コートジボワール その6 あっけない幕切れ 旅を切り上げて帰国!

日本への帰国を前に、コートジボワールの最大都市アビジャンにたどり着いた僕は、毎日のように街を徘徊しながら9カ月にわたる旅をかみしめていた。

日々をのんびり過ごしているうちに、コートジボワールを発つまで1週間を切った。そのタイミングで、家族が重篤な状態になっているという一報が日本から舞い込んできた。その結果、僕はまた1つの決断をする。

そして、僕にはもう1つの思いが芽生えつつあるなか、帰国の日を迎えた。今回は2019年2月15日から17日までの記録。

「世界遺産」の名に惹かれたものの

アビジャンで強盗事件に遭った2日後の1月25日、僕は帰国便のチケットを取っていた。それは、2月19日未明にアビジャン国際空港(フェリックス・ウフェ・ボワニ国際空港)を出発、リスボン経由でパリに行き、そこで1日滞在したのちに中国・厦門を経て成田に22日、帰ってくるというものだった。

コートジボワールでの滞在期間も残り4日間となった2月15日は、世界遺産のグラン・バッサムに行くことにした。アビジャンからはバスで片道1時間以内の距離にあった。

しかし、手軽に行けそうなイメージとは裏腹に、泊まっている宿から日帰りで訪問するには多少の困難を伴いそうだった。というのも、グラン・バッサム行きのバスはアビジャンでも南の方にあるトレッシュビル(Treichville)から出ていて、市内でもかなり北にある宿からは相当離れていたからだ。

残りわずかとなった旅の期間を考えると、同じ宿の中でダブルからシングルの部屋への引っ越しが終わった次の日、つまりこの日が訪問の最大のチャンスだった。

朝9時ごろに宿を出発した。宿の近くにあるいつものターミナルに行くと、この日はバス待ちの列ができていて、切符売りの人までいた。この時間帯だと通勤・通学で混むのかもしれない。

路線番号82番のガレ・スッド(Gare Sud)行きの乗り場で待っていたら、隣の列の81番、ガレ・ノード(Gare Nord)行きが先にきたので、それに乗って終点でトレッシュビル行きに乗り換えて、グラン・バッサム行きのバスターミナル(Gare de Bassum)を目指すことにした。

路線バスは途中までは順調に走ったものの、アジャメ(Adjamé)に入ったあたりで渋滞がひどくなり、ガレ・ノードへの到着はかなり遅くなった。アジャメ付近に来るのは強盗事件に遭ってから初めてで、事件を思い出すので近寄りたくなかったが、これも何かの巡り合わせだったのかもしれない。

ガレ・ノードに着き、トレッシュビル行きの路線バスを待ったもののなかなかこず、大幅に時間をロスした。SOTRA社(アビジャン交通公社)が運営を一手に担っているアビジャンのバス網には時刻表がなく、路線によって本数や待ち時間にばらつきが大きい。おそらく、実需要に基づいたダイヤは組まれておらず、経験や勘でオペレーションをしているのだろう。

トレッシュビル行きのバスに乗ってからもアジャメの喧騒にぶち当たり、なかなか前に進まない。タッチ感度が悪くなっている手持ちのスマートフォンでも、何とか写真が撮れるだけの時間があった。

どうにも、グラン・バッサムよりもこの喧騒を見にきたような気分になり、そしてまだ心の傷跡が残る強盗事件を総括させてくれているような気さえした。

アジャメを離れてトレッシュビルに近づいてくると、西アフリカ有数の都市らしく、他ではあまり見かけない、新しめの大規模な建物も見かけた。その前の路上にはごみ収集用のコンテナが野ざらしで無数に置かれ、大量のごみがたまっている中を屋台が軒を連ね、人々が行き交っていたのがアビジャンならではの光景だったが。

トレッシュビルに着いた時点で12時を少し回っていた。北から南まで距離はあったとはいえ、宿を出てからグラン・バッサム行きのバスターミナルまで片道3時間かかった。同じ市内の移動とはとても思えなかった。

このままグラン・バッサムまで往復すると帰りは相当遅くなりそうで、諦め半分でバスターミナルまで足を運んだ。そこはカオス状態で、どれが目的の乗り物かさえ分からず、正午を回ってあらかたの客は移動した後だったのか、待っている客もまばらだった。これではどうにもならなそうだ。諦めもついた。

反省する部分があるとすれば、最初にアビジャンを訪れてトレッシュビルに泊まった際にグラン・バッサムまで行っておけばよかったということだろうか。最初の宿からなら、このバスターミナルまで歩いてこれただろう。

ただ、アビジャンに着いた当初は、いずれ東隣のガーナまで陸続きに旅する延長線上でグラン・バッサムにも寄れるだろう、というくらいに考えていた。強盗事件がプランを変えてしまったのだ。

せっかくなので、このバスターミナルにある屋台で昼ご飯を食べていくことにした。おそらくバスの乗客を主なターゲットにしているのだろう。久々のキャッサバご飯を食べるとおなかが減っていたせいもあってか、濃い味つけがそのときの気分に合っていておいしかった。

宿への帰りはガレ・サッド経由でと思っていたものの、ガレ・ノード行きしか見当たらず、空いていて座れるバスに乗った。終点で行きと同じ82番のバスが間髪いれずにやってきて、アビジャンにしてはめずらしくスムーズに乗り換えできた。それでも道は渋滞していて、車内の風通しも悪く、蒸し暑くて熱中症になりそうだった。

わずか3日間ながら滞在を切り上げ

宿に着くと、昼下がりになっていた。日本から前日の続きの連絡が来ていて、義父は緊急入院でもう先が長くないこと、生きているうちに帰国が間に合ったら真っ先に会ってほしいことが書いてあった。妻のゆっきーの末妹は、すでに遠くから飛行機ではるばる東京に来ていて、外国に住む長妹もまもなく日本に来るらしい。

思ったより深刻な容態のようだった。僕の帰国便は19日に迫っていたが、悠長に待っていられなくなった。どうすれば最も早く日本に帰れるかネットで調べた。最短で16日のエチオピア航空便で帰ると17日の日曜夜には成田に着くことが分かり、すでに予約している航空券を捨ててでも、新たにチケットを手に入れることに決めた。

しかし、何度試してもネットで決済できず、やむなく航空券をホールドという形で予約した。出発の2時間前までにオフィスで購入すればいいということのようだった。そして16日の朝、早めに空港に行って買うことにした。

それからは、航空券の予約書類を印刷しにいき、夕食にいつもの店までヤッサプレを食べにいき、小銭を使い切るためスーパーで買い物をして宿に戻ってきた。旅がこういう形で終わるなんて、本当に摩訶不思議だな、と思いながら。

義父の様子が心配だった。すでに取った航空券のために時間を無駄にしたくはなかった。最後に少しでも話をしたい。もし意識がなくなっていたとしても、少しの間だけでも回復してくれたら。そう思いながら、妻のゆっきーをはじめ必要な人たちに連絡を取った。荷造りを進めると、思いのほかあっさりと終わったものの、それでも時刻は24時ごろになっていて、そこからは横になりながら、この9カ月の旅やこれから先の話など、様々なことに思いを巡らせていた。

エチオピア経由で久しぶりの日本へ

アフリカを去る2月16日は、朝3時15分過ぎに目が覚めた。部屋のクーラーを回したまま寝てしまっていて、それで体が反応したらしい。出発準備をしていると、宿の人たちが起きてくる様子も伝わってきた。目覚めてから2時間後、宿の女性に呼ばれて出発した。車で空港まで送ってくれたのは男性だった。

ちなみに、今回泊まっていた「Villa CB」はシングルの部屋を4泊で予約していたので、あと2泊分残っていた。スタッフに義父が間もなく亡くなりそうなこと、ここでの滞在を急遽切り上げて帰国することにしたことを告げると、ネット予約していた4泊を2泊にしてくれて、残りの宿泊料金はキャンセル料なしで返してくれた。

このあたりは、帰りに滞在予定だったフランス・パリのホテルがきっちりキャンセル料を取られたのとは違っていて、温かい人情味を感じさせた。

空港までの道のりは、これまでの昼間の混みようが嘘のように空いていて、午前6時にもならない時間に到着し、むしろ航空会社のカウンターが開いていなかった。幸いにも空いているベンチが見つかり、そこで体を休めることにした。

朝8時ほぼきっかりにエチオピア航空のオフィスに入ると、男性スタッフたちがバーガーキングで買ってきた包み紙を開いて朝ごはんを食べていた。「今日のチケットを買いたい」と伝えてパスポートとクレジットカードを渡したらすぐに手配してくれて、Eチケットを印刷した紙をくれた。

そこからは手続きがスイスイと進む。チェックインと預け入れ荷物のチェックを同じカウンターで済ませて2階に上がり、出国審査と手荷物の検査をすると、免税店のエリアに入ってしまい、あとは搭乗を待つだけになった。待合ではWi-Fiができたので、改めて日本にフライトの連絡をした。そして、50000セーファーフラン(約7,500円)余りあったお金は手元に残ったままになった。

アディスアベバ行きの飛行機は定刻より約15分遅れの10時58分にアビジャンを出発。機内食もきっちりと出てきた。西アフリカで普段食べていた食事よりも明らかに豪華に見えた。品数の多さがよりそう思わせたのかもしれない。

機内の個別モニターでは邦画も見ることができ、2本見ているうちにアディスアベバのボレ国際空港に到着した。もう西アフリカを離れ、日本に向かっていることを否が応でも実感する。

ボレ国際空港までは5時間半ほどのフライトで、アフリカの東西移動とはいえ結構長かった。空港に到着したときには時差の関係で19時を回っていて、すっかり夜になっていた。

この空港は東アフリカのハブ空港になっているだけあってかなり大きく、多くの人で混雑して店舗もそろっていた。アビジャンの空港とは全然違っていて、見るからに東洋系の人たちもたくさんいた。

Wi-Fiがつながり、改めて連絡を取って義父の容態を確認した。義父は輸血を受けると元気になり、退院に向けた準備を始めているらしい。ただ、医者の話によると余命は長くはなく、「持って今年いっぱい、早ければ今月にも危険な状態になる」ということだった。

次のフライトの出発予定は22時30分ごろ、翌日の午後に韓国・仁川国際空港に到着、そのまま乗り続けて成田空港には19時20分着の予定になっていた。

成田行きの航空便は定刻より20分ほど遅れて出発した。夜の街を上から眺める限り、アディスアベバもアビジャンと同じく大都会のようだった。

ここから飛行機に乗っている時間は合計で13時間50分のロングフライトで、仁川での待機時間を含めると15時間近い時間を過ごすことになる。

今回は先ほどのアビジャン発のアディスアベバ行きとは違って機内はかなり空いていて、僕は3席を1人で独占できたため、横になって寝ることもできた。

邦画や邦訳映画のプログラムはさほど多くはなく、楽しみといえば機内食くらいしかなくなった。

翌17日の昼下がり、韓国までやってきた。仁川に着いたのは15時20分ごろで、乗客は全員が1度は降りる必要があった。

そして、17時30分過ぎに成田行きが離陸した。エチオピア航空の機内安全ビデオを見るのは3度目だったが、途中、なぜか舞台が機内からプールサイドに変わり、フライトアテンダント役らしき女性が緊張感なく救命胴衣を膨らませていて、相変わらずどこか間が抜けていた。

そういえば、旅に出たときのフライトで見た中国国際航空の機内安全ビデオはパンダが主役で、今回のビデオ以上に滑稽なものだったっけ。

何度目か忘れそうになる機内食も、これが最後。

成田空港の近くまでやってきたが、ここは日本かと思うくらいに光が少ない。それにしても、あまり感傷的な思いにならないのはどうしてだろうかと思う。帰国後には義父の介護をはじめ、やることが多すぎることをつい考えてしまい、気持ちが盛り上がらないのかもしれない。

その一方で、感慨にはふけっていた。この9か月間で僕が得たものは、外形的には何もないが、僕自身は変わったなと。変わった部分を示すものが何もないにしても、嫌気をさすこともなく旅をやり続けてきたこと自体が1つの成長の証なのだと思っていた。人間は、いざとなればどうにでも生きていけるものだ。

ヨーロッパでは日本に足りないもの、日本の方が優れているものを感じた。アフリカでは自分にあるもの、ないものを感じる自分との出会いの旅だった。ゆっきーとの2人旅の期間では、自分との出会いというよりは自分に対する気づきも多くあり、その多くはゆっきーからもたらされたものだった。

もちろん、旅を途中でやめなければならない悔しさもあった。特に、ずっと訪れたいと思っていた西アフリカでの陸続きの旅を中断したことには、大きな悔いも残った。でも、それ以上にこのまま西アフリカでの旅を続けることに疲れていた。

空港には、ゆっきーと末妹が車で迎えにきてくれていた。

僕には1つの決意が生まれていた。いつか態勢を整え直してまたアフリカに帰ってくる、そして旅の続きをやる。今回、くしくも現地通貨の50,000セーファーが残ってしまった。アフリカの地に思いを残した僕に、「その思いを忘れず日本で生活するように」と何らかの力が知らせてくれているのかもしれない。

その通貨を持って、近いうちに僕はまた戻っていく。そう心に誓って成田の地を踏みしめた。

旅の情報

訪れた食事処

アビジャン・トレッシュビル地区の店名不明の屋台食堂
注文品:魚の定食 500セーファー(90円)
行き方:トレッシュビルのグラン・バッサム行きバス乗り場(Gare de Bassam)にある。
その他:昼時をやや過ぎたころに入ったが、現地の人たちでまあまあ繁盛していた。他にどんなメニューがあるのかはよく分からなかった。

旅する40代男の視点からみたコートジボワール

コートジボワールには合計すると20日近くいた。モロッコ、ロシアと並んで滞在期間が長く、移動距離も当然のように長くなり、都市部にも地方にも滞在した。実際に現地を旅した感覚からいえば、大都市としてアビジャンが傑出していて、ほかは首都のヤムスクロであっても都市部とは感じられず、地方という印象から抜けきれなかった。

その大都市アビジャンは、光と影の部分が色濃かった。都市の発展の象徴として西アフリカでは比類なきビル群が中心市街地にそびえ、Wi-Fi環境を求めたらすぐに手に入れられるなど、他国の主要都市と比べても、都市としての集積はずば抜けていたように思う。

その一方で、僕が強盗に襲われたように、体感治安は良いとはいえず滞在しやすかったわけではない。悪臭を放つごみ収集用コンテナのすぐそばで飲食の屋台が営業していたり、多くの人たちが行き交いしていたりと、日本では想像しがたい生活環境が広がっている地区も多かった。特にごみ処理システムの不備では、西アフリカの大都市に共通する深刻な問題を抱えている様子が色濃かった。

旅している身からすると、コートジボワールでは都市よりも、田舎とまではいかない地方のほうが旅しやすかった。基本的に街の規模が小さく、歩いていける距離で大抵の用事が済み、ほしいサービスやモノがそろう環境だったからだ。アビジャンは街の規模の割に、公共交通での移動手段や利便性が十分とはいえず、路線バスや水上交通は1時間以上待つことも。頼みの綱のタクシーも、運転手のレベルが低くて目的地になかなかたどりつけず、時間と気力をいたずらに消費した記憶が強い。

この国で長いこと旅をした理由は、主に強盗事件の発生と帰国への準備だったが、それがなければもう少し短期間で切り上げて次の国、ガーナに移ろうとしていたかもしれない。

日本国籍を持っている人が日本国外でガーナビザを取るのは非常にハードルが高いのだが、2019年2月当時、コートジボワールの3カ月マルチプルビザを持っていれば、それがコートジボワールでの在住証明書と同じ扱いになって、同国のガーナ大使館でビザを受け取る道が開けていた。

しかし、西アフリカの国々のビザ発行事情はすぐに変わる。そのうえ、ガーナは2020年の新型コロナウイルスの拡大の際、アフリカ大陸の中でもいち早く国境対策を取ったように、国境管理には特に厳しい国だ。思い違いかもしれないが、3カ月マルチビザによるコートジボワールの在住者扱いはなくなって、アビジャンではビザが取れなくなっているという情報を目にしたこともあった。西アフリカで陸続きの旅をする上で、ガーナビザの取得は今後も困難であり続けるかもしれない。

話をコートジボワールに戻そう。この国では、人々がそれなりに優しかった記憶もある。特に、強盗事件に遭った直後に助けてくれた人たちには感謝しかない。その一方で、国境の税関で難癖をつけてわいろを要求してきたり、移動経路から不審者扱いをしてきたりと、できる限り相対したくないような人たちも一定数はいた。もちろん強盗もそれらに含まれる。

ただ、テロなどに関しては、隣接するマリやブルキナファソと違って不安を感じなかった。この国で2000年代から2010年代にかけて2度の内戦があったとは思えないほどだった。道路も割と整備されているほうで、移動に困難が伴う経験はなかった。そういう点は旅行客としてありがたかった。

旧宗主国のフランスによる安全情報を見ると、ブルキナファソやマリとの国境近辺は赤で覆われていて危険度の高い状況が続いているが、それ以外の地域は総じて危険度はそれほど高くないという評価だ。

観光という視点では、この国の数少ない世界遺産、グラン・バッサムに行けなかったこともあって体験に基づくことが言えない部分もあるが、コートジボワールは見どころが少ない国だと思う。他の旅行者のグラン・バッサムの旅行記を読んで、それほど惹かれるものはなかった。それよりも、この国では基本的に海沿いのリゾート地が観光の目玉なのかなと思うし、むしろ、アビジャンの高層ビル群などを確認していきながら、西アフリカの中でのこの国、この都市のここ7、80年ほどの立ち位置を確認するほうが興味深いかもしれない。

僕にとってコートジボワールは旅の節目となった国だが、そこで何かを得た、何をやったというわけではなかったとしみじみ思う。そして、何をやったらいいと勧めたいものもないのが正直なところだ。

というわけで、この旅で訪れた最後の国のレビューはここまで。次回、旅のエピローグとして、最後にまとめをしたい。