リベリア その1 ここは見棄てられた地?港町の廃墟と過酷な移動

旅の行方を左右する事件を経て、僕はコートジボワールの最大都市アビジャンからから西へと向かった。この国に滞在した9日間を振り返る余裕もなく、国境の税関で外貨の持ち出し制限を理由に厳しいチェックを受けたものの、何とか切り抜けて西隣の国、リベリアに入国した。次の目的地はこの国の南東部の港町・ハーパー。そこから先のルートは、具体的には決めていなかった。

リベリアに入国する前から分かっていたのは、国内は道路事情が悪く、首都のモンロビアとハーパーを最短距離でつなぐ幹線道路は存在しないということと、ハーパーから国内のどこかへ移動しようとすれば、北から回り込んで、途中までは未舗装の悪路を進むしかないということだった。

そういう意味では、ハーパーを含む同国東部はいわば国から見棄てられた地といえるかもしれない。僕はどちらかといえば、この国の首都よりも、光の当たりにくい地域にこそ関心があり、同国東部がどのような地なのかひとまず確かめたいと思っていた。

群衆の様子がおかしい

リベリア側の国境で三輪タクシーに乗った僕は、雨をしのぎつつ、その後やってきたもう1人の乗客とともにハーパーへと向かった。町に入るか、北の方へ行くかというT字路で警察に止められて、パスポートチェックを受けたものの、そこは特に問題はなく通過できた。リベリアは英語圏で、言葉が通じやすいのはありがたかった。

それにしても、さっき入国審査受けたばかりなんだから、間違いなどあるはずないだろうとも思っていたら、町に近づくと不穏な空気が漂ってきた。多数の黒人が縄で作った私設の検問所のようなものを設けて通行する車を通せんぼしていて、タクシーに向かってそれぞれが口々に何か叫んでいた。こちらに危害を加えるつもりはなかったようだが、それ以降も私設検問所がいくつかあり、中には花いちもんめの遊びのように、横に隊列を組んでこちらに向かってくる人たちもいて、異様な雰囲気が漂っていた。

それでも何とかハーパーに着いた。僕が三輪タクシーの運転手に両替できる場所に連れていってくれるよう頼むと、彼はリクエストを素直に聞いてくれて、その後、僕が目指していた宿「Adina Guest House」にも向かってくれた。両替屋は閉まっていたところを、わざわざ別の場所から両替商を呼んできて、一瞬だけ開けてくれた。この日は火曜で、西暦でもイスラム暦でも平日だ。いったい何だろうか。

運転手は「ハーパーを案内するよ」と言ってきたが、僕は「1人で回りたいんだ」ときっぱり断った。それでも運転手は去り際、「明日も来てもいいか」と言ってきたので、僕は適当に「オーケー」と言ったが、果たして来るだろうか。この国の人たちは約束通りやってくるような国民性なのだろうか。

宿に着いた。この宿は英語のガイドブック「ロンリープラネット」にも載っていて、思いのほか小さな町で唯一信頼できそうな宿泊施設のように思えた。1泊30米ドルの割にはクーラーなし、Wi-Fiなし、シャワーはバケツ水、電気は18時まで動かないと価格に見合ったものとはいえそうになかったが、他に選択肢はなかった。部屋もそれ以外も清潔そうだったのが、唯一の救いだった。

しかし、この日のハーパーの町は雰囲気が明らかにおかしかった。宿の前でも黒人たちが声を張り上げながら何かやっていて、不穏な空気だ。道路や歩道には大小の石が転がっていた。それでも、意を決して外に出ていった。

ハーパーは緑豊かな田舎町という風情で、食べられるところがないか探したものの、全く見当たらない。しかも、時には現地住民の行進のようなものに遭遇した。

「何かの祝日なのか?」と道行く人に尋ねたら、
「そうだよ。祝日だ」と返ってきた。

宿に帰って、男性のオーナーに食事をするところがないか聞くと、近場の海沿いのレストランに連れていってくれた。道すがら、今日これまでに見た光景について尋ねると、どうやら若者たちのデモが行われていたらしく「店は略奪などを恐れて閉めている」という。だから両替屋も店を閉めざるを得なかったのだろう。

せっかく訪れた海沿いのレストランは、19時か20時にならないと料理を提供できないらしい。いったん宿に戻ってその時間まで待つことにした。

宿ではバケツシャワーを浴びたり洗濯したりと諸々のことをした。外を眺めると、客待ちをしているバイクタクシーの運転手がいるくらいで騒ぎは完全に収まっていたが、投石の跡らしきものが路上に散見された。宿の近くには警察署があり、この周囲ではその警察署が主な標的になっていたようだ。

部屋に戻ってくつろいでいると、宿のオーナーがノックしてきた。電気がつく時間になったので、扇風機が動くように調整にきてくれたようだ。そして「夕食に行く準備ができていたら、出かけるよ」と言われたので、外出することにした。

すたすたと歩くオーナーの後ろをついていった。さっきの店に行くのかと思いきや、海沿いとは離れた別の店のようだ。道すがら、バイクに乗ったアジア系の男が声をかけてきた。中国語だった。どうやら僕を中国人と間違えたらしい。中国人はこんなところでも生活しているのだ、それに対してわれわれ日本人はどうだろうか思うと、彼我の力の差を改めて思い知らされた気がした。

店に着いた。そこにはレストランの看板は掲げられていなかった。それにしても、宿のオーナーはなぜここまでやってくれているのだろうか。信用してよいものかどうか、どこかで騙す気なのかもしれない。僕は裏読みをしてしまい、何だかしんどくなってきて、連れてきてくれた店の前で帰ろうかと思った。けれども、思い直して中に入った。

すると、きちんとした魚料理、正確にいえば魚が入ったスープが出てきた。オーナーのおばが経営しているらしく、料金も300リベリアドル(200円)と宿代の高さと比べればはるかに良心的。とても満足して宿に戻ってきた。そして、オーナーの人柄は結構信頼できそうだった。

港町の廃墟

僕はリベリアを訪れる際、遠く離れた西部のモンロビアまで足を伸ばすことは考えていなかった。というのも、先に紹介したリベリア国内の道路事情を考えると、ハーパーからモンロビアまで往復するだけで1週間くらいは取られそうだった。

この日、1月30日の時点で西アフリカを発つと決めた日まで残り21日、ちょうど3週間しかない。モンロビアに寄っていると、ブルキナファソを訪れる時間がなくなってしまう。

そしてもう1つ、リベリアという国は見たいとは思ったものの、首都を見ておきたいという思いはさほど強くなかった。

1990年ごろからのリベリアは、西隣の国、シエラレオネと似た経緯をたどっている。リベリアはシエラレオネで内戦があったとの同じ時期、1989年から2003年にかけて内戦を経験した。それぞれの国の内戦がお互いに影響した形だった。ただ、シエラレオネの内戦は「紛争ダイヤモンド」の問題で世界的に知られているのに対して、リベリアの内戦は、それほどまでには取り上げられてこなかったように感じる。

そんなリベリアの2010年代の状況が、テレビ東京の番組「ハイパーハードボイルドグルメリポート」の初回で放送されている。2017年にこの番組が始まった際、番組プロデューサーが最初に目を付けたのが、世界から忘れ去られた最貧国とされるリベリアだったらしい。

リベリア政府かどこかから横流しされた日本の支援物資による食事、エボラ出血熱の生存者の食事、内戦時の少女兵で現在は娼婦として生活している女性の食事など、「食」を通して現地事情を紐解くという内容だ。番組では、墓地で暮らす元少年兵たちの巣窟の取材などが強烈なインパクトをもたらしていた。この番組は、優れた放送番組に贈られるギャラクシー賞のテレビ部門の賞を2017年と2019年の2度にわたり受賞している。

僕が旅に出ていたときは、その番組の存在さえ知らなかった。もし、この番組を出国前に見ていたとしたら、モンロビアには必ず寄ろうと考えたに違いない。ただ、残念ながら、僕はその番組を見ていなかった。

そして、すでにシエラレオネの首都・フリータウンを訪れてきていて、おそらくモンロビアも同じ英語圏の隣国の首都として、フリータウンと同じような雰囲気だろうと勝手に想像し、それで十分だと思っていた。

ハーパーに着いた翌朝から、本格的に町の散策を始めた。とはいっても、長距離移動の連続で手元の飲料水を切らしていたので、まずはそこからのスタートだった。

ここハーパーでは、水とともにビスケットなどを買おうと思っても、取り扱っていそうな店が見当たらない。仕方なく水だけ買って帰ることにして、店を探しているとようやく見つかった。水も高いのではないかと思ったが、ビニールの水パック7個で35リベリアドル(24円)と思いのほか安かった。おそらく、これまでに旅してきた西アフリカの国々でも最安値ではないだろうか。

滞在していた部屋は朝8時過ぎには電気が来なくなり、扇風機も回らなくなって暑くなったので、ベランダに出て涼んでいた。すると、手錠をつながれた男が警察署に連行されて入っていく姿が見えた。ちょうど宿にいるボーイが来たのでどういう話か尋ねたら、この近くで殺人事件があり、その容疑者なのだという。この町に暮らす人々は、ちょっとした話でもすぐに伝わるくらいの距離感で生活しているようだった。

ベランダでうたたねをしそうになり、部屋に戻って眠っていると13時ごろになっていた。朝から何も食べていなかったため、昼ご飯を求めて出かけることにした。

店に向かう途中で見かけた床屋とみられる店の外壁。男性の横顔を描いたデザインは、西アフリカ一帯で不思議なほど変化がない。

メイン道路の2本南の道から見える風景。海の近さを実感した。日本ならリゾート地になってもおかしくなさそうな雰囲気だ。

昨日と同じ店に行くと、営業していたので、300リベリアドルで作ってもらえる食事をお願いした。すると、昨夜とは別の魚スープとご飯、最後にデザートのパイナップルが出てきた。落ち着いた店内も相まって、安心して食べられる味だった。

店を出てからは、南の方の港沿いの道を歩いた。

すると、そこは廃墟の宝庫だった。この神殿のような建物にはアンテナも立っており、まだ住居か何かで使われているのかもしれない。

別の角度から。

神殿のような建物の向かいは人家のようにも見えたが、良いように解釈してもまだ造りかけにしか見えなかった。

こちらは屋根と2階部分に樹木が生えており、明らかに廃墟だ。

こういった建物や土台群が、コンクリートで固められた町のメイン道路沿いに連なっていた。

別の廃墟。これだけ建物が朽ちていても、道路の状態のよさはかろうじて維持されているようだ。

実は前日、三輪タクシーで送ってもらった時にここまで来ていた。運転手が「ゲストハウスだ」と案内して最初に連れていった建物が右奥に見える。周りには店もなく怖い雰囲気で、ここにしなくてよかったと思った。

さらに進むと道路舗装もなくなり、陸続きの半島の先まで見えた。僕が今いるあたりが、ギニア湾の西端にあたるパルマス岬だ。

ギニア湾は、ここから東に遠く離れたアフリカ中央部の国、ガボンのロペス岬まで広大な範囲に及ぶ。どうやら半島の方角にはレストランがあるようだったが、ここで引き返すことにした。

メイン道路から外れた道を行くと、史跡のような場所も。

ただでさえ人通りがない道で、ここで強盗などに襲われるとどうにもならなさそうなので、来た道を戻った。

今度は浜辺沿いをいくと、この町にはめずらしく看板があった。

「デニッシュ・レフュジー・カウンシル」と書かれていた。ウィキペディアによると、デンマークの首都コペンハーゲンに本部を置いていて「主に難民支援を行う、非営利人道活動」を主体にしている団体という。看板はサビが進んでいて、完全に穴が開いている箇所もあった。かつてこの団体がハーパーで活動していたことは間違いないと思うが、今はどうなのだろう。

さらに海沿いを進むと、普遍的な浜辺の光景を見られて、少し安心した。

ギニア湾の西端の砂浜にこうして触れられただけで満足してしまい、これ以上、この町に滞在する意味はなくなってしまったと思った。それでも、移動に次ぐ移動で体力をだいぶ消耗していたので、あまり先を急がず、もう1日ハーパーに滞在することにした。

リバティとフリーダム

このころ読んでいた本がある。ライター・看護師の芳地直美さんが書いた「タムタムアフリカ―アフリカ大陸縦断キャンプ200日の旅」というノンフィクションで、僕はデジタルデータを手元に持っていた。筆者がアフリカをオーバーランドトラックで旅する話がメインで、帰国後、マサイ族の青年から手紙をもらったことがエピローグとなっている。その手紙には以下のように書かれていた。

自由という言葉は、リバティとフリーダムがあるんだけれど、政治や宗教、国家や権力にいくらしばられていても、心がリバティなら大丈夫なんだよ。君はサバンナで、自由になりたい、想像のアフリカはこんなものではない、もっと素敵な仲間にめぐりあいたいと言っていたね。ナオミの国、日本は経済大国で君はお金持ちだ。どこへでも行ける、なんでもできる。君はフリーダムを手に入れられる。でもね、いくらフリーダムな状況でも、リバティをつかむのは難しいよ。
僕は来年マサイの村を出ようと思う。タンザニアで彫刻家になろうと思うんだ。また落ち着いたら連絡するよ。
リバティ、リバティ、リバティ!!

この本が出版されたのは2000年、ということは、世界経済における日本のインパクトが今ほど落ちていなかったころだった。そして、長期凋落傾向の経済であっても、日本はこの西アフリカと比べるまでもまく、世界的に見ればまだ経済大国だといえる。

僕の頭はこのころ、「本当の自由とは何か」という考えに覆われていた。僕は日本に帰国したのち、どのように生きるのか。そこに何かしらの選択肢はあるのか。日本への帰国がちらつくと、「自由」というのはどうしても避けられないテーマになっていた。

シエラレオネで出会った日本人旅行者は仕事に縛られていた。そして、僕自身はこれまで旅に縛られていた。さらに加えると、僕は一時帰国したゆっきーと別れてしばらくして、この年の元日、どうも僕は1人旅で安宿と安い食事に縛られているのだな、と感じていた。くしくもその地はシエラレオネの首都・フリータウン、つまり「自由の町」で自分の心の中の不自由さを実感したのだった。

上の引用に出てくる「リバティ」と「フリーダム」という言葉。リバティが大事なことは十分に分かっているが、その一方で、フリーダムもないと、結局はフリーダムに囚われてしまう。アフリカの貧しい人たちの一部に見かけたような、金がなくても心の安寧が得られている人はそうそういない。僕も、まだ蓄えがあるから旅していても大丈夫なのだと思えていた。

これが例えば、学生時代の頃のように貯金もなく、学費など何らかの支払いに迫られている状況なら、僕はどんな思いになるだろうか。

今時分、よく語られる「親ガチャ」という言葉は、僕の学生時代には存在していなかった。そして、その言葉は僕が大学生のころ、周りの友人・知人たちを見ながら嫌というほど感じてきた、いや、見せつけられ認識させられてきたというべき思いを一言で表していた。

もちろん、親ガチャの恩恵に授かっている人間にとっても、それを自覚しているかどうかで、人間性の深みは年齢を経るにつれて大きく異なってくるだろう。僕自身、学生時分にはその親ガチャの次元から自由にならなければ、いくら「自由を謳歌している」といっても、本来の自由ではないと思っていた。今の環境であの学生時代に戻れたとしたら、僕は何を思うだろうか。

この先、僕ははたして勤め人、いわゆるサラリーマンでありながらリバティでいられるのだろうか。自給自足できるくらいでないとリバティは得られないかもしれないとも思うが、そんな生活ができるのだろうか。

そして、ここにきて初めて、僕は前職を辞める前、そういう道―つまり、サラリーマンでありながらリバティでいられる道―を志向しようとしていたのだ、ということが腑に落ちた。

でも、生きる場所も仕事の内容も行動もある程度、限定された勤め方をしていては、僕は結局、リバティを得られなかったかもしれない。その仕事をつき進めていくと、どんどん心の自由がなくなり、絡めとられていくだけに思えたのは、心の持ちようがそうだったからなのだろうか、実際の生活もそうだったからだろうか。そして、歳を取るごとに可能性が狭まっていくような思いが募ったからだろうか。

答えは出なかった。

ハーパー最後の日と決めたこの日の昼ご飯も、同じ店に行った。この日は豆入りの魚ご飯だった。

魚が鯛のような味でとてもおいしかった。このお店も見納めだろうということで、いくつかの角度から店内の写真を撮って思い出にした。この国でも、気兼ねなく写真が撮れるのは人がいない場所か、どこかの建物内にいるときだけなのは変わりなかった。

この日は天気がよくなく、宿にいる時間が長かった。それでも食事の行き来に合わせて少し散歩した。

この町で最もきれいな建物は教会で、それは何かを物語っているように感じられた。

ハーパーには京都の天橋立を思わせるような砂州があり、そこも訪れてみた。

近づくと、思いのほか広々とした砂浜が広がる。砂洲は全体で8.5キロほどもあるようで、歩き通すのは難しそうだったので遠目で眺めるだけにした。

海沿いのレストランは、現地にしては最大限のリゾート気分に浸れる場所かもしれない。

宿に戻ってきた。この町は取りたてて何があるというわけではなかったものの、僕の中では新たな発見があった。

ハードな移動

2月に入って最初の日が、ハーパーを発つ日になった。前日は天気が悪かったものの、この日は快晴。8時前にチェックアウトすると、宿のオーナーがバイクタクシーを呼んでくれた。北に約30キロ離れたプリボーという町に乗り合いタクシーがあるらしく、そこまではバイクタクシーで向かう必要があるという。運転手は若い男性で、人の良さそうな雰囲気だった。道は舗装されていて車通りも少なく、空気がおいしく感じた。

プリボーはハーパーよりにぎわっていた。メインの道路から少し外れたところにあるバスターミナルへと連れていってもらい、確認するとリベリア北東部のズウェドルという町までの路線があった。

問題となったのは運賃で、5,000リベリアドル(約3,400円)と、西アフリカの運賃としては異様に高い。これまでの肌感覚より5倍くらいはしていそうだ。それでも、外国人向けのぼったくり価格ではなく正規運賃だという。リベリア東部では公共交通の需要があまりないのかもしれず、高いのだろうと自分に言い聞かせて支払った。

あと1人乗客が来たら出発らしく、不足していたリベリアドルを両替してしばらくたたずんでいると、乗客がそろって出発した。僕の座席は2列目の右から2番目で、今回は1列に4人並べられて久しぶりに辛い移動になった。しかも、町を出て20分ほどすると舗装道路ではなくなり、西アフリカでの移動の例に漏れず、窓が全開だったため赤土を顔に体に思いきりかぶることになった。

ところで、Googleマップをベースにした上の地図をじっくり見てもらったら分かると思うが、今回の乗り合いタクシーはプリボーの北、フィッシュタウンより先はGoogleマップに載っている幹線道路(薄い黄色の線)をほとんど通っていない。航空写真で見ると、この幹線道路はほぼ森林で覆われていて、おそらく通行不可能か、雨が少ない時期など季節限定でしか通れない道だと思われる。

その一方で、リベリアの数少ない見どころの1つ、サポ国立公園からいくぶん東に離れたところに、かろうじてGoogleマップ上にも認められる細い道路、それも地図上では途中で行き止まりとされている道路があり、それが地域の幹線道路の役割を果たしていた。

日本の常識では、Googleマップが使い物にならないとは考えにくい。しかし、ここリベリアや他の西アフリカでは、まったく当てにならないこともしばしばあった。

リベリアは検問が多く、僕はいちいちしっかりパスポートチェックをさせられていたので、かなり面倒くさかった。ただ、途中までは4人座りが特にしんどく、パスポートチェックが休憩時間になったのはよかったと思う。

今回の未舗装道路では、その3分の2ほどの区間で舗装工事が行われていた。どうも中国の手によるものらしい。中国人らしき現場監督の姿も何人か見かけたが、あまり驚きはなかった。シエラレオネも似たような状況で、こうした光景には既視感があった。アフリカにおける日本のプレゼンスは減少の一途をたどっていて、中国の影ばかりが目立っていた。

道中の半分くらいを進んだ14時30分ごろに昼の休憩があり、他の乗客に交じって食堂に入り、ハーパーで食べたような魚のスープご飯を食べた。スープは辛めで、汗が全身から噴き出してきた。手ふきとしてトイレットペーパーがあったので、汗をかいた顔を拭くと、赤土も一緒に取れてくるのが何とも言えない。西アフリカの醍醐味と、良いように捉えることにした。

さらに進み、乗り合いタクシーの全行程250キロあまりのうち、ようやく残り25キロ手前というところまでやってきて車が止まった。そのスキに写真を撮った。車が動いている間は狭い車内に赤土が入り込んでくるため、じっと耐え忍ぶしかない。そして、ほとんど何もなさそうな寒村でも、用があれば車は止まる。

こちらが今回乗った乗り合いタクシー。トヨタのロゴマークがあしらわれているので、1990年代以降の車体だろうか。高い運賃を支払っているとはいえ、乗り心地が良いとはいえなかったが、トラブルがなかっただけでもありがたかった。

ズウェドルには結局、18時30分ごろに到着した。日は落ちたもののまだギリギリ明るい、薄暮の微妙な時間。車から離れる前に、コートジボワールへの国境の越え方を乗客の人たちに確認したら、写真家の加納典明に似た男性が、ロンリープラネットをコピーした僕の地図を見ながら「この道だ」と教えてくれた。そこは、このズウェドルから最も近い国境越えのルートのようだったが、国境を通過することが可能な印は地図にはなかった。

世界最大のガイドブックには載っていないイミグレーションオフィスがあるのかどうか。そして、僕のような外国人が行き来できるのか。ガイドブックと地元の人、どちらが正しいのか。明日、行けるかどうか試してみることにした。

それにしても、この町ではロンリープラネットの情報は当てにならなかった。バイクタクシーに乗って、ガイドブックに紹介されていた安宿2軒を回ってみたものの、両方とも閉鎖されていた。この分では、国境も現地の人に聞いた情報の方が正しいのかもしれない。

バスターミナルに戻ってくるとすでに真っ暗になっていて、僕は歩いていけるところにあった宿「KUOH GUEST HOUSE」にチェックインした。部屋は2種類あり、それぞれ簡素だったものの広かった。僕は安い方の部屋に泊まることにした。

蚊帳や扇風機など最低限の設備は整っていた。

廊下の照明がなぜか赤っぽかった。ゲストハウスを名乗っているものの、もしかしたら連れ込み宿も兼ねているのかもしれない。

バスターミナルの近くに食堂は見当たらず、屋台が少しあるだけだった。食堂の類は暗くなると店じまいしてしまうのだろうか。食料品店をどうにか探し当て、ビールやコーラを購入して、宿に近くにあった屋台でつまみを買って部屋まで戻ってきた。

この日の夜の食事はこちら。食べ物はポップコーン、ポテトチップス、いかり豆のような豆だった。

この宿にはよく映る鏡があったので、自分の姿を眺めて撮影してみた。長いこと散髪しておらず、赤土まみれでよれよれのシャツをまといながら何とか旅を続け、長距離移動に耐えてきたその様は、良くいえば苦行を続ける行者、悪くいえば今にも行き倒れてしまいそうなホームレスのようだった。

朝を迎えると、うっすらと晴れていた。コートジボワールを出てから5日ぶりに同国に戻れるかどうか、ガイドブックには案内されていない国境越えを目指すことにした。

旅の情報

今回の宿

Adina Guest House
シングル 3泊 90米ドル(約9,900円)
設備:専用バスルーム(バケツシャワー)、専用トイレ
予約方法:なし
行き方:ハーパーのメイン道路の1本南側の道路沿い、警察署のあるT字路の道路を挟んだ斜めにある。
その他:部屋や建物は清潔だったが、その設備からするととにかく高い。せめて24時間電気が使えてエアコンがあるくらいでなければ、この価格に説得力がない。それでも成り立っているのは、競合相手がほとんどいないからだと思う。ちなみに、このゲストハウスの情報はGoogleマップには載っていない。

KUOH GUEST HOUSE
シングル 1泊 15米ドル(約1,600円)
設備:専用バスルーム(バケツシャワー)、専用トイレ
予約方法:なし
行き方:ズウェドルの市街地を南北に貫くメイン道路のガソリンスタンド「TOTAL」がある交差点から、西に歩いてすぐの南側。
その他:最低限の設備を備えた簡素なこの宿は、どこにも情報がなかった。ハーパーの宿と同じく、Googleマップには載っていない。

訪れた食事処

ハーパーの店名不明の食堂
注文品:魚スープ、ご飯(初回訪問時) 300リベリアドル(200円)
行き方:ハーパーのメイン通りからキリスト教の教会で北に曲がり、1本北で左に曲がって通りを西に向かって進むと、3ブロック先の右側に店がある。
その他:看板もなく見つけにくい。メニューは1度も出されたことはなく、客の注文に応じて料理を提供しているようだった。