばからは、マリと同じくイスラム武装勢力が台頭し、治安の悪化が急速に進んでいる。

マリに話を戻そう。2023年4月現在、マリ国内は僕が旅していたとき以上に治安情勢が悪化している。僕が現地にいたときに夢想した、国内の観光地に足を運べる日は近づくどころか、遠ざかっているのが現状だ。

マリでは2020年、2021年と2年続けてクーデターが発生した。近年は傑出した指導者が現れておらず、混乱が収まる気配はどこにも見出せていない。日本の外務省の海外安全ホームページでは、ほぼ全土でレベル4の退避勧告が出ており、もはや旅が可能な状況ではなくなっている。

いまは現地情勢を注視するしかないのは残念としか言いようがない。それでも、また平和な日々が来て、2019年にはたどり着けなかった地に足を踏み入れる日が、やがて訪れると信じている。