リベリア その2・コートジボワール その4 国境またぎの環状移動で不審者扱いされる

西アフリカを発ち、日本に戻る予定の日まであと18日。旅も佳境に入り、僕は今までになく自分を見つめる境地に入っていた。その大きな要因は、西アフリカという日本とは著しくかけ離れた社会にあることに違いはなかったが、もう1つ、自分で終着点を定めてしまったことも大きかったと思う。そして、ここしばらくインターネット環境がなく、時間を持て余していたことも影響した。

だからといって、1カ所に留まり、ダラダラと考え続けているわけにもいかなかった。残された日は少ないのだから、行けるところには行って、できる限り爪跡を残してやろうとも思っていた。

そうなると、次のターゲットは必然的に、すでに観光ビザを持っていた内陸国、ブルキナファソになった。在コートジボワール大使館の領事が「(ブルキナファソに行くのは)死ににいくようなものです」と言うほど治安が悪化しているらしい彼の地は、この機会を逃せば行けるチャンスはやってこないかもしれない。

ブルキナファソはリベリアの北東の方角にあり、そこにたどり着くには、前回の国境越えで揉めた記憶の新しい、コートジボワールを再び通らなければならなかった。必然的に、移動のスピードが上がっていった。

未知(?)の国境を踏破!

2019年も2月に入って2日目。リベリアとコートジボワールの国境に近い町、ズウェドルに泊まっていた僕は、早朝から起き出して、出発準備を済ませると宿をチェックアウトしてすぐ近くにあるバスターミナルに出かけた。

目指すのは、リベリア側のトウタウン(Toetown)とコートジボワール側のトゥーレプル(Toulepleu)の間にあるとされる国境。西アフリカでしばらく一緒に旅をしていたブラジル人、パウロから譲り受けたロンリープラネットの地図には、その両都市間を結ぶ道には国境審査の場所はないことになっていた。

ちなみに、こちらはリベリア全図。パウロは国境線を自分の黒ペンでなぞり、人口や言語、首都も自らの字で書いていた。几帳面な性格であろうことが思い起こされた。それにしても、首都モンロビアまで行くとすれば、道のりは遠そうだった。

「国境を越えてコートジボワールに行きたいんだ」

僕がバスターミナルに着いて、周りにそう話すと、何人もの男たちが寄ってきて取り合いの様相に。僕は、その場に居合わせた警察官が推薦する10代か20代の運転手のバイクタクシーに乗って国境まで行くことにした。運賃は3,500リベリアドル(約2,400円)と相変わらず高かったが、運転手は、僕の手持ちの現地通貨が少し足りないくらいだったのを受け入れてくれて、巡り合わせがよいようにも感じられた。

7時40分ごろ出発して、未舗装路を延々と進んだ。時には悪路になり、時には少し走りやすい道になったりした。僕はバックパックとボストンバッグの大荷物を抱えていて、バランスを取るのが大変だった。ドライバーの若い男性は、運転の勘がいい方とはいえなかったものの、安全運転をしてくれて少しの不安も感じさせなかったのは、幸運だったかもしれない。

道も半ばというところで、運転手が「朝ご飯を食べたいからレストランに寄りたい」と言い出した。

「お金がないからいいよ」。僕は国境までの運賃でリベリアドルを使い果たしてしまっていた。

「その店のご飯はおいしいんだよ。その店の会計は僕が持つから。あと2時間はあるから、体力をつけておかなくちゃね」

運転手はそう返して僕の言うことを聞かない。やむなく、僕は荷物を手に店に入った。

きちんとした一軒家ではあるものの「レストラン」という響きから想像するような気取った店ではなく、日本でいうなら地方の食堂といった趣で、出てきた料理もキャッサバの葉が入ったスープとご飯だった。運転手は肉が入った茶色いスープと、初めて見る餅のような食べ物を注文していた。僕が食べたスープは、安定してキャッサバ料理として安定して楽しめる味だった。運転手からは、餅のような食べ物を勧められて、挑戦してみた。

水で手を洗ってから餅をこねて、スープに漬けて食べるらしい。この餅はスープに合っているとはいえず、衛生面も気になったので、あまり食べなかった。

会計の段になると、運転手は気前よく支払ってくれた。アフリカでこんな経験は初めてだったような気がした。1同じ世代の乗客ならともかく、40代におごるのはどんな気分なのだろう。ただ、その食事代は、元はといえば僕が支払った運賃から出てきているのだろうが。それも含めて運賃を払っていたと考えると、僕は気まずさを感じなかった。

レストランを出てからは、荷物を持つのも気分的に少し楽になった。トウタウンまで着き、運転手がそこから先の道を現地の人たちに尋ねると、そのうちの1人が「国境から先までは送っていく」と言いだした。その男性は、ギニアの首都コナクリでお世話になった施設と同じ「BLUE ZONE」と書かれた青いシャツを着ていて、流れに身を任せることにした。

結局、青シャツの男は僕たちについてきて、バイクタクシーで出発してから約3時間半、11時15分にリベリア側の国境に着いた。

この日の焦点だった税関、国境審査場の両方ともあり、ロンリープラネットの情報が正確ではなかったことをこの目で確かめた。

それにしても、地図に落としてみると、図らずもリベリア・コートジボワール間の国境を挟み、大きく時計回りで環状道路を移動しているかのようだ。後にこれが問題視されることになるとは、このときには知る由もなかった。

ここの税関では、すべての荷物を開けされられた上に賄賂も要求された。国境審査でも、最初にパスポートをチェックした人が「金をくれ」と言ってきたのを断り、別の人からの要求も断った。皆、地元民から賄賂をもらうのが当たり前になっているのだろうか。

ここで、ズウェドルから僕を運んでくれた運転手とお別れすることに。この運転手は線が細くてガツガツしておらず、どことなく乙女チックなところもある、好感の持てる若者だった。僕がつけていた、日本の100円ショップで買ったピンクのダイヤル錠が気に入っていたらしく、最後まで気になっていたようなので、不足していた運賃の足しにでもなればと思ってプレゼントした。すると、思いのほか喜んでくれた。3桁の暗証番号を教えたものの、すぐに忘れてしまったらしく、後でコートジボワール側の国境審査にやってきて番号を再確認していたのはご愛嬌か。

コートジボワール側では、まず最初に国境審査で賄賂を要求された。スタンプ1個が1,000セーファーフラン(190円)というのだが、僕が「ビザを発行してもらったときに、国境で追加のお金を支払う必要はないと言われた」と話すと諦めてくれた。

新たに僕をバイクタクシーで運んでくれることになった、青シャツの運転手の方が、むしろ僕とのやり取りを驚きの感じで見つめていたようだ。コートジボワールの出国時には苦杯をなめかけた税関は今回もまた、すべての荷物をばらされたものの、今回は所持金を分散して保管していたこともあって、全く突っ込まれずに済んだ。

今度は検問に引っかかる

国境を越えたあとは、ひとまずこの地の中心地、トゥーレプル(Toulépleu)を目指すことにした。コートジボワール側に来てから途中で検問が3回あり、通るたびに青シャツの運転手が賄賂を渡していた。これまでバイクタクシーの運転手がこのように賄賂を渡している場面に出くわしたことはなく、多少の驚きを禁じ得なかった。しかし、セットプラスなど乗り合いバンの運転手は、確かそんなシーンを見かけていたかもしれないと思い直すと、当たり前のようにも思えてくる。

3回目の検問では、僕のパスポートを見た警官が、あまりに僕が西アフリカをうろうろしていることに目を付けたようだ。僕がいったんコートジボワールを出国したものの、1週間も経たずにまた戻ってきたことが「特殊事情だ」ということで、警官は運転手に対して、最寄りの警察署に寄るよう指示していた。

多少なりともうまいこと立ち回ってくれないだろうかとも思ったが、残念ながら、この運転手は警察官に従う以外の選択肢を持ち合わせていなかったようだ。僕は結局、運転手に連れられてトゥーレプルの警察署まで行った。最大都市アビジャンに続き、この国では2度目の警察署となった。旅に出てから8カ月、コートジボワールに来るまでの道中では1度も警察のお世話になっていなかったことを思うと、不思議な思いにとらわれた。

署内では、警官に2階のオフィスまで連れていかれ、パスポートのコピーを取られた。運転手も通訳を兼ねて一緒に来てもらったが、何を言っているのかさっぱり伝わってこず、役に立たなかった。

警官には「この先どこに行くのか」といったことを聞かれ、「ダロアに行きたい」と僕は答えた。ダロアはトゥーレプルよりもかなり東に進んだところにあり、国境からトゥーレプルが20キロ余りだったのに対し、ダロアは250キロ以上離れていた。

すると、警官は新たにバイクタクシーを呼んでくれたようで、「このバイクタクシーで最寄りの町までいき、そこからはバスでダロアに行ける」と言っているらしい。運賃を聞くと15,000セーファー(約2,900円)。高いと思ったので断り、時間もいつの間にか昼下がりになっていたので、ひとまずこの日はトゥーレプルに留まることにした。警官は最後に僕の写真を撮影して、解放してくれた。

引き続き、雇っていたバイクタクシーの運転手にバス会社まで連れていってもらい、ダロアに向かうチケットを買おうとしたら、さらにその先にある首都・ヤムスクロ行きもあったので、それを買った。

1つ心配になったのは、その時間が夜中の3時発ということだ。どこでバスを待てばいいのか、正確なことも分からずじまい。果たして、トラブルなくバスに乗れるのだろうか。

この日の宿はまだ決まっていなかったものの、運転手は「当てがある」というのでそこに決めてしまった。そして、翌朝にバスが宿の近くまで来たときに、運転手から宿のオーナーに電話してもらい、僕を拾ってもらうことにした。この町は周辺の拠点になっている町とはいえ、ごく小規模だからこそできうる芸当なのだろう。

続いて、この日の宿に連れていってもらった。町の中心から歩いて10分ぐらいのところにあり、外見からはそれとは分からず、しかもかなりボロかった。

中に入ると、番号札と鍵をかけるコーナーがあったので、ここが宿だということは頭では理解できたものの、感情としては「この建物が?」と思わずにはいられなかった。

宿泊料金に不満はなく、ここでようやく青シャツの運転手と別れることに。最初の出会いからすると、思いのほか長い付き合いになった。3カ所の賄賂だけで6,000セーファー(約1,100円)も渡していたらしく、言い値の10,000セーファー(約1,900円)も正当な料金に思えてきて、言い値どおりに支払った。

この日は体を動かしていたわけではないものの、心も体も疲れていた。部屋で昼寝をして、起きたらもう17時を過ぎていた。

外に出かけると、屋台飯の延長線上にあるような店が見つかり、そこで晩ご飯を取ることにした。

半分外に面しているような雰囲気の店。西アフリカの田舎でも大都会でも、こういう場所でないとなかなか写真を撮りづらくなっていた。

バナナを揚げたような料理と水という取り合わせ。ここ西アフリカでも高級品の、ゆで卵が入っていたのは、ポイントが高かった。

宿に戻ってきて一息ついた。もちろん、この部屋にインターネット環境などは望むべくもない。図らずもデジタルデトックスになっていたものの、誰とも連絡を取れず情報を得られていないのは気になっていた。

2回目の首都へ

翌日は未明からヤムスクロを目指した。3時過ぎに青シャツ運転手が電話をかけてくれたようで、それは僕のところにまで伝わった。宿をチェックアウトして外に出ると、まだ真っ暗だった。

僕は道路に出てしばらく待っていたが、バスが通り過ぎそうな気配はなかった。どうしようか迷っていると、乗り合いタクシーが通りかかり、思い切って男性に聞いてみると、「バスの停留所まで行け」ということだった。そこで、バックパックを持ってこの町のバスターミナルまで行くと、バスが出発を待っていた。

そこに着いて10分ほどで出発した。宿の前でバスを延々待っていなくてよかった。

道は揺れがひどく、寝るのは一苦労だったが、明るくなってから分かったのは、舗装されている道路だけれども凸凹が多いということ。寝たり起きたりしているうちにバスはほぼ満席になり、客の乗降が多かったので進みは早くなかった。

昨日、目指そうとしてたどり着けなかったダロアの近郊まで来たところで、長い検問があった。僕はパスポートを見せたら問題なかったが、何人もが憲兵隊に連れていかれていた。さらに待っているとバスが進みだし、10時過ぎにようやくダロアに着いた。

ここダロアも閑散とした田舎町だった。ここまで7時間あまり。この調子だと、ヤムスクロに着くまでにあと4、5時間はかかりそうだった。

しかし、その先は道も整備されていて、ヤムスクロには13時過ぎに到着した。

こんなところで久しぶりの日本人?

バスターミナルの近くに宿を見つけて部屋を見せてもらった。あまりよくなさそうだったので、宿の出入口にいた英語を話せるおじさんの案内でもう1軒の方に行くと、エアコン付きで割ときれいだったものの、最初に見た宿の2倍近くの13,000セーファー(約2,500円)と言われた。自分の希望とは合わなかったので、最初の宿に戻ってチェックインした。

便座がなく、タンクのふたもどこかにいってしまっている様子が、この宿のクオリティを表しているような気がした。

ヤムスクロでは何泊するか、決めていなかった。ひとまず、Wi-Fiスポットを探しにいくことにした。

さすがに首都なのでどこかでWi-Fiを使えるところはあるだろうと高をくくっていたが、考えが甘かった。首都とはいっても、道路がだだっ広いだけで、ネットが使えそうなファストフード店がなければ、ネットカフェなども見当たらなかった。と、街を歩いていると驚くべき情報が入ってきた。

気温が39度?大通りに面した薬局の電光掲示板だった。この日は確かに暑い日だったものの、そこまでではない。温度計が狂っていたのだろう。ちなみに、ヤムスクロが1年で最も暑いのは2~4月、平均最高気温は33.5度と、近年の日本の夏の暑さを思えば、まだ知っている世界の範囲内のような気もする。

メインの道路を外れると、首都でありながら未舗装の道路もあった。それも、小道ではなくかなり広い道路だ。この道路のありようから、街の発展度合いも何となく呑み込めた。水たまりがあるということは、雨が降って間もないということ。雨の降る時期に差しかかってきているようだった。

さらに歩いていると、ロバの姿が見えた。

広い道路を悠然と横切るロバの姿を見ていると、うれしい思いになった。

日本に帰ってしまったチームシマのメンバー(ぬいぐるみ)、ロバ太郎は元気にしているだろうか。それにしても、道はだだっ広いだけで街歩きには適しておらず、あまり楽しくなかった。

宿に帰り、その場を仕切っていた少年に連れられて近くの屋台で昼ご飯を買い、宿に戻ってテラスで食べた。

こんな弁当が売ってあるのは西アフリカには珍しかった。味の方はそれなりだった。

ブルキナファソのボボ・ディウラッソ行きのバスを運行している会社を見つけていたので、日が暮れてから時刻表を確認しにいった。すると、週3便しか出ていないらしい。この日は2月3日の日曜で、月曜の便を逃すと次の運行は3日後の木曜になるという。

このヤムスクロは、夜の街を歩いていても安全そうだったが、それでも3日間も滞在するのは嫌だったので、急遽、チケットを買って翌日に出発することにした。この日、泊まった宿は少し売春宿のような雰囲気もあったので、1泊で十分という思いもしていた。

ただ、ブルキナファソ行きのバスは朝4時に出発と、ヤムスクロに向けて出発したバスと同じく、集合時間がかなり早かった。

ここのチケット売り場では「明日の乗客に日本人らしい人がもう1人いるよ」と言われた。僕からも見える位置に置いてあった乗客名簿を確認してみると、日本人かどうかは判別がつかなかった。翌朝、起きて行ってみれば分かることなので、翌日の楽しみに取っておくことにした。

旅の情報

今回の宿

トゥーレプルの名称不明の宿
シングル 1泊 5,000セーファー(950円)
設備:専用バスルーム(バケツシャワー)、専用トイレ
予約方法:なし
行き方:南北方向から東西方向に折れるA701の幹線道路で、東に曲がってから650メートル進み、北への道に入って5分ほど。
その他:外見からは、まず宿泊施設とは分からない。現地の知っている人に連れていってもらう必要がある。部屋は、正直にいえば、これまでに泊まった西アフリカの最低レベルの宿よりはマシというレベルだった。普段から営業しているのかどうかは不明。もちろん、この宿の情報はGoogleマップには載っていない。

AUBERGE KILNANA
シングル 1泊 7,000セーファー(約1,300円)
設備:専用バスルーム、専用トイレ
予約方法:なし
行き方:ヤムスクロのバスターミナルから南に歩いて1分。
その他:首都のバスターミナル周辺だけあって、宿泊先は他にも選択肢がある。売春宿の雰囲気も感じたので、宿代を抑えたい人以外は避けた方が無難かも。

訪れた食事処

トゥーレプルの店名不明の食堂
注文品:バナナ料理、ゆで卵 300セーファー(57円)
行き方:A701の幹線道路の西端から東に歩いて7、8分。
その他:がっちりした体格の女性が営んでいる屋台に毛が生えたような店で、オープンテラスのようになっていた。

旅する40代男の視点からみたリベリア

リベリアは、これまで見てきた他国と違って首都を含む国の大半を見ていないこともあって、きちんとしたことが言えないかもしれない。

最も印象に残っているのは、前回のタイトルにも書いたとおり、リベリア東部が見棄てられた地のように感じたこと。道路、電気をはじめとするインフラが整っておらず、訪れた町では、ハーパーは閑散としていた。そのハーパーよりも人口が少ないとされているズウェドルの方が、まだ活気があったものの、この町もインフラが整っていないことは明白だった。

かつて、ロシアを旅していたときに、最初に訪れたイルクーツクが随分と寂れた街だなと感じたことを思いだす。上の写真は街の一角だ。そこから西のモスクワに向けて移動するにつれて、訪れた都市がにぎやかで明るくなっていった。そして、シベリア地方はロシア国内ではあまり政府の金が入っておらず、冷遇されているのだろう、と感じたのだった。

問題は、ロシアでは恵まれない環境であってもそれなりにインフラが整っているのに対して、リベリアのような最貧国では、必要なレベルも満たされずに放っておかれているように感じることだ。同国の首都・モンロビアはどんなインフラ環境だったのだろうか、今でこそ気になっている。

ただ、そんな中央からはないがしろにされてきた地であったからこそ、利便性から離れて、インターネットがさほど整っていなかった1990年代ごろにやっていたような旅をする環境に恵まれたようにも思う。

僕にとっては、1月上旬に訪れたシエラレオネ以来の英語圏の国だったこともあって、多少は旅しやすくなりそうな思いもあった。しかし、リベリア東部は思っていた以上に田舎で、外国人旅行者、とりわけ僕のような東洋人はほとんど訪れる環境になく、とにかく目立って心理的にやり辛さがあった。その反面、犯罪に遭いそうな雰囲気はさほど感じなかった。皆あまり観光客慣れしておらず、役人以外はいい人が多そうだった。

リベリアを観光で訪れたいという人は、近隣の西アフリカを訪れようとする人と同じく、よほどの旅好きだろう。この西アフリカの中でリベリアの優位性を挙げるとすれば、上で書いたようなその「見棄てられ感」があるように思う。どちらかといえば、首都よりも地方、都会より田舎を訪れたほうがより醍醐味を感じられる国だ。次にもしこの国に行く機会があれば、ぜひ首都にも行って、自分で立てた仮説を確かめたい。